歴史の勉強

浅野氏と関ヶ原
周知のことであるが浅野長政は秀吉政権の五奉行の筆頭であった。秀吉政権は独裁者秀吉のもとで、政策を合議する五大老、それに基づき政策を実行する五奉行によって最上層部が構成されていた。
五奉行は長政のほかに石田三成、長束正家、増田長盛、前田玄以の5名であった。このうち前田玄以は政策の実行というより所司代的な役割で、朝廷や公卿の監視や取次ぎを担っていた。
ほかの4名が実質の政策執行役であったが、長政以外の3名はいずれも近江出身で計数に長け、いってみれば能吏であった。合戦でも最前線に立つよりは、後方の業務、それも軍事参謀などではなく調達や補給、論功行賞などの人事などの面で活躍した。

もっとも国内が統一され秀吉が絶対的な権限を持つと内戦はなくなり、戦闘といえば一揆の鎮圧や武将の反乱などだけであった。
世は戦時状態から平時状態に切り替わり、そうなると戦場での活躍の機会自体がなく、経済活動、外交活動、大名の監視など行政面での仕事が多くなり、いきおい能吏の活躍となる。
このような中で長政は行政能力はそこそこあったものの、能吏というには遠かったのであろう。もともと信長の在世中、尾張時代から秀吉のもとで働いた長政は、数々の戦闘に加わり功を挙げている。
したがって戦場での苦労もよく知っており、能吏のように建前や割切だけで判断する人物ではなかったはずだ。さらに人生経験が能吏グループとはまるで違う。

能吏グループが秀吉陣営に加わった頃には秀吉は一角の大将であったが、長政はそのはるか前から秀吉と接し、ほとんど同僚に近いくらいの時代もあったはずだ。
また秀吉正室のねねも長政にとっては妻の従姉妹であったが、能吏グループから見れば母親のような存在であったろう。
よって五奉行とはいっても長政はほかの4人とはかなり考え方も方向性も違っていたはずである。ただ秀吉恩顧という観点だけは同じ感覚であった。
したがって慶長3年(1598年)8月に秀吉が没すると、長政とほかの4人との間の距離が急速に隔たっていったのは想像に難くない。
加えて長政の嫡子幸長は猛将であり、長政とは違って行政能力は低く、武功派の代表のような人物であった。

幸長は幼少時から長政とともに多くの戦場を駆け、文禄・慶長の役では長政に代わり浅野の兵を率いて渡海し大活躍した。
特に慶長の役で加藤清正とともに籠城した蔚山城の戦いでの活躍が有名である。このように武功派の一人であった幸長は加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興ら同じタイプの武将と気が合い、父長政以上に三成ら能吏とは仲が悪かった。
能吏らのグループである吏僚派と武功派の反目が目立つようになったのは文禄・慶長の役からで、奉行が軍監として渡海して朝鮮での戦闘行為や行動を秀吉に報告したのだが、その際のトラブルが反目を生み対立に発展した。

そのために秀吉が死去した直後から押さえが利かなくなって、吏僚派と武功派の対立は日増しに深まり、天下を狙う家康が巧妙に対立を煽ったので、両派の修復は絶対に不可能であった。
その対立が頂点に達したのは慶長4年(1599年)3月の武功派七将による三成襲撃事件である。五大老の一人であった前田利家が死去し、その葬儀の際に三成に恨みがあった七将が吏僚派の代表格の石田三成を襲撃したのだ。
事前に事態を察知した三成と三成に好意を寄せる佐竹義宣、宇喜多秀家らの助けもあって襲撃事態は未遂に終わるが、これがきっかけで三成は奉行を解任され居城佐和山に蟄居した。
この七将に浅野幸長も入っていた。幸長の三成嫌いは相当なものであったことがこれでわかる。

この三成の奉行解任と蟄居謹慎で徳川家康は大きく天下取りに前進した。なにせ邪魔者の筆頭であった人間が無力になったのだ。
家康は天下を狙うべく着々と手を打った。家康が次に標的にしたのは利家亡き後の前田家であった。慶長4年 9月7日に家康は秀頼に重陽の節句の祝を述べるためと称し大坂城に入った。
そこに家康暗殺計画が発覚した。首謀者は前田家の当主利長で、浅野長政、大野治長、土方雄久らが家康を討とうとしているというものだった。
そのような事実はなく、家康側の謀略である。しかし時の最高権力者が仕掛け、しかも自分が標的だというのだから、結果は最初から明らかで、家康は計画を口実しして、大坂城に居座った。
そして10月2日、浅野長政は武蔵府中に蟄居、大野治長は家康の庶子である結城秀康に土方雄久は水戸の佐竹義宣にそれぞれ預けられた。

この長政の行動が面白い。当時の長政は甲斐一国の領主であった。正確に言えば、嫡子の幸長に16万石、長政に5万5千石が与えられ親子で甲斐一国を領していた。
家康が長政に下した処分は領国甲斐での蟄居であった。長政はその甲斐を通り越して家康の支配下にあった武蔵府中まで行って蟄居したのである。
長政にしてみれば家康暗殺など身に覚えのないことで、濡れ衣であることは一番よく知っていたが、おくびにも出さずに家康にひたすら恭順している。
自ら人質となったようなものである。さらに、この慶長4年には三男の長重を秀忠の小姓にしている。この時点で長政は家康の天下は決まったと読んでいたのであろう。

恐らく長政にしてみれば奉行として五大老筆頭の家康と接し、利家亡き後は家康しか天下をとる人間がいないとしっかり見極めてのことであったはずだ。
長政にはそのくらいの鑑識眼はあったはずだし、あったからこそ長らく秀吉側近として活躍し、五奉行として政権の運営に携わっていられたのだ。
一方幸長の方は長政ほど沈着冷静な人間ではなく、三成憎しの点から家康についたものであろう。ここに浅野父子の行動が決まった。
続いて起きた関ヶ原役では長政は秀忠軍に加わって中仙道を進み、幸長は家康軍の先鋒として岐阜城を攻め落とし、関ヶ原本戦でも活躍している。
この浅野父子の行動に家康も満足し、戦後は浅野家当主となった幸長には紀伊和歌山37万6千石を与え、隠居した長政には幸長とは別に常陸国内に5万石を与えている。
隠居後の長政は家康の話し相手、相談相手となったといわれる。

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