| 歴史の勉強 | ||||
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| 蜂須賀正勝 はちすかまさかつ | ||||
| 父:蜂須賀正利、幼名:小六 修理大夫 大永6年(1526年)生、天正14年(1586年)5月22日没 | ||||
| 太閤記では蜂須賀氏は野盗の頭領であり、矢作川の橋で秀吉と出会ったことで、その後秀吉に従い栄達していくとなっているが、蜂須賀氏は野盗でもなければ、矢作川で秀吉と出会ったわけでもない。 後年明治天皇のもとに食事に招かれたが蜂須賀氏が、隙を見て記念の為に銀器を一本失敬したところ、それを目ざとく見つけた明治天皇が笑いながら「蜂須賀は先祖が先祖だからな」と言ったとあるが、これは蜂須賀氏の先祖が野盗であったことを皮肉ったものだ。 矢作川には秀吉の時代は橋がなかったことからも、これらは創作であることは明らかなのだが、この伝説は蜂須賀氏にとっては迷惑このうえないことであろう。 その蜂須賀氏の出自についてはよくわかっていない。江戸時代の寛政重修諸家譜では清和源氏足利氏流斯波氏が祖となっているが、これは蜂須賀氏がそう言っているだけで根拠は何もないといっていい。 蜂須賀氏の出自は不明な点が多いが、尾張国海東郡蜂須賀郷の土豪であり、濃尾国境の木曽川を中心とする川筋で水運業をしていたのは間違いなく、その頭目であり力を蓄えていったのだろう。 小六正勝は大永6年(1526年)に蜂須賀郷に生まれ、若年期は家業であった水運に従事していたと考えられる。はじめは美濃の斎藤道三に仕え、のちには尾張の犬山織田氏の信賢、岩倉織田氏の信清に仕えた。 いずれも清須(清洲)の信長の敵対勢力であり、信長はこれらを順次滅ぼしていった。永禄7年(1564年)に信長が東美濃攻めを始めると、正勝は秀吉の配下となってこれに加わった。 水運を扱う蜂須賀氏は土豪とはいえ一定の勢力を保っていたはずで、利を保障してくれる相手に味方するのが当然であり、織田信長が勢力を伸ばし付近に信長に比する勢力がなくなれば、信長の配下に属するのは当然であった。 永禄9年(1566年)に本格的に美濃攻めを行なうために秀吉が築いた「墨俣の一夜城」の築城では、蜂須賀勢がその中心になって活躍したとされる。 永禄10年(1567年)美濃稲葉山城攻め、永禄11年(1568年)近江箕作城攻めに参加し、元亀元年(1570年)の越前攻めで織田軍が浅井長政に裏切られて、浅井・朝倉両軍に挟撃されると、その退却戦では殿軍を勤める秀吉を援けて奮戦した。 同年の姉川の戦いに参陣後は、近江横山城に在番して小谷城の浅井長政を監視しつつ、天正元年(1573年)の浅井攻めまで敵将の誘降や砦攻めなどを繰り返した。 天正元年に浅井氏が滅亡すると秀吉の領地近江長浜のうちに所領を与えられ、その後も伊勢攻略、長島一向一揆平定戦などに活躍し、天正4年(1576年)安土城築城の際の石垣作事奉行を努めた。 すでにこのころには秀吉にはなくてはならない武将になっており、その後織田軍の中国方面軍総司令官となった秀吉に従って播州に出陣した。 天正5年〜8年にかけて播州各地を転戦し、とくに三木城の別所氏攻略では軍功著しく、天正8年(1580年)に播磨龍野城主となった。 翌天正9年鳥取城、天正10年(1582年)には備中高松城を秀吉とともに攻めるが、ここで本能寺の変に接する。この報を聞き、黒田如水ら秀吉軍幹部とともに対峙していた毛利軍の小早川隆景とことを秘して停戦交渉して停戦に成功。 その後も秀吉に属して山崎合戦、賤ヶ岳の戦いに参陣し、大坂城の縄張りを行なった。秀吉と家康がぶつかった天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは大坂に留守居、この間に紀州の雑賀・根来衆に包囲された岸和田城を救援している。 天正13年(1585年)の四国征伐には病をおして加わり阿波木津城、一宮城、岩倉城を攻略、帰陣の後に病床に伏した。四国を平定した秀吉より阿波一国を賜ったが病気を理由に拝辞し、阿波一国は嫡子家政に与えられた。 天正14年5月22日大坂において61歳で死去した。 |
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