歴史の勉強
蜂須賀茂韶 はちすかもちあき
父:蜂須賀斉裕、母:山村氏、幼名:氏太郎、正室:斐
従四位上、阿波守、侍従
弘化3年(1846年)8月8日生、明治元年(1868年)6月襲封、大正7年(1918年)2月10日没
阿波徳島25万6940石

徳島藩最後の藩主となる茂韶は、先代斉裕の嫡子として江戸で生まれ、明治元年(1868年)斉裕の死去によって襲封した。
茂韶は、襲封すると直ちに倒幕派を宣言して、戊辰戦争に参戦し、その最終段階である東北白河口に派兵して朝敵の汚名を免れることができた。
一方で淡路洲本の城代である稲田家は早くから倒幕を鮮明にして、徳島藩とはかかわりなく戊辰戦争に参加ており、その行動は評価されていた。

明治2年(1869年)の版籍奉還により茂韶は徳島藩知事となり、藩制を総務・民政・会計・軍制の四局制に改編し、旧藩士を士族として10等級に格付けし、その給与は旧俸禄の一割に削減した。
また陪臣は士族とされずに銃卒とされた。この改革に不満を持つ稲田家では明治3年(1870年)に戊辰戦争での功績を理由に、藩知事に対して主従の士族編入を願ったが拒否された。
すると淡路を徳島藩から分離し、当主稲田邦稙を藩知事とするよう政府に要請した。この動きに対して藩では稲田家を排斥し、襲撃事件まで起きた。

政府では稲田家の独立を認める代わりに北海道移住を命じ、襲撃事件を起こした藩士を処罰した。これが廃藩置県後に淡路が徳島県ではなく兵庫県にされた理由という。
その廃藩置県は明治4年(1871年)に行なわれ、茂韶も免官となった。

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