歴史の勉強

小浜藩

藩主 在任 石高(万石) 特記
木下勝俊 文禄2.閏9〜慶長5.9
1593〜1600
6.2 改易
京極高次 慶長5.9〜慶長14.5
1600〜1609
9.2 近江大津より
京極忠高 慶長14.5〜寛永11.閏7
1609〜1634
11.3 出雲松江へ
酒井忠勝 寛永11.閏7〜明暦2.5
1634〜1656
12.3 武蔵川越より
酒井忠直 明暦2.5〜天和2.7
1656〜1682
11.3  
酒井忠隆 天和2.9〜貞享3.閏3
1682〜1686
10.3  
酒井忠囿 貞享3.5〜宝永3.9
1686〜1706
10.3  
酒井忠音 宝永3.10〜享保20.5
1706〜1735
10.3  
酒井忠存 享保20.7〜元文5.8
1735〜1740
10.3  
酒井忠用 元文5.10〜宝暦7.3
1740〜1757
10.3  
酒井忠与 宝暦7.3〜宝暦12.6
1757〜1762
10.3  
酒井忠貫 宝暦12.8〜文化3.1
1762〜1806
10.3  
酒井忠進 文化3.3〜文政11.1
1806〜1828
10.3  
酒井忠順 文政11.3〜天保5.2
1828〜1834
10.3  
酒井忠義 天保5.2〜文久2.閏8
1834〜1862
10.3 明治元(1868).12〜再封
酒井忠氏 文久2.閏8〜明治元.12
1862〜1868
10.3  

酒井氏入封以前の若狭

今の福井県南西部にあたる若狭国は、鎌倉時代は北条一門、室町時代初期には足利一門や幕府の実力者が守護を勤めた。
室町中期からは四職家の一色氏が守護を世襲し、永享12年(1440年)に一色義貫が足利六代将軍義教の命で討たれると、武田氏が守護となった。
武田氏はやがて戦国大名化するが次第に衰退して越前の朝倉氏により滅ぼされ、その朝倉氏も織田信長に滅ぼされる。

信長は若狭を側近武将の丹羽長秀に与え、豊臣時代は秀吉側近の武将が治めた。文禄2年(1593年)に、それまで若狭一国を治めていた浅野長政が甲斐に移り、代って木下勝俊が6万2千石を与えられて小浜に入る。
勝俊は秀吉の正室北政所の弟木下家定の長男であった。若狭のうち残り2万石は勝俊の弟利房に与えられ、利房は高浜に居をかまえた。
慶長5年(1600年)の関ヶ原役では木下勝俊は伏見城総大将となったが、西軍の伏見城攻撃の前に城を退去したために戦後所領を没収され、勝俊に従った利房も所領を没収された。

木下氏に代って京極高次に若狭一国8万5千石が与えられた。高次は関ヶ原役では東軍に属して、大津城で立花宗茂ら西軍1万5千の攻撃を受け、よく支えたが関ヶ原本戦の前日に開城した。
高次の若狭小浜への入封は大津城を支えて西軍を釘付けにした論功行賞であった。翌慶長6年(1601年)にはさらに1万2千石を加増された。
高次は大永2年(1522年)以来の後瀬山城を廃し、海浜に雲浜城とも呼ばれ小浜城を築き城下町の建設に着手した。
後瀬山城は武田元光によって築かれた山城であり、山下の小浜に館が設けられていたのであるが、すでに世は山城の時代ではなくなっていたのだった。
城は慶長12年(1607年)に天守閣などを除き一応の完成を見たが、その2年後の慶長14年(1609年)に高次は47歳で死去し、長男忠高が跡を襲った。

京極忠高は家督を継ぐより前の慶長11年(1606年)に、徳川秀忠の二女初姫を正室に迎えていた。
大坂冬の陣では義母常高院(高次室お初、淀殿の妹、秀忠正室お江の姉)ととも和議にあたり、大坂夏の陣では京口を守って活躍、戦後越前敦賀郡2万1千5百石が加増され、所領は11万3千5百石となる。
城下町小浜の整備、領内の交通の改善に努め、寛永5年(1628年)には「郷組之定」を発布して走り百姓の防止を図り、代官らの領民への苛政収奪を禁じた。

「郷組之定」は全五条からなり、とくに走り百姓いわゆる逃散に対して厳しくあたっている点が特徴的であった。
逃げた百姓はもとより逃げた百姓に宿を提供したり、また宿の提供に関係したりしただけでも過料を規定しており、逃散した百姓の出た村は連帯責任を負わされた。これらの規定は百姓の逃散を未然に防ぐことに主眼が置かれていたと考えられる。
このように藩政の基礎固めを行い、また秀忠の女婿であり信頼も厚かった忠高は、寛永11年(1634年)閏7月に無嗣断絶となった堀尾家の後を受けて出雲松江24万石に転封となった。

酒井忠勝の入封

京極忠高の転封の後に小浜城主となったのは、酒井忠勝であった。酒井忠勝は雅楽頭系酒井氏の別家であり、元和6年(1620年)家光付きとなってから秀忠、家光の信頼が厚く、寛永元年(1624年)8月に老中となった。
忠勝の所領は若狭一国と越前敦賀郡、近江高島郡で11万3千5百石、ほかに在府領として下野国内に1万石の合わせて12万3千5百石であった。
若狭移封後の寛永15年(1638年)には大老に昇進し、家光の死後はその遺命により四代将軍家綱を補佐し、慶安4年(1651年)の由井正雪の乱の処理にあたる。

若狭移封後は幕閣にあったために帰国は4回しかなく、寛永11年(1634年)に4ヶ月、寛永13年(1636年)に3ヶ月、寛永19年(1642年)に4ヶ月、寛永20年(1643年)に10日間と帰国期間も短かった。
そのため基本的には藩政は老臣に指示して司ったが、法度の布告などを実施して藩政の基礎を固めている。
忠勝は若狭への転封を機に、家臣団に対してそれまでの地方知行制から俸禄制に切り替えた。同時に古くからの家臣に対して加増を行い俸禄制移行の不満を和らげている。

一方これは元和6年(1620年)にはわずか1万石であった忠勝が、わずか14年余りで12万3千石と急激に所領を増やしたこととも関係する。
所領の増加は軍役負担の増加でもあり、軍役を確保するために家臣への加増を行って軍役負担を家臣へある程度転嫁したわけであった。
また、忠勝は若狭入封直後に経済基盤の強化と農民の掌握のために領内検地を実施しようとした。
しかし検地は百姓の強硬な反対にあい、また入封直後の不安定期であることもあって、結局は中止せざるを得なくなった。

忠勝は明暦2年(1656年)7月に隠居し空印と号した。忠勝の跡は四男の忠直が家督を継ぎ二代藩主となった。
忠勝には嫡男忠朝がいて、寛永12年(1635年)に若年寄となっているが、寛永15年(1638年)に罷免され、さらに慶安2年(1649年)に忠勝の勘気を受けて廃嫡され安房国平郡で蟄居させられている。
忠朝の嫡男忠国は寛文8年(1668年)に忠直から安房国平郡、越前国敦賀郡のうちで1万石を分与され安房勝山に陣屋を構えて勝山藩を立藩している。

安定期の小浜藩

酒井氏二代藩主の忠直は実直で保守的な性格といわれ、藩政では先代忠勝の方針を忠実に踏襲しながら、より一層の諸制度の整備確立を図った。
法制整備では家臣団及び職制に関する諸法制、農政に関する諸法制、敦賀港と小浜港に関する諸法制の整備を行った。
職制整備では家中軍役、評定所、足軽や中間の身分などが規定された。また敦賀港と小浜港は北陸や東北地方と京・大坂を結ぶ中継港であり、小浜藩では両港に入港する荷物について通行税をかけた。この通行税収入は寛文年間前後といわれる全盛期には銀3百貫以上にもなり、藩財政に占める割合は相当であった。

また、忠直は浦見川掘割工事を完成させ、三方湖岸地方の新田開発の力を入れた。
浦見川掘割工事は寛文2年(1662年)5月に起きた大地震で三方湖の周囲の土地が隆起したことによって湖面が上昇し、1千7百石相当の田畑が水没してしまったことに対応する工事であった。
浦見坂に掘割を作り湖面を下げて排水して、さらに他の河川の拡張をも行って新田開発をするという土木事業である。
難工事のすえに寛文7年(1667年)に完成し、これによって当初には400石ほどの新田が開発され、のち元禄年間には1千石余りの新田に成長している。

忠直は天和2年(1682年)7月に死去し、その跡を忠隆が継いだ。このとき忠直の遺命で忠隆の弟忠稠に1万石を分与して敦賀藩を成立せしめた。これによって小浜藩は10万3千石となる。
忠隆は治世3年半で病没し忠囿が継いだ。この忠囿の頃が小浜藩政の絶頂期とされる。忠囿は元禄13年(1700年)に郷帳、国絵図を作成している。
しかし一方では藩の収入の大きな部分を占めていた敦賀港、小浜港の通行税収入は、寛文年間を過ぎるて成立した西廻り航路の発展によって減少を余儀なくされた。
元禄年間には敦賀港の入港量は最盛期の四分の一にまで減少し、藩財政に大きな打撃を受けることになる。

衰退期の小浜藩

宝永3年(1706年)9月に忠囿が死去し、支藩の敦賀藩から末期養子に入った忠音が藩主となった。
忠音は享保3年(1718年)に奏者番兼寺社奉行、享保8年(1723年)大坂城代、享保18年(1733年)10月には老中となった。
先代忠囿の代より藩政は安定期を迎えていたが、宝永6年(1709年)大干ばつ、正徳5年(1715年)には飢饉に襲われ、また享保4年(1719年)には城下に大火が発生するなど災害にも見舞われた。
このころから藩財政は目に見えて悪化しだすが、その原因はこれらの災害のほかに、忠音が幕閣に入ったことでの出費増が影響したことは間違いない。

忠音は享保20年(1735年)5月に江戸で死去するが、この年には藩政期を通じて最大といわれる洪水に見舞われた。
この洪水の被害は山崩れ1万箇所以上、流失家屋350軒、全壊家屋378軒、半壊家屋555軒、死者91名という。忠音の跡を継いだ忠存はまだ16歳であり、この災害に対処するには幼すぎた。
このほかにも小浜藩は先の正徳の飢饉のほか延宝3年(1675年)、天和元年(1681年)にも飢饉に見舞われており、治世5年で死去した忠存の跡を継いだ七代藩主忠用は領内4ヶ村に社倉を創設した。

忠用は延享4年(1747年)奏者番兼寺社奉行、同年12月大坂城代、宝暦2年(1752年)4月に京都所司代となり幕政にも関与し、宝暦7年(1757年)3月に忠与に家督を譲り隠居した。
忠与は治世5年で死去し、その子の忠貫が跡を継いだ。忠貫の代は天明3年(1783年)、4年、6年と凶作が続き、寛政元年(1789年)には洪水、同3年には暴風雨、同4年大水、同5年凶作、同7年大凶作と天災に見舞われ続け藩政は疲弊した。
天明3年には大規模な一揆が起き、小浜城下が打ち壊しにあっていると記録に残っている。

忠貫の跡の藩主は忠進で、忠進は襲封すると財政強化のために国産を奨励するが、文化・文政期にも度重なる洪水や凶作が見舞い、藩政の疲弊度はさらに増し文政3年(1820年)頃には借財は2万両に達し、次の十一代忠順のときには借財は30万両にも達していた。
忠順の代の天保4年(1833年)には大凶作に見舞われ一揆が起き、小浜城下が打ち壊しにあっている。
このように藩財政は極度に疲弊した中で小浜藩は幕末期に差し掛かるのであるが、その直前に蘭学者杉田玄白や国学者伴信友が藩から出ている。
これは代々の藩主が好学であり、藩校開設(七代忠用のときに事実上の藩校が開設されたといわれる)以前でも小浜には学問の気風が色濃かったことと無関係ではない。

幕末の小浜藩

十一代藩主忠順は天保5年(1834年)2月に隠居し、養子の忠義が家督を継いだ。忠義は天保13年(1842年)5月に寺社奉行となり、天保14年(1843年)11月から嘉永3年(1850年)7月まで京都所司代を勤めた。
安政5年(1858年)に所司代に再任し、文久2年(1862年)6月まで所司代を勤めた。二度目の所司代に就いた安政5年には大老井伊直弼の元で、幕閣反対派の大弾圧である安政の大獄を京都で指揮している。
また和宮降嫁実現に奔走するなど公武合体に尽力し、その功により万延元年に2万石加増の上、左近衛少将に叙任した。さらに文久2年(1862年)3月に1万石の加増を得る。

しかし寺田屋事件を機に失政を批判されて所司代を罷免され、文久2年閏8月1日には所司代在任中に尊皇派の隆盛を阻止し得なかったとの理由で隠居を命じられ、養子忠氏に家督を譲った。なお、忠義への加増はいずれも役料加増であり、罷免とともに減知された。
忠氏は元治元年(1864年)に水戸天狗党追討の命を受け敦賀付近に出陣、慶応4年(1868年)の鳥羽伏見の戦いには幕府軍として藩兵450名余りをもって参陣したが敗走、小浜に引きあげる途中で山陰道鎮撫総督に降伏した。

藩では朝敵の汚名をきることを恐れて、忠義が上洛して岩倉具視を通じて朝廷に陳謝して赦され、その後は新政府軍に属して北陸から信越地方に転戦したが、家臣が彰義隊に参加したことを咎められて、父で隠居していた忠義とともに謹慎処分となる。
忠氏、忠義父子はのちに罪を赦されるが、忠氏は明治元年(1868年)12月に病気を理由に隠居し、家督を先代の酒井忠義に譲った。
再封した忠義は忠録と名を改め、翌明治2年版籍奉還により小浜藩知事、明治3年(1870年)9月に支藩鞠山藩と合併して藩知事を鞠山藩主酒井忠経に譲って辞任した。
翌明治4年7月に廃藩置県により小浜藩は名実ともに消滅し、その後小浜県、敦賀県を経て福井県に編入される。

参考文献:江戸三百藩主人名事典(新人物往来社)、新編物語藩史(新人物往来社)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ
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