歴史の勉強

内匠頭長矩で有名な赤穂藩浅野家は本藩から分知されたわけではなく、大名としての浅野家初代となる長政の隠居領から始まった。
関ヶ原役後、長政は隠居して宗家は嫡子幸長が継ぎ、幸長死去後はその弟長晟(長政二男)が継いだ。一方、隠居した長政は家康の好意で常陸真壁・筑波両郡内に5万石を賜り、長政の死後は三男の長重がこれを継いだ。その後常陸笠間を経て播磨赤穂に転封され、長矩の代に江戸城中において刃傷沙汰を起こし改易されている。
浅野長重 あさのながしげ
従五位下、采女正、幼名:又一郎
天正16年(1588年)生、慶長16年(1611年)4月襲封、寛永9年(1632年)9月3日没
常陸真壁5万石→常陸笠間5万3千石

長政の三男として近江で生まれ、慶長4年(1699年)江戸に移り秀忠の小姓となった。慶長6年下野国内で2万石を得、慶長10年には秀忠の将軍宣下の為の上洛に供奉。
慶長16年(1611年)4月父長政の死去により、その隠居領であった常陸真壁に移り、慶長19年(1614年)大坂冬の陣では鴫野の合戦で、翌年の夏の陣では道明寺口の合戦でそれぞれ功を挙げた。
元和8年(1622年)に常陸笠間に転封となるが、父が隠棲した真壁の領有を望んで聞き届けられ、領地は真壁郡2万石、笠間周辺に3万石と大きく分かれていた。
譜代ばかりの関東で領地をもてたほど秀忠・家光の信頼が厚く、取り潰された藩の城受け取りや江戸城修築など公役も多く努めた。
浅野長直 あさのながなお
従五位下、内匠頭、幼名:又一郎
慶長15年(1610年)生、寛永9年(1632年)10月29日襲封、寛文12年(1672年)7月24日没
常陸笠間5万3千石→播磨赤穂5万3千石

慶長15年(1610年)に先代長重の嫡子として生まれ、寛永9年(1632年)長重死去により家督を継いだ。笠間城下の整備に努めた。笠間の城下は長直の代に基本が整備されたといっていい。
寛永11年(1634年)に徳川忠長改易後の駿府城代、同13年に大坂城加番となったが、この在番中の正保2年(1645年)に同じ石高で播磨赤穂に転封となる。
播磨赤穂は藩主池田輝興が発狂して正室を殺害し、そのために改易となった後への転封であった。直ちに赤穂に赴いた長直は新城築城を幕府に願い出てこれを許され、その城は寛文2年(1662年)に完成している。
長直は好学で山鹿素行について兵学を学び、その後素行が幕府によって配流されると礼を持ってこれを迎えている。また赤穂では姫路領から浜人・浜子を入植させて塩田を始め、赤穂塩としてブランドに育てている。
寛文11年(1671年)3月に世子長友に家督を譲り隠居、翌寛文12年7月24日に63歳で死去した。
浅野長友 あさのながとも
従五位下、采女正、幼名:又一郎
寛文20年(1643年)生、寛文11年(1671年)3月5日襲封、延宝3年(1675年)正月26日没
播磨赤穂5万石

先代長直の長男で、寛文11年(1671年)に長直の隠居により封を継いだ。このときに3千石を義兄(長直養子)長賢に分知し、また新田分3千石を長友弟の長恒に分与した。このため赤穂藩は5万石となった。長友は在封5年33歳の若さで赤穂で死去している。
浅野長矩 あさのながのり
従五位下、内匠頭、幼名:又一郎
寛文7年(1667年)8月11日生、延宝3年(1675年)3月23日襲封、元禄14年(1701年)3月14日没
播磨赤穂5万石→改易

忠臣蔵で有名な長矩は先代長友の嫡子として生まれ、長友の死去によって延宝3年(1675年)に9歳で藩主となった。このころ赤穂藩の財政はかなり悪化しており、藩札の発行などで凌いだ。
周知の通り元禄14年(1701年)勅使接待役を命ぜられていた長矩は、3月14日江戸城中で高家吉良義央に刃傷、即日切腹改易となっている。
この事件は元禄赤穂事件と呼ばれ、接待の指南役であった吉良義央に何らかの遺恨があった長矩が切りかかり、尊皇心厚い将軍綱吉が朝廷との間の大切な儀式を台無しにした長矩に激怒し、即日切腹を申し渡した。
そのために長矩の調べは一切行なわれず、遺恨の内容は不明であり、その後種々の推測がなされている。事件後取り潰された赤穂藩の筆頭家老大石内蔵助良雄を中心とする赤穂浪士が、翌慶長15年12月本所の吉良邸に討ち入り、主君の仇を討った。この一連の事件は忠臣蔵として芝居などで有名。
そのため長矩は悲劇の藩主としてイメージされるが、実際は暴君に近く、藩内では重税を掛けて苛酷な収奪をし、長矩の切腹を聞いた領民は喜んだとも伝えられている。

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