| 歴史の勉強 | ||||
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| 蜂須賀重喜 はちすかしげよし | ||||
| 父:佐竹義道、母:内藤氏、幼名:岩五郎、正室:伝(立花貞淑女) 従四位下、阿波守、侍従 元文3年(1738年)2月27日生、宝暦4年(1754年)8月襲封、享和元年(1801年)10月20日没 阿波徳島25万6940石 | ||||
| 出羽秋田新田藩主佐竹義道の第4子として江戸で生まれ、宝暦4年(1754年)6月に先代至央の養子となり、翌7月に至央が病死したために家督を継いだ。 悪化した藩財政の建て直しに意欲を燃やした重喜は、吉野川流域の藍作に注目して、葉藍の売買に税をかけることにした。同時に寝床株を定めて、小規模業者を切り捨てようとした。 このために宝暦6年(1756年)11月に農民が立ち上がり一揆を起こした。これを藍騒動という。藩では農民の要求を入れざるを得なくなり、藍改革は頓挫した。 藍に対する新税賦課が不発に終わり、重喜は行政機構の再編強化策として職班俸禄制を実施した。徳島藩では役職と給禄によって班が編成されていたが、高禄者が当然のように高位についた。 重喜は低禄者でも高位につけるように編成を解体し、職に応じて加禄し、職を去れば原班に戻して禄も元に復するとした。しかし、この案は老臣山田織部真恒ら守旧派の反対で実現は見送られた。 重喜はあきらめず、筆頭家老稲田九郎兵衛稙久の協力を得て案を強行、反対する山田真恒を罷免し閉門とした。また山田真恒と同調した賀島政良と長谷川貞幹も閉門とされ、家老5人のうち3人が罷免されるという事態となった。 重喜は改革を推し進めるために自らも倹約の先頭に立ち、藩主の経費を千両から二百両に削り、食膳は一汁一菜、世子の乳母を2人から1人にし、正室や子供の費用も9割をカット、衣服も擦り切れるまで着用するなど徹底した倹約で範を示した。 行事も公儀と関係のない行事は一切中止、社倉を設けて穀物を備蓄、困窮化した家臣には藩米売却で得た金を貸し付けた。 また御鷹場を開発して新田にし、職人の失業対策として藩主別邸を建築した。これらの改革を率先したのは仕置家老となった稲田九郎兵衛稙久で、明和3年(1766年)には若年寄を設けて柏木友郷を任用した。 だが、これらの改革は反発も強く、藩上層部の不和を招いた。これが幕府に聞こえ、明和6年(1769年)に出府した重喜は藩内の不和について設問され、閉門となった。 同年10月に隠居させられ、家督を嫡子治昭に譲る。安永2年(1773年)に帰国を許されると大谷に別邸を設け、今度は著名な金蒔絵師観松斎桃葉を召抱えたり、陶芸や茶道に嵩ずるなど派手で豪奢な生活を始めた。 これがまた幕府に聞こえ、幕府は重喜を江戸に呼んで幽閉しようとしたが、治昭は老中に哀訴し、江戸幽閉は免れた。 治昭の諌めもあって、以後は質素な生活に戻り、享和元年(1801年)10月20日64歳で死去した。 |
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