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| 蜂須賀綱矩 はちすかつなのり | ||||
| 父:蜂須賀隆矩、母:松平氏、幼名:熊太郎、正室:園(奥津氏) 従四位下、淡路守、侍従 寛文元年(1661年)5月28日生、延宝6年(1678年)10月襲封、享保15年(1730年)11月7日没 阿波徳島25万6940石 | ||||
| 先代の綱通には子がなく、そのために連枝の蜂須賀隆矩(先々代光隆の弟)の長子綱矩を養子として立て、延宝6年(1678年)に綱通が死去すると18歳で襲封し、綱通同様蜂須賀隆重(光隆の弟)の後見を受けた。 襲封の際に隆重に5万石を分与して富田藩が立てられたが、この富田藩は隆長、正員と継がれ、正員は享保10年(1725年)に綱矩の養子となったので、廃された。 襲封2年目の延宝8年(1680年)5月に徳島藩に預けられていた前佐倉藩主堀田正信が自害し、幕府から監視の落度があったとして閉門を命ぜられた。この閉門は数ヶ月で解かれている。 一方、先々代光隆のころから悪化し始めた藩財政は、このころには慢性的赤字が続き、天和元年(1681年)には藩士の俸禄の1割を減じている。 その財政悪化に追い討ちをかけるように、宝永4年10月に大地震があり徳島城下は家屋の多数が倒壊し、海部郡一帯には津波が襲った。 享保6年には6月から8月にかけて大雨があり、田畑に甚大な被害が出た。 綱矩は文化人としても名高く、和歌を好み、儒者増田謙之らを召して経史を講じさせ、武技兵法にも優れていたという。長命であったが、在職51年目の享保13年(1728年)に老齢をもって隠居し、剃髪して操山と号したが、2年後の享保15年(1730年)11月7日に70歳で死去した。 |
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