| 歴史の勉強 | ||||
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| 蜂須賀斉昌 はちすかなりまさ | ||||
| 父:蜂須賀治昭、母:辻氏、幼名:千松丸、正室:穠(井伊直中女) 従四位下、阿波守、侍従 寛政7年(1795年)7月10日生、文化10年(1813年)9月襲封、安政6年(1859年)9月13日没 阿波徳島25万6940石 | ||||
| 先代治昭の第2子として徳島で生まれ、誕生の翌月に治昭の嗣子となり、文化10年(1813年)に治昭の隠居により家督を継いだ。 文化12年(1815年)に幕府より寛永寺修理の課役を課され、翌文化13年には藩内に大洪水があり、天保5年(1834年)江戸藩邸が焼失、天保8年(1837年)不作による飢饉、翌天保9年甲州諸河川堤防修築お手伝い普請など災害や課役に対する出費が増大した。 これに対して悪化していた財政はさらに悪化したが、その対策としては節約や課税強化など消極的なものしかとれなかった。 このために領内では一揆が多発する。とくに天保12年(1841年)12月に三好郡山城谷の村民が隣接する伊予国今治藩領に逃散した。 これは、この地域で栽培されていた煙草に対する課税強化に端を発した騒動で、結局藩は農民達の要求を全面的に認めなければならなかった。 この事件は他藩との交渉を必要としたが、その交渉中にも逃散に加わらなかった村々の百姓が蜂起し、打ちこわしをはじめ、一揆は三好・美馬・阿波・板野の各郡に拡大していった。 これらは上郡一揆といわれ、藩では一揆の解決の為に農民に対して大幅に譲歩、仕置家老賀島政延を罷免し、一揆の指導者まで減刑せざるを得なかった。 一方で、幕末に世は向かって急速に変革しており、その象徴的な出来事の一つであった上郡一揆は、藩の重臣稲田家を敏感にさせた。 稲田家の家臣も当然に一揆の標的にされ、それが稲田家中の論を倒幕に向けていくのである。 そのような波乱の芽を持ったまま、斉昌は天保14年(1843年)10月に隠居し、16年後の安政6年(1859年)9月13日に65歳で徳島で没した。 |
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