| 歴史の勉強 | ||||
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| 蜂須賀光隆 はちすかみつたか | ||||
| 父:蜂須賀忠英、母:繁、幼名:千松丸、正室:金(小笠原守次女) 従四位下、阿波守、侍従 寛永7年(1630年)10月13日生、承応元年(1652年)5月襲封、寛文6年(1666年)5月27日没 阿波徳島25万6940石 | ||||
| それまで渭津と呼ばれていたのが、徳島と改称されたのは三代光隆の治世である。光隆は寛文4年(1664年)4月に13郡に分かれていた阿波国を、板東・板西の2郡を合せ板野郡に、名東・名西の2郡を名東郡に、那東・那西の2郡を那賀郡とし10郡にしたが、このときに渭津を徳島と改めた。 光隆は、寛永7年(1630年)に先代忠英の嫡子として、渭津城で生まれた。承応元年(1652年)に父忠英が死去し、家督を継いだ。 仕置家老には先代から引続き蜂須賀(池田)玄寅と長谷川貞恒を任じ、淡路洲本には稲田稙徳と大津貞賢を置いて仕置をさせた。 明暦元年(1655年)には藩財政を司らせるために勘定奉行を設置、万治2年(1659年)には国奉行を廃止して、郡奉行に職務を移し支配体制を充実させている。 先代忠英が敷いた門閥体制から官僚体制への転換路線に光隆も従い、明暦2年(1656年)には池田城番であった中村美作近照を改易して仁宇山に幽閉し、その弟の富叔を中老格で起用するなど官僚体制強化と藩主の権力の掌握に努めている。 また文治支配と教化政策を徹底させるために老中久世広之に相談して、儒者合田昌因を150石で迎えた。昌因は以後光隆の政治顧問として藩政に参画する。 その昌因の献策もあって、藩では君臣の別を明確にし、公式の場には医師、儒者、茶道も帯刀で臨み、軍学者も輩出し、弓術・馬術・槍術・剣術・砲術もさかんになった。 そのほか光隆は諸道に優れたものを招いて師範とし、藩教学の確立に努めた。 機構改革・藩政整備の総仕上げとして光隆は阿波全域に棟附改めを実施した。これをもって徳島藩独自の身居という身分支配の敢行を定着させていった。 この政策は税負担者の確定と身分の固定化を意味し、領内各戸を壱家と小家に分けて固定した。壱家とは本家、小家とは分家であり、租税の完納は壱家の責任とされた。 さらに各戸には身居の肩書をつけて、それぞれ本百姓・百姓・間人・名子・下人・見懸人などと記録した。 間人は田畑を失ったが本百姓への復帰を目指す半自立者、名子・下人は隷属農民のうち壱家と血縁関係のないもの、見懸人は他村からの入村者であった。 いずれにしても、この棟附改めで阿波全域の農村の状態は確実に把握され、税の徴収の体系化がなされ、農村支配体制が確立された。 このように官僚機構の確立、農村支配の確立を行い藩体制の整備を完了した光隆は、寺社の保護にも意を用い、藩主権力を高めることに努めたが、在任15年の寛文6年(1666年)5月27日に江戸において死去した。まだ37歳の若さであった。 |
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