歴史の勉強
蜂須賀斉裕 はちすかなりひろ
父:徳川家斉、母:土屋氏、幼名:松菊、正室:愛(鷹司政通女)
正四位上、阿波守、参議
文政4年(1821年)9月19日生、天保14年(1843年)10月襲封、明治元年(1868年)正月6日没
阿波徳島25万6940石

斉裕は十一代将軍徳川家斉の第22子で、文政4年(1821年)江戸城で生まれ、文政10年(1827年)閏6月先代藩主斉昌に養子となり、天保14年(1843年)斉昌の隠居により家督を継いだ。
斉裕の時代は激動の時代で、その幕開きはすでに先代斉昌の時に訪れていた。文政12年(1829年)に海部郡の沖に黒船が停泊し大騒動になった。
これにより藩では海岸部に対する防備に重点をおき、とくに淡路の防備を強化、淡路洲本城代の稲田氏が海防の責任者となった。
一方、天保年間に入ると財政難は進み、藩内では大規模な一揆が発生した。

家督を継いだ斉裕は、この時局に対処するために財政と軍制の改革を柱とした藩政改革を計画したが、重臣たちの協力を得られずに挫折し、そのために財政の窮乏化が一層進んだ。
藩では藩士の知行地の3割削減を行なったが、所詮対症療法に過ぎず、財政悪化には歯止めがかからなかった。仕方なく領内の富商からの献金や借金で賄わざるを得なかった。
一方幕府からは江戸湾の大森と羽田の警備を割り当てられて原士を派遣、軍制を英国式に切り替え、淡路の由良と岩屋に砲台を構築した。
また、人材育成の為に江戸藩邸に長久館を開校して文武の鍛錬に資した。

幕府は文久2年(1862年)斉裕を陸軍総裁兼海軍総裁に任命したが、重臣たちは辞任を求めている。これは徳島藩が佐幕派と見られることを恐れたためにとされる。
一方で斉裕の政治方針は公武合体であり、軍事総裁就任もその路線を主導するためであったらしい。
このような状況中で第一次長州征伐が起き、徳島藩も参加。これが徳島藩に佐幕派の印象を与えた。さらに第二次長州征伐にも参加を要請され、断りきれずに兵船を讃岐沖まで進めたところで、征長は中止となった。

その後斉裕は元治元年に京都警備の為に藩兵を派遣、一方で城下に人材育成の為に洋学校を開校、イギリス公使アーネスト・サトウを城下に招いて意見交換するなどした。
これらは外部からは開明派とも見られる反面、佐幕派の一面も否定できず、事実藩内の意思統一が図られないまま時間が経過した。
このような中、重臣稲田家は藩論とは関係なく、攘夷派として行動し始めた。これは後に稲田家の独立騒動である、稲田騒動に発展していく。
斉裕は最後まで倒幕か佐幕かを鮮明にせず、明治元年(1868年)正月6日に48歳で死去した。

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