| 歴史の勉強 | ||||
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| 蜂須賀至鎮 はちすかよししげ | ||||
| 父:蜂須賀家政、母:生駒氏、幼名:千松丸、正室:於虎(小笠原秀政女、徳川家康養女) 従四位下、阿波守 天正14年(1586年)正月2日生、慶長5年(1600年)9月襲封、元和6年(1620年)2月26日没 阿波渭津18万6753石→阿波渭津25万6940石 | ||||
| 至鎮は天正14年(1558年)正月2日に蜂須賀家政の嫡子として、渭津城で生まれた。慶長5年(1600年)に15歳となった至鎮は、下総古河の小笠原秀政の娘氏姫を家康の養女として娶り、徳川家の姻戚となる。 秀吉死後に天下を狙う家康は、秀吉の遺言を破って有力大名に婚姻を持ちかけたが、阿波という畿内を押さえる要地を持つ蜂須賀氏を味方にしたかったらしく、蜂須賀家にも話が持ちこまれ、次の天下は家康と見ていた家政もその話にのって至鎮の正室に氏姫(於虎)を迎えた。 慶長5年(1600年)に会津の上杉景勝に謀反の疑いありとしてその征伐が決定されると家政は、会津征伐に赴く家康に15歳の嫡子至鎮を陣に加えてくれるよう頼み、家政自身は阿波に在国した。 家康が会津に向かった留守に石田三成が毛利氏を担ぎ出して大坂で兵を挙げると、家政のもとにも西軍に加わるよう命令があった。 しかし家政はこれに応ぜず、ついに領地を豊臣家に返上して剃髪、蓬庵と号して高野山に登り光明院に入ってしまう。この行動には蜂須賀家の顧問僧泰雲の意見が大きく影響しているといわれる。 一方で家康の陣にあった嫡子至鎮は、東軍として行動し関ヶ原にも参陣した。蜂須賀家記には「八月、公、池田、福島、黒田諸将と与に先づ江戸を発し、清洲に至り進んで美濃に入り、攻めて岐阜を抜く。九月、東照公赤坂に至る。公、藤堂高虎と野上に陣し南宮山の敵に備ふ」とある。 実際は、兵数は少なくさしたる功もなかったようだが、蜂須賀氏が東軍で戦った実績は残り、戦後阿波国は至鎮に改めて与えられた。 なお、その際に阿波国板東・板西両郡内にあった住吉藩主赤松則房は西軍に与したために戦後領地を没収され、住吉藩領1万石は於虎に化粧料の名目で至鎮に与えられ、これによって阿波一国は全て蜂須賀領となった。 高野山に登った家政は、戦後高野山を降りて隠居として至鎮を後見した。初期の藩政はほとんどが蓬庵と号した家政主導によって行なわれた。 阿波に入った至鎮は撫養塩田の開発を企て、播磨から馬居七郎兵衛と大谷五郎右衛門を招いて技術指導にあたらせ、慶長10年に撫養斎田七島の塩田が完成し、そののち播州赤穂に次ぐ良質の塩の産地として知られるようになり、このことは藩の経済に大きく貢献することとなった。 慶長19年(1614年)の大坂冬の陣が起こると家政は、自ら江戸に赴いて人質となり徳川家に二心なきを示した。大坂冬の陣には至鎮は8千の軍勢を率いて出陣、穢多ヶ崎と博労ヶ淵の戦いで戦功を挙げて、家康から黄金三百両と感状を将軍秀忠からも多くの感状を贈られた。 また、翌元和元年の夏の陣では、直接戦闘には加わらなかったものの、阿波の軍勢は大坂方を充分に畏怖させ、大坂両陣の功で至鎮には松平姓が与えられるとともに、元和2年(1616年)閏6月3日淡路一国が加増されて、渭津藩は25万7千石の大藩となった。 元和・寛永のころの徳島藩は藩財政の基盤を固めるための施策として、元和4年(1618年)に御壁書23箇条、寛永14年(1637年)に裏書7箇条を制定し、これはその後の藩政の基礎となった。 御壁書23箇条のうち15条は農民支配を目的としたもので、一揆を禁止して農民の抵抗権を奪い、百姓の土地保有権を認めることで農民を農地に縛り付けて年貢の安定化を目指し、逃散の防止と処罰関係など、農村整備に重点が置かれている。 裏書は阿波と淡路の間の走人防止や人身売買の禁止など、御壁書23箇条を補完する位置づけのものであった。 元和2年(1616年)に加増された淡路国では、由良城番篠山加兵衛がその仕置にあたったが、基本的には慎重な姿勢で臨み、上方登せ米を保護するなどして領民に不満が起こらないようにし、淡路の領民が政治になれた寛永元年(1624年)にいたって初めて検地を実施するなど配慮した。 淡路に重臣稲田氏を派遣しての、本格的な経営は次代の忠英に引き継がれた。 至鎮は、初期藩政の確立期の途中の元和6年(1620年)2月26日に、35歳の若さで阿波にて没した。 |
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