歴史の勉強
蜂須賀忠英 はちすかただてる
父:蜂須賀至鎮、母:於虎、幼名:千松丸、正室:繁(小笠原忠真女)
従四位下、阿波守、侍従
慶長16年(1611年)4月生、元和6年(1620年)4月襲封、承応元年(1652年)4月没
阿波渭津25万6940石

忠英は先代至鎮の嫡子として、慶長16年(1611年)4月に、渭津城で生まれた。元和6年(1620年)に至鎮が死去し、家督を継いだが、わずか10歳であったために先々代の藩主であった蓬庵が後見した。
政治面では先代至鎮が藩政の基盤を固めるための施策として、元和4年(1618年)に御壁書23箇条に制定したが、忠英の代にはその御壁書23箇条を補完する裏書7箇条を制定した。

御壁書23箇条と裏書7箇条は、その後の藩政の基礎となった。御壁書23箇条のうち15条は農民支配を目的としたもので、一揆を禁止して農民の抵抗権を奪い、百姓の土地保有権を認めることで農民を農地に縛り付けて年貢の安定化を目指し、逃散の防止と処罰関係など、農村整備に重点が置かれている。
裏書は阿波と淡路の間の走人防止や人身売買の禁止など、御壁書23箇条を補完する位置づけのものであった。

また、至鎮の代に徳島藩領となった淡路国では寛永元年(1624年)から検地を実施し、寛永8年(1631年)には重臣稲田氏を脇から淡路洲本に移した。これにより脇は蔵入地に編入され、藩主直轄となった。
一方淡路に移された稲田氏は、洲本城代として淡路の支配を任される予定であったが、実際は長谷川三郎左衛門、森甚太夫に仕置を行なわせて、稲田氏は名目だけの存在となり淡路支配の枠外におかれた。

蜂須賀家記によると慶安3年(1650年)に忠英は領内を巡視し、その際に従った重臣長谷川貞恒に対し、原士制度の創設を命じたとされる。
原士とは、いわゆる在地家臣団で、当初は西条原、香美原の開墾に従事して、農業に従事する傍らで参勤交代の警護や阿讃国境警備、百姓一揆の鎮圧、勧農普請の監督などを努め、幕末期には京都や江戸湾の警護にもあたった。

一方で、忠英の代には阿波入部以来の危機といわれる海部騒動が起きた。海部城番で7千5百石を領する益田豊後長行は蜂須賀家の姻戚であり、関ヶ原役や大坂の陣でも功があった。
長行は禁制を破って海部郡内の山林の木を勝手に伐採し、江戸に輸送して売り捌こうとした。この噂が忠英の耳に入り、直ちに藩士が派遣され、ことが事実とわかり長行は寛永10年(1633年)領地を召し上げあれ、大栗山に幽閉された。
これに対して長行は公儀に、藩が幕府禁制を破り大船を建造し、さらに切支丹への宗門改めを怠っていると訴えでた。

藩からは長谷川貞恒が出て長行と対決し、正保3年(1646年)に幕府の裁断が下った。長谷川の弁明は滞りなく、一方豊後長行は答えにつまり、豊後の訴えは根拠なきものとの断であった。
もともと大船建造や宗門改めの怠りなどの事実はないのだから、あたりまえのことで、長行は忠英に引き渡され、江戸藩邸で処刑された。

海部騒動の発覚する前年の寛永9年(1632年)忠英は、門閥体制から官僚体制への転換を図るために、仕置家老に池田玄寅と長谷川貞恒を任じ、その下に太田金右衛門、斉藤八兵衛、岩田弥二右衛門の3人を国奉行に任じた。
しかし門閥制度から官僚制度への転換はなかなか進まなかった。
海部騒動は、藩の体制を門閥体制から脱却し官僚体制に転換しようとする中で、門閥体制の中心であった老臣が起こした事件であり、官僚体制への移行は藩祖以来の老臣に不満を生じさせたことから起きたといえる。

藩政初期に支配機構の確立の為に置かれた阿波九城は、元和元年(1615年)に出された一国一城で廃され、また重臣の稲田氏は根拠地であった脇から淡路に移さた。
しかし廃されたのは城だけであり、城番制は残り門閥体制からの脱却はできなかった。これは、門閥体制のころの藩主家政(蓬庵)が寛永15年(1638年)まで生き、忠英を後見していたからで、阿波九城の制度が完全になくなるのは、家政死去の2年後の寛永17年(1640年)まで待たなければならなかった。
やっと支配制度を改革した忠英であったが、承応元年(1652年)4月42歳の若さで江戸で死去した。

蜂須賀氏の表紙に戻る
歴史の勉強
Last modified -