歴史の勉強
蜂須賀治昭 はちすかはるあき
父:蜂須賀重喜、母:立花氏、幼名:千松丸、正室:俊(井伊直幸女)
従四位下、阿波守、侍従
宝暦7年(1757年)11月24日生、明和6年(1769年)10月襲封、文化11年(1814年)3月24日没
阿波徳島25万6940石

治昭は先代重喜の嫡子として江戸に生まれ、明和6年(1769年)に藩政改革を巡る藩内の不和を幕府から咎められた重喜が、隠居させられたのを受けて藩主となった。
安永3年に水害が発生し、その後の天明から寛政年間にかけても水害が相次ぎ年貢収入が減少し、藩士の俸禄を4割減とした。
藩財政は一層困窮化し、治昭は仕置家老長谷川貞幹の困窮二十余条を採用し、寛政7年(1795年)に藩費節減、藩士増禄5年間停止、萱野空地の開発、在府費用抑制、などを柱とした改革を実施した。

しかし公儀より関東諸河川の堤の改修工事を命ぜられて、藩財政は再び悪化、このために打ち直し検地を実施して年貢の増収を図ろうとする案が出たが、過酷過ぎるということで中止した。
一方で人材育成策として寛政3年に寺島学問所を創立し、藩士から庶民まで入学を許した。
また、海部郡では米の一粒選り、つまり米を一粒一粒選り分け上質米を年貢として納めさせるという気の遠くなるような作業を強制した郡代佐和瀧三郎らに反発した農民が土佐藩領に逃散し、佐和が改易され処刑されるという事件も起きた。
治昭は文化10年(1813年)9月に隠居し、翌文化11年3月24日に58歳で没した。

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