| 歴史の勉強 | ||||
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| 蜂須賀家政 はちすかいえまさ | ||||
| 父:蜂須賀正勝、母:益田氏、幼名:一茂、正室:生駒家長女 従五位下、阿波守 永禄元年(1558年)生、寛永15年(1638年)12月晦日没 播磨龍野5万石→阿波渭津18万石 | ||||
| 蜂須賀正勝の嫡子として大名として尾張蜂須賀郷に生まれ、父とともに織田信長に仕え、秀吉に与力する。初陣は元亀元年(1570年)の姉川の戦いであったという。 天正3年(1575年)の長篠の戦いで功を挙げ、その後は父正勝とともに播磨攻略、中国攻めに加わった。この間天正6年(1578年)播州広瀬で敵将宇野重清を討ち取り、翌天正7年には毛利勢に包囲された伯耆国羽衣石城主の南条元次を救出している。 続く山崎合戦、賤ヶ岳の戦いにも参陣して功を挙げており、天正12年には紀州に起きた雑賀・根来の一揆を鎮圧、その功によって秀吉から播磨佐用郡内の3千石を賜った。 天正13年(1585年)の四国征伐では父正勝とともに四国に渡り、黒田孝高、宇喜田秀家の軍とともに讃岐から阿波に侵攻し、淡路から阿波に入った羽柴秀長(秀吉の弟)軍に合流し、木津城、一宮城、岩倉城を攻略して長宗我部軍を土佐に駆逐した。 これらの戦功によって秀吉は正勝に阿波一国を与えようとしたが、病に臥せっていた正勝は拝辞し、阿波は嫡子家政に賜るように願い出て許され、これによって家政は阿波17万5千7百石の領主となった。 家政の領地は阿波一国のうち板東・板西両郡内にあった赤松則房の住吉藩1万石を除く阿波国で、当初は一宮城(徳島市)を居城とした。 阿波国は室町期は細川氏が守護を勤めたが、その後下克上によって三好氏が台頭し、三好氏が畿内で覇権を争うようになるとその根拠地となった。三好氏は畿内で攻められて敗走すると根拠地阿波に還り、体勢を立て直して再び海を渡って畿内に向かった。 このために阿波は三好氏によってかなり収奪され、三好氏が滅びると土佐から侵攻してきた長宗我部氏によって収奪された。 それによって平野部の農村は疲弊しており、一方西部の険しい四国山地の山間部は、その険しさゆえに三好氏や長宗我部氏の収奪の対象にはならず、長宗我部氏は山間土豪に支配権を安堵し、為に独自の支配権を確立していた。 これら山間部の土豪は当然に排他主義的であって、新領主の統制に反発した。家政が入部してすぐに始めた検地の際にに山間部の土豪の反発が形になって起きた。 検地は領主にとっては家臣の知行割を行なうために必要であり、家政も天正13年(1585年)から天正17年(1589年)にかけて領地の検地を実施した。 平野部での検地は比較的順調に進んだが、山間部の祖谷山、大栗山、仁宇谷などでは検地反対の一揆が起きた。家政はこれに対し自らこ祖谷山に乗り込んで検地を指揮し、美馬郡一宇山の土豪喜多六郎三郎、喜多安右衛門父子を味方に引き込んで祖谷山の土豪たちを説得させた。 これらが功を奏して検地はなんとか行なわれ、この功績で喜多家は祖谷山全山の政所役人に任ぜられた。 これら土豪の一揆に手を焼いた家政は、支配機構を確立するために領内9ヶ所の要地に出城を置いて重臣を配置して体制を固めた。 この城を阿波九城といい、具体的には岡崎・西条・川島・脇・大西・一宮・仁宇・富岡・鞆の九城であるが、これは江戸期の元和元年(1615年)に出された一国一城令で全て廃城とされる。 一方家政は居城とした一宮城から、吉野川河口の三角州の徳島に新城を築城して移ることとした。一宮城や勝端城から資材を運び込んで、天正14年(1586年)には新城の中心部がほぼ完成し、この城を新たに渭津と呼び、引続き城下の整備を進めた。 一方で家政は、天正15年(1587年)の九州征伐では高鍋城攻めに活躍、天正18年(1590年)の小田原攻めでは韮山城を攻め、さらに文禄・慶長の役では大軍を率いて朝鮮に渡った。朝鮮では各地を転戦したが、慶長の役では蔚山城の浅野幸長を救援している。 やがて秀吉が死去すると、家政は徳川家康に接近する。家康は秀吉死去後にその遺言を意図的に破って有力大名に婚姻を持ちかけた。蜂須賀家にも話が持ちこまれ、下総古河の小笠原秀政の娘氏姫を家康の養女として家政の嫡子至鎮と婚約させた。 慶長5年(1600年)に会津の上杉景勝に謀反の疑いありとしてその征伐が決定されると家政は、会津征伐に赴く家康に15歳の嫡子至鎮を陣に加えてくれるよう頼み、自身は阿波に在国した。 家康が会津に向かった留守に石田三成が毛利氏を担ぎ出して大坂で兵を挙げると、家政のもとにも西軍に加わるよう命令があった。 しかし家政はこれに応ぜず、ついに領地を豊臣家に返上して剃髪、蓬庵と号して高野山に登り光明院に入ってしまう。この行動には蜂須賀家の顧問僧泰雲の意見が大きく影響しているといわれる。 一方で家康の陣にあった嫡子至鎮は、東軍として行動し関ヶ原にも参陣した。兵数は少なくさしたる功もなかったようだが、蜂須賀氏が東軍で戦った実績は残り、戦後阿波国は至鎮に改めて与えられた。 家政は文禄・慶長の役での吏僚派の三成らの行動を快く思っておらず、そのために豊臣恩顧でありながら家康に接近し、また家康も阿波という畿内を押さえる要地を持つ蜂須賀氏を味方にしたかったらしく、そのために婚約話を持ちかけたといわれる。おそらく家政自身も次の天下は家康と考えていたのだろう。 結果的に両者の思惑が一致し、家政の冷静な判断で蜂須賀氏は関ヶ原を乗り切った。家政は戦後高野山を降り、隠居として至鎮を後見した。 初期の藩政はほとんどが蓬庵と号した家政主導によって行なわれた。家政は至鎮より長命で、徳島藩三代忠英をも後見して、寛永15年(1638年)12月晦日に徳島において81歳で没した。 |
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