歴史の勉強

蜂須賀氏と関ヶ原
濃尾国境の中心とする水運業の頭目であった蜂須賀正勝は、早い時期から豊臣秀吉に仕えた。正勝は秀吉が信長のもとで頭角を現し始めたころから秀吉に仕え、終始一貫して行動をともにした。
正勝は秀吉の四国征伐直後の天正14年(1586年)に死去し、跡を嫡子家政が継いだ。家政も父正勝に従って秀吉に属した。初陣は姉川の合戦というから、秀吉政権ではかなり早くから秀吉に属した組で、古株の一人であった。
秀吉は古くからの家臣であった蜂須賀氏に対し、天正13年(1585年)の四国征伐後に阿波一国を与え、大名とした。以後家政は秀吉の将として各地の合戦に参加する一方で、領国の経営に腐心した。

秀吉の最大の愚挙である朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の際に、家政も渡海して四国勢の一員として戦闘に参加しているが、この時に石田三成の言により、落ち度があったとして秀吉から帰国を命じられている。このことが、のちに蜂須賀家が親家康の態度をとることになる大きな理由という。
石田三成ら官僚のグループと加藤清正・福島正則らの軍人のグループの対立が目立つようになったのは文禄・慶長の役からで、官僚グループの奉行が軍監として渡海して朝鮮での戦闘行為や行動を秀吉に報告したのだが、その際のトラブルが反目を生み対立に発展していった。
まさに蜂須賀家政の場合も、このトラブルで官僚グループと反目するようになった。

慶長3年(1598年)8月に秀吉が死去すると、天下を狙う徳川家康はすぐさま行動に移った。家康の最初の行動は自派の大名を増やすことであった。
そのために家康は秀吉の遺言を意図的に破って有力大名に婚姻を持ちかけた。秀吉は家康ら五大老が勝手に婚姻を結ぶことを遺言で禁じていたのだ。これは有力な大名が婚姻で与党を増やすと天下の乱れになることを慮った処置であるが、家康はそれを無視して、確信犯として婚姻を持ちかけたのだ。
蜂須賀家にも話が持ちこまれ、下総古河の小笠原秀政の娘氏姫を家康の養女として家政の嫡子至鎮と婚約させた。

この婚姻は大きな騒ぎとなり、やがて家康と五大老の一人である前田利家との対立となっていくのだが、その騒ぎの中でうやむやになり、至鎮と氏姫の婚約はそのままで、やがて至鎮は氏姫を娶ることになる。
家康とすれば敵対する石田三成と対立し、さらに豊臣家の本拠大坂城の喉首を押さえる阿波の領主蜂須賀氏を、自派に取り込んでおきたかったのだろう。
このこともあって家政は家康に急接近していった。家政はこれまでの経緯からいえば、豊臣恩顧の大名であったが、天下人となるのは家康と読んでいたのであろう。
あるいはそこには父正勝とともに長年豊臣に尽くしてきた蜂須賀家が、石田三成らの(蜂須賀家から見れば)成りあがりの官僚グループにいいようにされる現状に憤激したのかもしれない。

このような状態で慶長5年(1600年)を迎えた。この年6月家康は上杉景勝を討つために会津征伐を行なう。その征伐軍は主に畿内と東海地方の諸大名、それに家康自身の軍で編成されて、東下して行った。
このほかに北陸筋や東北地方の大名が、別働隊として会津に向かい、各方面から包囲することになっていた。四国・中国・九州方面の大名には従軍義務はなかったが、親家康の大名たちである黒田、生駒、藤堂、加藤などの諸氏は家康軍に参加した。
阿波が領国である蜂須賀氏も参加義務はなかったが、家政は嫡子至鎮を家康のもとに参陣させた。とはいえ、至鎮はわずか15歳で、この戦が初陣であり戦力も益田宮内以下騎馬18騎と少なかった。家政は病気と称して大坂屋敷にいた。

家康が会津に向かった隙に、石田三成が挙兵し、大坂城に毛利輝元を入れて大将とした。ここに家康の東軍と輝元・三成の西軍が戦う構図が出来上がった。
もっともこれはほぼ予想された展開であり、このこと事態は驚くにあたらないが、世の大名たちは中立は許されず、東軍が西軍に属すことが求められた。
7月に大坂屋敷の家政のもとに、豊臣秀頼の名で西軍に加わるように命令があった。しかし先に記したような事情で、家政は首を縦に振らず、代りに阿波一国を豊臣家に返上したのだった。

家政は阿波の返上を申し出ると、家臣の中村右近大夫らとともに大坂屋敷を出て、和泉国枚野の豪商渡辺立庵道通の屋敷には入って剃髪し、蓬庵と号して高野山に上り光明院に入った。
高野山に入ったのは豊臣秀頼に対して恭順の意を示すとともに、家康の対しては敵意のないことを証すためであったろう。もし西軍参加の命令が輝元名や三成名で来たのなら拒絶したろうが、さすがに秀吉の跡継ぎである秀頼名で来れば、豊臣恩顧である家政としても、拒絶というわけにもいかず、苦肉の策として阿波返上を思い立ってのであろう。

この阿波返上により、秀頼の上使小川越前守と輝元の家臣小早川豊前守が徳島城の収受に阿波に来ている。そして蜂須賀家臣は国を退去し、大谷吉継と指揮下に入って加賀を攻撃するように、秀頼の命を伝えた。
一方このころ家康の東軍は会津攻撃を中止して反転、西に向かっていた。家康のもとにいた各大名たちは、家康とともに石田三成ら西軍を敵として攻撃するべく先を急いでいた。
その中に初陣の蜂須賀至鎮の姿もあった。やがて岐阜城攻撃から関ヶ原本戦にいたる経過は周知の通りであるが、至鎮率いる蜂須賀隊は本戦では先鋒隊に属して戦った。
いかんせん人数が少なすぎたために、大した戦功も挙げ得なかったようであるが、この少人数が参加したことが蜂須賀家の安泰に繋がった。

関ヶ原の戦いはわずか半日で東軍大勝利となり、家康は以後天下人に向かって邁進する。蜂須賀家は至鎮が東軍で戦ったことにより本領が安堵された。
また西軍の催促で蜂須賀家家臣の長谷川伊豆守、稲田太郎左衛門が兵を率いて阿波から摂津に入り東に向かったが、大坂と京の中間の枚方で東軍勝利を聞き、そのまま東軍の至鎮に合流した。つまり西軍に属しはしたものの、実質は戦わずに済んだのである。
これも大きかった。長谷川伊豆守らがもう少し早く東に向かって進み、西軍の名で戦っていれば、本領が安堵されたかどうかわからない。

いずれにしても、(1)至鎮が東軍に属して戦い、(2)その至鎮は家康の娘婿であり、(3)西軍には実質的に属さず、(4)家政は高野山に登って敵意がないことを示したことで蜂須賀家は安泰となった。
また家政は戦後高野山を降りて隠居として至鎮を後見した。初期の徳島藩政はほとんどが蓬庵と号した家政主導によって行なわれた。
関ヶ原で蜂須賀氏は、親子が東西に分かれて戦ったといわれるが、実際は家政は豊臣家に忠実でありつつ中立を保ち、子の至鎮が家康に属して戦って家名を保ったというのが実際で、蜂須賀氏はこの後、大坂の陣で淡路を加増されて、阿波・淡路の大名として明治維新までその嗣を全うする。

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