歴史の勉強

対馬藩

対馬藩には石盛がないために正式な石高はなく、10万石格と称された。
藩主 在任
宗義調 天正15.5〜天正16.12
1587〜1588
宗義智 天正16.12〜元和元.1
1588〜1615
宗義成 元和元.1〜明暦3.10
1615〜1657
宗義真 明暦3.12〜元禄5.6
1657〜1692
宗義倫 元禄5.6〜元禄7.9
1692〜1694
宗義方 元禄7.11〜享保3.9
1694〜1718
宗義誠 享保3.11〜享保15.11
1718〜1730
宗方熈 享保16.2〜享保17.9
1731〜1732
宗義如 享保17.9〜宝暦2.1
1732〜1752
宗義蕃 宝暦2.2〜宝暦12.閏4
1752〜1762
宗義暢 宝暦12.閏4〜安永7.1
1762〜1778
宗義功 安永7.3〜天明5.7
1778〜1785
宗義功 天明5.7〜文化9.10
1785〜1812
宗義質 文化9.10〜天保9.8
1812〜1838
宗義章 天保10.2〜天保13.5
1839〜1842
宗義和 天保13.8〜文久3.1
1842〜1863
宗重正 文久3.1〜
1863〜

対馬藩の概略

対馬藩は江戸時代を通じて宗氏が領主として君臨し、府中藩、厳原藩とも称される。対馬一国のほかに、肥前、筑前、下野などにも飛地があり、これら飛地は耕地面積の少ない対馬においては重要な米穀の生産地でもあった。
宗氏は室町時代以降、実質的な島主として対馬を支配し、戦国期には北九州にまで戦力を送り戦ったほどであった。
その力の背景となっていたのは、朝鮮との間の貿易であった。対馬の歴史は対朝鮮交易を抜きにしては考えられなかった。

耕地面積の少ない対馬にあっては、九州本土よりも地理的に近い朝鮮との交易を独占し、それで得た品を更に国内各地と交易して、利益を得ていたのである。
当時の朝鮮は日本にとって先進国であり、唯一の外国であったのだった。ところが豊臣秀吉による対明侵攻作戦によって日本と朝鮮との間に戦闘が起り、当然にして朝鮮との外交関係は断絶してしまう。
文禄・慶長の役と呼ばれる朝鮮との戦闘は、対馬をも荒廃させたのであった。

秀吉が死去し、関ヶ原役では宗氏は西軍に与した。だが戦後宗氏に咎めはなく、所領は安堵された。これは対朝鮮復交には宗氏が必要との徳川家康の判断であったといわれる。
いずれにせよ対馬藩政の初期は、対朝鮮との交易の復活が最重要課題であった。
慶長12年(1607年)に朝鮮使節が来日して家康、秀忠と会見して国交が回復し、慶長14年(1609年)には慶長条約(己酉約条)結ばれて交易が再開された。
その後、朝鮮との交易は年を追うごとに盛んになるが、この間に外交文書である国書が対馬において改ざんされていたことが判明する。これは長年に渡り宗氏の重臣であった柳川氏の告発によるものであった。

柳川氏の当主調興が藩主宗義成に反発し、独立を企んで騒動となり、その過程で国書の改ざんが明らかになったのである。
ことは国家的大事件となり、将軍家光の親裁で柳川調興は改易配流となり事件は落着した。しかし、対朝鮮交易はその後下降線を辿る。
日本から見て先進国であった朝鮮の技術や交易品が日本でも開発されてくると、わざわざ輸入する必要もなくなった。
例えば主要な交易品であった高麗人参なども、日本国内で栽培され始めたのである。また、朝鮮も当時は鎖国であり、新たな交易品開発の可能性もなかった。これが朝鮮交易が下降線を辿る大きな原因であった。

一方、朝鮮からは日本に対して度々使節が派遣された。寛永13年(1636年)の泰平の賀を祝す使節から通信使の名称が使われ、寛永20年(1643年)の第五回以降は将軍の代替わりごとに通信使が派遣されるのが慣例となった。
宗氏は、この通信使護衛の責任者であり、藩主は通信使を対馬で迎えると、使節と行をともにして江戸に上った。
この通信使随行は特例として参勤交代を兼ねることとされたが、外交使節の接遇であり補助はあったものの、その随行接待費用は莫大であり、対馬藩の財政を圧迫した。
一方、幕府でも通信使応接には莫大な費用がかかることもあり、寛政10年(1798年)には朝鮮通信使応接を江戸ではなく対馬に変更した。
このために幕府は対馬藩に対して応接費用8万両を下賜したほか、肥前、筑前、下野国内で2万石を加増した。

このころになるとロシアの軍艦が対馬周辺の海上に頻々と現れ、文久元年(1861年)にはロシア軍艦ポサドニック号が浅茅湾内に停泊したうえ、島民と衝突した。
ポサドニック号は結局6ヶ月余り停泊し、対馬藩及び幕府の無力が明らかとなる。対馬藩では単独での海防が不可能と判断して、河内30万石への移封願書を幕府に提出するが、領内では移封反対の声が高く、これが尊王攘夷論と結びついて内訌が起る。
慶応元年(1865年)に至り内訌は一応の結着を見るが、藩論の統一は容易ではなく、混乱した状態で明治を迎えるのである。

対馬藩と朝鮮の関係・国交の回復

豊臣秀吉の朝鮮侵略によって断交状態にあった日朝関係が、修復に向けて大きく動き出したのは慶長8年(1603年)のことであった。
日本側では早くから朝鮮との復交を望んだし、朝鮮への依存度の高い対馬藩にとってはより切実な願いであった。
一方朝鮮側でも、引き続き朝鮮に駐留する明軍の横暴が激しくなるに連れ、日本と早く修交して明軍撤兵を望む声が高くなってきた。

慶長8年(1603年)に朝鮮から全継信、孫文惑が対馬に来て修交交渉が本格化した。朝鮮側は修交の条件として、日本から朝鮮へ国書を出すことと、文禄慶長の役で王陵を荒らした犯人の引渡しを挙げた。
最初の条件である国書の提出は、当時の外交上の慣習では日本が降伏の意思表示をするという意味でった。幕府としても簡単に受け入れられる条件ではない。

朝鮮との一日も早い修交を望む義智は、幕府に相談もなく勝手に国書を偽造してしまう。さらに対馬にいた罪人を王陵破壊の犯人として朝鮮に引き渡した。
朝鮮ではこれらの偽装工作を全て把握していたが、慶長11年(1606年)に回答使を派遣することを決め、翌慶長12年正月に呂祐吉を正使とする使節団が対馬経由で江戸に入った。
このとき正使が持参した朝鮮国王の文書は、先の偽造文書への返書であり、そのまま幕府に提出というわけにはいかず、義智は今度は朝鮮国王の文書を改作した。

しかし、これをきっかけに交渉が進み、慶長14年(1609年)5月に慶長条約が結ばれ、ようやく朝鮮との修交がなった。条約の内容は第一として日本からの使者は国王使、対馬の島主使、対馬の受職人(朝鮮の官職を授けられたもの)のみとする。
第二に対馬から歳遣船は20艘とする。第三に受職人は朝鮮との戦役中に朝鮮に協力するか戦後捕虜の送還など朝鮮に功績があったものに限るというのが基本条項であった。
日本人の居住は釜山のみに許され、日本人の応接も釜山で行われ、漢城への道は閉ざされた。慶長16年(1611年)に戦後初の歳遣船が対馬を出て、通交が再開された。

慶長19年(1614年)に家康は定期的な朝鮮通信使の来日を求めた。家康は義智の国書偽造や改作などまったく知る由もなく、朝鮮との関係も円満であると信じていたようだ。
義智にしてみれば、苦しみながらもようやく朝鮮との修交にこぎつけたところで、通信使の定期的な派遣などまだまだの段階であった。
第一、朝鮮は明によって属国化されていて、明が侵略者と断じている日本に使者など出すわけもなかった。ところが元和元年(1615年)に豊臣氏が大阪夏の陣で滅ぶと、朝鮮と明は侵略者豊臣氏を滅亡させた徳川幕府に好感を抱く。

対馬藩と朝鮮の関係・国書の改ざんと柳川一件

これにより明も軟化して元和3年(1617年)に、朝鮮から回答使として呉允謙一行4百余名が派遣されてきた。このとき既に義智は亡く、その後の義成の代になっていた。
日本と朝鮮の間にたって長年翻弄された義智は、元和元年(1615年)正月3日に、豊臣氏の滅亡を知ることなく没していたのだった。
対馬経由で来日した呉允謙一行は伏見城で二代将軍秀忠と会見したが、このときにまた国書が問題となった。朝鮮側は国書の署名を「日本国王」とするよう求めてきたが、秀忠は「日本国源秀忠」と書いた。
このために対馬で再び国書の改作が行われ、王の字を付け加える工作がされた。

さらに寛永元年(1624年)に家光の将軍就任を賀する回答使が来日した際にも、またまた国書の改作が行われる。このときは「日本国主」となっていた署名の点を削って「日本国王」と偽造された。
積み重ねられた国書の偽造は、やがて幕府に発覚することとなった。宗氏の家老の地位にあった柳川調興が宗義成に不正ありと幕府に訴えたのだ。
柳川氏はもともと商人であったが、先々代調信が宗義調に見出されて家臣となり、主に朝鮮との外交で活躍した。調信の子が関ヶ原役の際に疑惑の対象となった景直で、景直もまた外交面で活躍した。

景直の子が調興であったが、調興は義成と不和となり、さらに調興の所領の件で義成と衝突して幕府へ義成を訴えたのだった。
将軍家光は寛永12年(1635年)に江戸城で老中列座のもと義成と調興を対決させた。義成は国書改ざんを隠し切れずにそれを認めた。
しかし朝鮮との外交は柳川氏の所管であり、また義成は家督相続時12歳と幼年であったために、国書改ざんへの関与は否定されて義成へは咎めなく、調興は津軽へ流罪となった。
この事件を柳川一件というが、すでに対馬での国書の偽造は幕府の知るところとなっていて、柳川調興が全ての罪を被ることで、宗氏の大名の地位を護ったものとされる。

対馬藩と朝鮮の関係・柳川一件以後

柳川一件以降は国書への署名は「日本国大君」とされ。これが幕末期に諸外国が将軍を指す言葉として使った「タイクーン」の語源となる。
寛永元年(1624年)に家光の将軍就任祝賀の回答使が来日し、その後は寛永13年(1636年)に泰平祝賀、寛永20年(1643年)と来日があった。
以後はすべて将軍が代替わりした際の奉賀の使で、家康が望んだ定期的な通信使は寛永13年の泰平祝賀以降のことを指すとされる。
通信使一行は正使以下4百人台で、釜山から対馬に渡り、宗氏の案内兼護衛で壱岐を経て瀬戸内海に入り、大坂から淀川を遡って京に入り、中山道から美濃路、東海道を上って江戸に達するというのが道筋であった。
宗氏は江戸まで通信使と行動を共にし、この江戸入りを参勤に変える特例であった。

この朝鮮通信使接待の為の出費で、対馬藩の財政は苦しかった。享保5年(1720年)に藩主義誠は倹約令を出しているが、このころから朝鮮との交易の旨味も次第に失われていった。
対馬藩は10万石格の国主大名であったが、対馬一国の実高は2万石程度であった。対馬は山がちで耕地に乏しく新田開発は不可能であった。
肥前田代に1万2千8百石の飛地を持っていたが、財政の窮乏は著しく、文政元年(1817年)に幕府は肥前、筑前、下野に合せて2万石の飛地を加増した。
これらによって対馬藩はよいやく領民を養い、通信使の接待を行うことができたのである。

宗氏にとって朝鮮交易は最大の特権であったが、先に書いたようにやがてその旨味は薄れていった。最大の理由は朝鮮から得るものが少なくなっていったことである。
日本から見てかつては先進国であった朝鮮も鎖国体制であったために進歩がなく、やがて日本が追いついてくると朝鮮は取り得のない国に成り下がってしまう。
例えば高価な輸入品であった朝鮮人参も国内で栽培され、なにも朝鮮から輸入する必要はなくなってしまった。さらに通信使接待の莫大な負担もあって、対馬藩の財政は窮乏し、宗氏の衰弱に繋がっていった。る

領内政策

藩政初期において対朝鮮との修交問題に全力を傾けた対馬藩が、交易の回復によって安定してくると、ようやく藩政を一新する余裕が生まれた。
宗義成の跡を継いで藩主となった義真は、寛文元年(1661年)に検地の方法を全面的に改めた。それまでの石高制を廃して、間尺法をもとにした間高制を採用したのである。
畑を上々畑、上畑、中畑、下畑の四等級に区分し、田も同じく四等級、木庭(焼畑)も四等級とし、すべての耕地を12等級に分ける。
このうち上々畑と麦を基準として、ほかの等級を換算していく方法であった。

義真はこの検地によってそれまでの地方知行制を蔵米制に改めた。これに基づいて行政も整備され、対馬国内は豊崎、佐護、伊奈、三根、仁位、与良、佐須、豆酘の八郷に分けられて、各郷ごとに奉役を筆頭にして行政が組織された。
また、島外では江戸、大坂、京、博多、長崎、壱岐勝本、肥前田代、朝鮮釜山に藩役所が置かれた。
このうち壱岐は九州への中継地点の役割であり、肥前田代は飛地である通称田代領を支配するためのものである。
田代領はもともと耕地面積の少ない対馬における貴重な米穀類の供給地であり、豊臣秀吉によって公認された飛地であった。

朝鮮釜山に置かれた役所は倭館と呼ばれる。倭館はもともと朝鮮側が対馬から来航した人々を滞留させるために設けたもので、日本における長崎出島のような存在であった。
倭館の責任者は対馬から派遣される館守であり、その下に代官や書記である書僧倭、通詞(通訳9が常駐した。
そのほかの役人を合せると滞留人数は4〜5百名にも昇ったといい、対馬藩との交易はこの倭館を中心に行われた。
交易には進上貿易といわれる儀礼名目での貿易、朝鮮政府と取引を行う公貿易、朝鮮の商人と行う私貿易があったが、いずれも江戸後期には前述したように不振となった。

また義真は、桟原(さじきはら)に居館を新造して府中を城下町として整備したほか、大船越瀬戸を開削する大事業を起こした。
対馬は現在上島と下島に分離されているが、もともとは狭い地峡で結ばれ陸続きであった。
この地峡を切って浅茅湾と日本海を結ぶのが長年の課題とされていたが、この大事業が義真によって着手され、寛文12年(1672年)に完成したのである。
このときは長さ60間、幅10間であったが、その後江戸期を通じて拡張工事がなされる。
さらに佐須銀山の開発が進められ、最盛期には8万石に達し、その物成は3万2千石に匹敵すると計算され、藩財政の8割を占めた。

文教面では五代将軍綱吉の侍講であった朱子学者木下順庵の弟子雨森芳洲を藩に迎え、貞享2年(1685年)に藩校小学校が設立される。
その後、藩校は天明8年(1788年)に思文館が、元治元年(1864年)に日新館(はじめ文武館)が設立されている。
農政では義真治世の後期に陶山訥庵が起用され、そのもとで元禄13年(1700年)から農作物を荒らす害獣である猪を殲滅する作戦を決行した。
将軍綱吉の時代であり、生類憐みの令下であったが、訥庵は藩論を動かして野猪撲滅を藩の方針として行なった。
また粗放農業を集約農業に転換し、甘蔗栽培を奨励し、それらの功績から訥庵は対馬聖人と称されている。

幕末期の対馬藩

幕末期における対馬藩は、朝鮮貿易の不振と朝鮮通信使の接待費の累積により財政が窮迫していた。
そこに欧米の列強の東洋への進出が重なる。日本近海へも外国船が出没し始めたが、日本と朝鮮との間に位置する対馬は、その位置ゆえに注目を集める。
万延元年(1860年)11月には英国船対馬海域の測量を行い、これを聞いたロシアは英国に対馬占領の意図があるとして、軍艦ポサドニック号を対馬に進出させ、浅茅湾内に修理を名目として停泊させた。

ロシアは浅茅湾内を測量し、上陸して営舎を構築し、井戸を掘った。当初藩では幕府と長崎奉行に報告し、穏便に処理する方針であった。
しかしロシア側が住民を襲撃したために藩側も態度を硬化させ、幕府も外国奉行小栗忠順を派遣してロシアとの交渉に入った。
交渉は難航し、小栗はなんら解決に至らぬまま空しく江戸に引き揚げ、こう着状態が続く。その後英国公使オールコックのロシアに対する強硬な抗議などがあり、ようやくポサドニック号は対馬を去った。
ポサドニック号の対馬停泊は半年にも及び、藩及び幕府の無力が明らかとなった。

対馬藩ではポサドニック号事件の前に海防の難しさを考慮して河内30万石への移封を幕府に願った。
朝鮮との交易は幕府が直轄し、対馬も幕府領とする案で、対馬藩江戸家老佐須伊織を中心に画策された。
領内では移封反対の声が高かったが、伊織は老中安藤信正に運動を続け、さらにポサドニック号事件が起きるに及んで、伊織の移封運動は激しさを増した。
しかしポサドニック号退去、安藤信正失脚によって、藩内の移封反対派の勢いが増し、文久2年(1862年)に脱藩した藩士42名によって伊織が襲撃されて斬殺され、移封問題は立ち消えになった。

移封論は消えたものの今度は尊王攘夷論を巡って内訌が起きる。文久2年に攘夷派の村岡近江、幾度八郎、大浦遠らが長州と同盟し藩主義達(のちの重正)章に攘夷を迫る。
これに対し義達の叔父で佐幕派の勝井五八郎が攘夷派の弾圧に乗り出した。攘夷派の中心人物であった家老大浦教之助は捕らえられて獄門に架けられ、幾度八郎は自害させられた。
その後も攘夷派に対する弾圧が続いたが、時勢は勝井の暴政を許さず、慶応元年(1865年)に平田大江が諸藩の尊王派の応援を得て肥前田代で尽義隊を結成して勝井に対抗した。
平田は勤王か佐幕かの選択を義達に迫り、勝井は同年5月に義達の命によって討ち取られる。この一連の騒動を甲子事変あるいは勝井騒動という。
その後平田も秩序回復を図るために義達の命によって討たれ、血で血を洗う抗争には一応の終止符が打たれたが、藩論は統一できずに王政復古となった。このときに府中を厳原と改称したが、混乱のまま明治維新を迎えた。

参考文献:江戸三百藩主人名事典(新人物往来社)、新編物語藩史(新人物往来社)、藩と城下町の事典(東京堂出版)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ
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