歴史の勉強

掛川藩

藩主 在任 石高(万石) 特記
山内一豊 天正18~慶長5
1590~1600
6.8 土佐へ
松平(久松)定勝 慶長6.12~慶長12.閏4
1601~1607
3.0 山城伏見へ
松平(久松)定行 慶長12.閏4~元和3
1607~1617
3.0 伊勢桑名へ
安藤直次 元和3~元和5
1617~1619
2.0 徳川頼宣付家老
松平(久松)定綱 元和5.7~寛永2.1
1619~1625
3.0 常陸下妻より
山城淀へ
朝倉宣正 寛永2.1~寛永9
1625~1632
2.6 徳川忠長付家老
青山幸成 寛永10.2~寛永12.7
1633~1635
3.3 摂津尼崎へ
松平(桜井)忠重 寛永12.8~寛永16.2
1635~1639
4.0 駿河田中より
松平(桜井)忠倶 寛永16.3~寛永16.3
1639~1639
4.0 信濃飯山へ
本多忠義 寛永16.3~正保元.3
1639~1644
7.0 播磨より
越後村上へ
松平(藤井)忠晴 正保元.3~慶安元.閏1
1644~1648
3.0 駿河田中より
丹波亀山へ
北条氏重 慶安元.閏1~万治元.10
1648~1658
3.0 駿河田中より
改易
井伊直好 万治2.1~寛文12.1
1659~1672
3.5 三河西尾より
井伊直武 寛文12.3~元禄7.11
1672~1694
3.5  
井伊直朝 元禄7.11~宝永2.12
1694~1705
3.5 封知収公
松平(桜井)忠喬 宝永3.1~正徳元.2
1706~1712
4.0 信濃飯山より
摂津尼崎へ
小笠原長煕 正徳元.2~元文4.4
1712~1739
6.0 武蔵岩槻より
小笠原長庸 元文4.4~延享元.7
1739~1744
6.0  
小笠原長恭 延享元.8~延享3.9
1744~1746
6.0 陸奥棚倉へ
太田資俊 延享3.9~宝暦13.12
1746~1763
5.0 上野館林より
太田資愛 宝暦13.12~文化2.2
1763~1805
5.0  
太田資順 文化2.4~文化5.10
1805~1808
5.0  
太田資言 文化5.12~文化7.6
1808~1810
5.0  
太田資始 文化7.8~天保12.6
1810~1841
5.0  
太田資功 天保12.6~文久2.1
1841~1862
5.0  
太田資美 文久2.3~明治2.1
1862~1869
5.0  上総柴山へ

戦国時代、掛川を含む遠江一帯は今川氏の領地であった。今川氏は重臣朝比奈泰煕にこの付近を与え、泰煕が築城したのが掛川の始まりであるという。
その最初は定かではないが文明年間(1469~86年)とされ、当時は懸川と書いたという。朝比奈氏は泰能、泰朝と継いで今川氏とともに滅んだ。
今川氏最後の氏真は本領の駿河を武田信玄によって追われ、掛川城に拠ったが、今度は徳川家康の包囲にあった。
結局永禄12年(1569年)3月に氏真は開城し、掛川は徳川家康の領地となり、重臣石川氏が掛川城主となった。
天正18年(1590年)に後北条氏滅亡後の関東に家康が移封されると、掛川をはじめとする家康旧領には豊臣系の大名がズラリと配置された。
駿河には中村一氏、甲斐には浅野長政、浜松には堀尾吉晴、三河岡崎には田中吉政などであり、掛川には山内一豊が封ぜられた。

山内時代

山内一豊の掛川での任務は、関東に移封された家康への防衛であった。そのほかに一豊は、秀吉側近として京で秀吉に仕え、秀吉の甥でのちに関白職を譲られる秀次の補佐役でもあった。
このため一豊は京に滞在することが多く、掛川には弟康豊が常駐して領国の経営にあたった。掛川は山内氏の時代に、近世城下となったといっていい。掛川城を大改修して天守もこの時代に建てられた。
また城下町の整備、大井川流路の改修のほかに秀吉の命で隣藩である久野藩の松下重綱と協力して大船2隻を建造した。この大船の建造は朝鮮への出兵のためにものであった。
また、掛川は家康が上方と江戸を往復する際の通り道であり、一豊は家康が通行する際に接待をしている。

慶長3年(1598年)8月に秀吉が死去すると、一豊は家康に大きく接近する。一豊の家康への接近は秀次失脚後から速度を増した。
秀次は関白職を譲られたが、秀吉に実子秀頼が誕生すると秀吉から疎んじられるようになる。小心で陰気な秀次は自暴自棄となって乱行を重ね、文禄2年(1593年)7月に改易切腹となった。
この秀吉の秀次に対する扱いを見て一豊が嫌気を持ち、秀吉死後は急速に家康党になっていったとされる。
掛川での家康・秀忠父子への饗応は、一豊の家康への接近により、通常の配慮を超えるものとなっていた。
しかし秀吉没後の加藤清正や福島正則ら武断派と石田三成らの吏僚派の対立には、一豊は中立であった。

慶長5年(1600年)6月に、再三の督促にも上洛しない会津の上杉景勝征伐のために、家康が京を発った。このときも一豊は掛川で家康を饗応し、その後に出陣の準備を整えて会津に向った。
小山において石田三成が上方で挙兵したとの報が届き、家康は軍議を催す。豊臣恩顧の諸将の動向を見極める軍議であったが、用心深い家康はその前に様々な手を打っていた。
その軍議の前日、一豊は妻女から上方情勢を綴った密書を受取り、妻女の別書の指示で密書を封をしたまま家康に届けた。これによって家康は一豊が真の味方と知り、その信頼を勝ち得た話は有名である。
さらに軍議の席で家康に掛川城を兵糧とともに家康に差し出す発言をし、これがもとで諸将は雪崩を打って家康に味方した。
一豊は関ヶ原役では陣を張っただけであったが、小山での発言が戦場のどんな働きにも勝ると家康に高評価されて、戦後土佐一国24万石を与えられた。

頻繁に入れ替わる藩主

山内一豊の転封の後に掛川藩主となったのは、久松松平家の定勝である。定勝は母は於大の方(のちの伝通院)であり、家康の異母弟にあたる。その縁で松平姓を与えられ、一門に準じた。
定勝は慶長12年(1607年)閏4月に2万石を加増されて伏見城代となり掛川を去り、定勝の二男定行が新たに掛川3万石を領した。
大坂の陣で定行は父定勝とともに伏見城、淀城を守備し、元和3年に(1617年)にその功によって定勝が伊勢桑名11万石を領すると世子であった定行も桑名に移った。

久松松平定行に代り掛川に入ったのは安藤直次であった。直次は家康の十男頼宣の付家老であった。
頼信は慶長8年(1603年)に常陸国水戸で20万石を与えられ、同14年(1609年)に駿府50万石に移された。
直次が頼宣に付されたのは慶長15年(1610年)のことで、このときは家康の側近として幕政にも参画していた。
大坂の役では頼宣に従って参陣したが、頼宣の駿府移封後間もない頃であり、軍役が不備であったために兵農未分離であった遠州北部の奥山、阿多古、西手の各地区の在地組織を動員している。

ともあれ大坂の陣で頼宣軍は活躍をし、それはまた安藤直次の功績大であった。元和3年(1617年)に直次は正式に付家老とされ、1万石を加増されて掛川を領した。
直次は頼宣が元和5年(1619年)に紀伊和歌山55万余石に転封されると、頼宣に従って移り紀伊田辺城主となった。
代って久松松平定綱が3万石で入封する。定綱は先々々代の掛川藩主松平定勝の三男で、先々代藩主の松平定行の弟にあたる。定綱の治世も6年と短く、京の警備を命じられて寛永2年(1625年)1月に山城淀に移封された。

寛永元年(1624年)8月、将軍家光の弟徳川忠長が駿河、遠江両国で55万石を与えられ駿府城主となった。
忠長を補佐する付家老には鳥井成次と朝倉宣正が任ぜられた。松平定綱の後に掛川城主となったのは、この宣正であった。
朝倉宣正は天正元年(1573年)に朝倉在重の長男として駿河に生まれ、のちに秀忠に仕えて大番に列し、慶長9年(1604年)に大番組頭、翌10年に使番となった。
たびたびの加増があり、元和7年(1621年)に1万石となり、忠長の付家老となった。翌元和8年に6千石加増、さらに寛永2年に1万石を加増され、2万6千石で掛川城主となった。

忠長は両親の寵愛を受け、一時は兄家光を差し置いて将軍候補にもなったが、家康の鶴の一声で将軍への道を絶たれ、甲斐に封ぜられた後に駿府に移された。
忠長の領国経営は積極的であったが、家光上洛の時に大井川に舟橋を架けたり、浅間神社の神獣とされる猿を退治したりした。
舟橋は交通を便利ならしめるためだし、猿退治は農作物を荒らす害獣退治であたったが、一方で幕府の法や神社の権益を犯す行為でもあった。
もともと忠長を快く思っていない家光は、寛永8年(1631年)6月に忠長に蟄居を命じ、翌寛永9年改易とした。
宣正もこれに連座して酒井忠行に預けられたが、忠長は宣正の赦免を訴え、尾張義直や水戸頼房らも間に立って、一旦は赦された。しかし忠長が改易になると宣正は再び松平忠明に預けられて蟄居となり、そのまま寛永14年(1637年)に死去した。

宣正の改易の後、寛永10年(1633年)2月に青山幸成が常陸から3万3千石で入封し、2年5ヵ月後に摂津尼崎へ転封、代って桜井松平忠重が駿河田中より4万石で入る。
忠重は3年半後の寛永16年(1639年)2月に39歳の若さで没し、跡を忠倶が継いだがわずか6歳と幼いために、襲封と同時に信濃飯山へ転封となった。
代って播磨姫路藩の支藩主であった本多忠義が7万石で入り、在封5年後の正保元年(1644年)に3万石を加増され越後村上10万石に移る。
今度は駿河田中より藤井松平忠晴が3万石で藩主となり、5年いて慶安元年(1648年)閏正月に丹波亀山に移った。
元和3年(1617年)から慶安元年(1648年)の約30年間に、藩主が8人というめまぐるしさである。

北条氏と井伊氏

慶安元年(1648年)閏正月21日に松平忠晴に代って掛川に入封したのは北条氏重であった。氏重の北条氏の祖は北条綱成といい、小田原の後北条氏二代氏綱の娘婿になった人物だ。
もともとは駿河の今川氏の家臣で福島氏を名乗っていたが、のちに北条氏を頼って一族となり、氏繁-氏勝と継いで、氏勝の時に秀吉の小田原征伐に遭い、家康の降伏勧告に応じて家康の家臣となった。その二代後が氏重で、駿河田中から掛川に移ってきた。
この氏重には嗣子がなく、それを気にして掛川に大猷院殿(家光)の神牌を賜って龍華院を創建したり、龍華院の住職には寛永寺から僧を招き150石を寄付するなどしたが、万治元年(1658年)10月に嗣子なくして死去し、絶家となった。

北条氏の後には、三河西尾から井伊直好3万5千石で入る。井伊氏は譜代大名の筆頭格彦根藩井伊氏の一族で、家康に初めて仕えた井伊直政の長男直勝の系統である。
本来は井伊家の惣領であるが、直勝は病弱であったために、家康の命によって惣領の彦根藩主の井伊氏は直政の二男直孝の系統が継承し、直勝は3万石を与えられて上野安中藩主となり、その長男の直好が安中から西尾を経て掛川藩主となった。
直好-直武-直朝と継いだが、直朝は宝永2年(1705年)に病を理由に参勤交代の延期を申し出た。

幕府では仙石久尚、駒木根政方を掛川に向わせ直朝の病状を調べたところ、失心状態であったという。
「掛川誌稿」ではこれを発狂と伝えて、直朝の領地は収公されいったん廃絶したとする。一方「寛政重修諸家譜」では、直朝が失心した宝永2年12月3日以前に、彦根藩井伊家の直該の四男直矩を養子としていたので、直矩に相続が許され、越後国三島、刈羽、頸城三郡内で2万石を与えられ、転封したとする。
「掛川誌稿」の廃絶が事実であったとしても、その後に改めて直矩に相続が許されているのは事実であり、どちらにしても先の北条氏とは雲泥の差である。
若林淳之氏は、北条氏と井伊氏の家柄の差が、両氏の扱いの差になったとしておられるが、まったくそのとおりであろう。

日本左衛門

井伊氏の領地収公転封の後は、信濃飯山から桜井松平忠喬が4万石で入った。
忠喬は寛永16年(1639年)に幼少の故をもって掛川から飯山に転封された、松平忠倶の養子で、67年ぶりの掛川への復帰であったが、6年間いただけで正徳元年(1712年)に摂津尼崎に移った。
松平忠喬に代って甲斐源氏の末裔という小笠原家の庶流長煕が、武蔵岩槻から移ってきた。長煕は駿河田中藩とともに、幕命による大井川治水工事と新田開発にあたり、次代の長庸は久能山東照宮社殿修築を命ぜられた。
長庸は在封5年して延享元年(1744年)に、23歳の若さで没し、跡を長恭が継いだ。

この長恭の代に盗賊日本左衛門の事件が起こる。日本左衛門は実名浜島庄兵衛といい、尾張藩七里役所(御三家では江戸からの街道沿いに、七里ごとに中継地を設けることが許されていた。ここでの七里役所は金谷であったという)の役人の子といわれ、盗賊団の首領として、遠江一帯を荒らし回り、とくに延享2年(1745年)~3年にかけて、その活動が最も激しかった。
延享3年(1746年)9月、豊田郡向笠村庄屋三右衛門が組頭喜八とともに江戸に出て、日本左衛門跳梁を寺社奉行に直訴した。
三右衛門らの行動は、何らの行動も起さず盗賊の跳梁を許している役人たちに対して、自ら義憤を感じて立ち上がったものであろう。

三右衛門らの訴状により、火付盗賊改徳山五兵衛が出向し、延享3年9月に東海道見付宿において、一味の多くを捕縛したが、肝心の日本左衛門は逃走した。
日本左衛門は、翌延享4年に京都の東町奉行所に自首し、事件は落着をしたが、この不始末の責任を取らされて、長恭は陸奥棚倉に転封となった。
転封の理由自体は公式には明らかでないが、日本左衛門一味に対する追及が不首尾で、その跳梁を許したことを咎められたのだという。
この転封を延享太平記は「掛川を 捨ててはるばる みちのくの 旅行く人の 色は土丸」と風刺している。

太田氏の入封

小笠原長恭の棚倉転封により、今度は上野館林から太田道灌の末裔である太田資俊が5万石で入封した。
ここに至って、ようやく掛川藩主は安定を見、太田氏は資俊のあと、資愛-資順-資言-資始-資功-資美と120年余りに渡って掛川を治め、明治元年(1868年)上総柴山に移る。
資俊の入封は、前藩主小笠原長恭の不始末の結果であるから、資俊が治安の維持強化を目指したのは当然であった。
資俊は厳罰主義で臨み、軽度の罪でも極刑に処すなどしたため、領民たちは萎縮し「太田の三文首」などと評されたという。

また、この当時は各藩とも財政状態が悪化して顕在化し、その対策として財政改革、殖産振興を柱に多くの施策が行なわれた時期でもあり、掛川藩においても例外ではなかった。
とくに太田氏は、資俊の先代資晴が陸奥棚倉から上野館林に移り、大坂城代に就任すると上方への領地替があり、資俊の代になると上方の領地を館林周辺に移され、8年ほどで掛川に転封、さらに掛川に移ってからも領地の異動が激しく支配機構は安定しなかった。
転封費用も嵩み、「をりをりの 旅の難儀に 太田どの 知行も扶持も みんな掛川」(延享太平記)と皮肉られるほどであり、財政はことのほか厳しく、その再建は急務であった。
財政再建のための改革の一つとして、資愛の代の享和2年(1802年)に朱子学者松崎慊堂を招いて、藩校北門書院(のちに徳造書院)が設立された。

さらに資順の代には、藩政の基礎資料として「掛川誌稿」が編纂された。掛川誌稿は、藩内各村の地理、歴史、人物、産業、経済、名所旧跡、人情などを詳細に記述したものであり、文化2年(1805年)斉田茂先により編纂作業が始められ、茂先没後は山本忠英に引き継がれた。
斉田、山本とも領内220余りの村々を全て実査して記述し、他藩のように村々からの差出しをもとに記述したものではないことが、大きな特色であった。
しかし、財政再建の道は容易ではなく、藩財政はますます窮乏化していった。そんな中、文化13年(1816年)には遠江一帯を猛烈な台風が襲い、藩内にも大きな被害をもたらした。

村々では年貢の減免を願い出たが、藩では5厘だけの減免しか認めず、これを不満とする農民たちは一揆を組み、その一部は城下まで押しかけた。
藩では説得や交渉を繰り返し、最終的には3分5厘の減免となり、農民側の勝利に終わった。この一揆で藩は12名を首謀者として捕らえたが、処分は手鎖10名、宿預け1名、入牢1名と比較的軽く、さらにすぐに恩赦を与えて許している。
これは藩の対農民政策の転換であり、宥和政策の現れであったが、それは裏を返せば封建主義体制の崩壊の始まりでもあった。

天保期の掛川藩

農民に対する政策転換は、天保年間(1830~43年)に起きた大飢饉に際しての、藩の対応にも反映されている。
天保7年(1836年)に藩主資始は老中に就任したが、そのときから大飢饉が始まったのは一種の皮肉であった。
この飢饉に対して藩が行った対策は「松皮製造法」、つまり松の皮の食べ方を村々に配布したことであった。
ほかにも対策を施したのかも知れないが、現在事実として伝わるのは、この松の皮の食べ方を広めたことだけであるという。

むしろ領内榛原郡湯日村庄屋滝三郎一のような有徳人たちが講をつくり、自主的に窮民救済事業を行った。
これはすでに藩当局は農民支配の当事者能力をほとんど失い、農民自らの組織や有力者など非公式ながらも強力な力を通じて、間接的な支配を行わざるを得ないのが実態となっていたのではなかろうか。
このことは、やがて報徳運動を生み、さらに拡大発展していき、大日本報徳社の成立を見る。

さて、資始の老中就任は天保7年のことであったが、天保の改革で有名な水野忠邦がその2年前、天保5年(1834年)に老中となっていた。
忠邦は野心家であり、老中になりたくて肥前唐津から遠江浜松への転封を画策した人物である。資始は忠邦の改革には反対であり、忠邦失脚を謀ろうとさえしていたという。
しかし、それに失敗して天保12年(1841年)6月、老中を辞任したが、この直後から忠邦の天保の改革が着手されていることからも、罷免に近いものであったのかもしれない。
ちなみに忠邦が改革に失敗して失脚するのは、天保14年(1843年)閏9月のことであった。

幕末の掛川藩とその消滅

老中を辞任した資始は、資功に家督を譲り隠居して道醇と号したが、安政5年(1858年)に井伊直弼が大老となると、老中に再任された。
しかし日米通商条約を独断で調印しようとする直弼と、それを阻止しようとする水戸藩の対立が激しくなると、資始は水戸藩を庇い、それが直弼の怒りを買い、老中罷免のうえ謹慎処分となった。
資始は直弼が桜田門外で暗殺されたあとの文久3年(1863年)4月に三度目の老中となったが、翌月に辞職し、慶応3年(1867年)の没している。

幕末期、掛川藩の藩論は比較的早くに勤皇で統一された。もっとも佐幕派の一部の藩士の脱藩(61名という)などはあったが、平穏裡に混乱期を乗り切ったといえよう。
最後の掛川藩主資美は、慶応4年(1868年)東征軍に対して勤皇証書を提出している。
なお、同年に浜松藩内で結成された遠州報国隊は、もともと神職を中心とした集会が、尊皇倒幕、官軍参加に発展していったものであるが、掛川藩内からも参加者があり、有栖川宮東征大総督に属して、東北地方まで従軍している。

明治元年(1868年)9月に徳川慶喜は大政奉還し、徳川家の家督は田安亀之助が家達と改名して継いだ。
家達には駿河遠江70万石が与えられ、駿府城に拠ることとなった。このため駿河、遠江の諸大名は上知のうえ転封させられる。
掛川藩主資美は上総柴山(のちに松尾)に転封となり、同時に掛川藩は消滅した。

参考文献:江戸三百藩主人名事典(新人物往来社)、新編物語藩史(新人物往来社)、藩と城下町の事典(東京堂出版)、掛川城のすべて(掛川市教育委員会)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ
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