歴史の勉強

浜松藩

藩主 在任 石高(万石) 特記
堀尾吉晴 天正18.8~慶長4.10
1590~1599
18.0  
堀尾忠氏 慶長4.10~慶長5.11
1599~1600
18.0 出雲松江へ
松平(桜井)忠頼 慶長6.2~慶長14.9
1601~1609
5.0 武蔵松山より
除封
水野重仲 慶長14.12~元和5.7
1609~1619
3.5 徳川頼宣付家老
高力忠房 元和5.9~寛永15.4
1619~1638
3.6 武蔵岩槻より
肥前島原へ
松平(大給)乗寿 寛永15.4~正保元.2
1638~1644
3.5 美濃岩村より
上野館林へ
太田資宗 正保元.2~寛文11.12
1644~1671
3.5 三河西尾より
太田資次 寛文11.12~延宝6.6
1671~1678
3.5 摂津へ
青山宗俊 延宝6.8~延宝7.2
1678~1679
5.0 摂津より
青山忠雄 延宝7.4~貞享2.8
1679~1685
5.0  
青山忠重 貞享2.10~元禄15.9
1685~1702
5.0 丹波亀山へ
松平(本庄)資俊 元禄15.9~享保8.7
1702~1723
7.0 常陸笠間より
松平(本庄)資訓 享保8.8~享保14.2
1723~1729
7.0 三河吉田へ
松平(大河内)信祝 享保14.2~延享元.4
1729~1744
7.0 三河吉田より
松平(大河内)信復 延享元.6~寛延2.10
1744~1749
7.0 三河吉田へ
松平(本庄)資訓 寛延2.10~宝暦2.3
1749~1752
7.0 三河吉田より
松平(本庄)資昌 宝暦2.5~宝暦8.12
1752~1758
7.0 丹後宮津へ
井上正経 宝暦8.12~明和3.5
1758~1766
6.0 摂津より
井上正定 明和3.7~天明6.3
1766~1786
6.0  
井上正甫 天明6.5~文化14.9
1786~1817
6.0 陸奥棚倉へ
水野忠邦 文化14.9~弘化2.9
1817~1845
7.0 肥前唐津より
水野忠精 弘化2.9~弘化2.11
1845~1845
5.0 出羽山形へ
井上正春 弘化2.11~弘化4.2
1845~1847
6.0 上野館林より
井上正直 弘化4.4~明治元.9
1847~1868
5.0 上総鶴舞へ

「はま松は 出世城なり 初松魚」(松島十湖)といわれるように、浜松に封じられた大名は幕府の要職を得ることが多かった。
浜松藩主は江戸期を通じてすべて譜代大名で占められ、25人の藩主のうち老中6人、京都所司代2人、大坂城代2人、寺社奉行4人など多くの要職者を出している。
家康も三河岡崎からこの浜松、さらに駿府、江戸と居城を移すたびに実力者としてその地位を高めていき、ついに天下人となった。その故もあって出世城といわれるようになったのだろう。

浜松築城は家康によってなされたのであるが、その以前この地には、曳馬城と呼ばれる小規模な城郭があり、今川氏の重臣飯尾賢連が守っていた。
桶狭間の戦いで今川義元が討ち取られると、家康は今川氏の呪縛から解き放たれ、三河を平定して遠江に進出し、曳馬城の西側台地先端を利用して新城を築き、付近にあった集落の名を取って浜松城と命名したとする。
家康は17年間にわたり浜松を本拠とし、織田信長と同盟して長篠で戦い、その後武田氏を滅ぼすと甲斐、信濃、駿河を合わせて5ヶ国の太守となり、天正14年(1586年)に駿府に居城を移した。
さらに天正18年(1590年)には小田原北条氏の滅亡によって関東へ移され、浜松をはじめとする家康旧領には豊臣系大名がズラリと配置された。
駿河には中村一氏、甲斐には浅野長政、掛川には山内一豊、三河岡崎には田中吉政などであり、浜松には堀尾吉晴が封ぜられた。

初代藩主堀尾氏

初代浜松藩主となる堀尾吉晴は、尾張の土豪の出で織田信長に属し、のちに秀吉に仕えてその信頼が篤く、天正11年(1583年)に若狭高浜1万7千石、翌天正12年には2万石加増、天正13年(1585年)近江佐和山と順調に出世し、九州征伐や小田原征伐でも功を挙げて、天正18年(1590年)8月に12万石で浜松に入った。
この堀尾時代の12万石というのが、歴代の浜松藩主の中で最大の石高である。
堀尾吉晴は中村一氏、生駒親正とともに三中老になったが、秀吉の死後は家康に接近し、慶長4年(1599年)10月に老齢を理由に隠居し、二男の忠氏に封を譲った。
このときに家康から越前府中5万石を隠居領として与えられているが、これは家康の外様大名懐柔策の一環であったことは間違いない。

吉晴の隠居により、浜松城は忠氏の居城となった。関ヶ原の戦いで吉晴、忠氏父子は東軍に属し、戦後は23万5千石を与えられて出雲松江城主となった。
堀尾氏の出雲転封は、表向きは加増のうえの栄転であるが、駿河、遠江、三河、尾張と連なる東海道筋には、一門や譜代の信頼の置ける大名を配置し、幕藩体制をより強固にするという家康の政策によるものであることは明らかである。
これ以後は浜松に外様大名が封ぜられることは一切なかった。

譜代大名の城

堀尾氏に替って浜松に封ぜられたのは、桜井松平氏の忠頼であったが、慶長14年(1609年)に江戸で大番頭水野忠胤の屋敷での茶会で、囲碁をめぐる口論から殺害されて除封となった。
替って水野重仲が入り11年間在封するが、重仲はのちに紀州徳川家の祖となる徳川頼宣の付家老であった。
頼宣は慶長14年(1609年)に駿府50万石に、さらに元和5年(1619年)には紀伊和歌山55万余石に転封される。
したがって水野重仲も元和5年に紀伊新宮へ転じ、その後に高力忠房、松平(大給)乗寿、太田氏二代、青山氏三代、松平(本庄)氏二代、松平(大河内)氏二代と続く。

太田氏は大坂城代就任によって摂津、河内、和泉などの畿内諸国に封地を移されたもので、入れ替わった青山氏は大坂城代を退任しての襲封であった。
次の本庄松平氏は、五代将軍綱吉の生母桂昌院(於玉の方)の義弟本庄宗資を祖とする家で、綱吉に取り立てられて大名となり松平姓を賜った。
二代目の資俊が常陸笠間より浜松に移り、次の資訓が三河吉田に転じた。
入れ替わりに三河吉田から大河内松平信祝が入った。大河内松平氏は智恵伊豆と呼ばれた信綱の系統で、信綱は三代将軍家光に仕えて幕藩体制の基礎固めを仕上げた人物だ。
大河内松平氏は信祝、信復と二代21年間在封して三河吉田へ戻り、再び本庄松平資訓が復して二代11年間続く。

宝暦8年(1758年)に丹後宮津に転じた本庄松平氏に替って、井上正経が入り三代にわたって60年間治めた後、正甫のときに陸奥棚倉に左遷される。正甫の不義が原因という。
次に天保の改革で有名な水野忠邦が入封するが、改革に失敗して隠居し、嫡子の忠精に封を譲るが、すぐに出羽山形に左遷され、再び井上氏が入り、正春-正直と継いだが、明治元年(1868年)に上総鶴舞に転封となった。
この転封は大政奉還により、徳川家が江戸から駿府に移されたことによるものである。すなわち大政奉還によって徳川家は、かつての豊臣家のように一大名となり、駿遠両国を与えられ、それによって駿遠両国に封地を持つ諸大名はことごとく転封させられたのである。

浜松藩の特徴

このように浜松藩主は譜代の大名家がめまぐるしく交代し、しかもその多くが幕閣の要職に就いた。
譜代大名の出世コースは、詰衆(非常に備えて交代で江戸城中に詰める、城内雁間に詰めた)から奏者番、または詰衆並(菊間または菊間縁頬に詰めた)から大番頭、大坂定番、伏見奉行などを経て奏者番となり、さらに寺社奉行(奏者番と兼帯が原則だった)、大坂城代、京都所司代、老中というのが定番であった。
奏者番は江戸城中での儀式の進行役であり、江戸城中は儀式の連続で、諸大名も儀式のために登城しているようなものだから、たいへんに重要な役職であった。

冒頭に記したように出世城といわれた浜松城は、おのコースに沿っている大名が多く、松平乗寿、青山宗俊、松平信祝、井上正経、水野忠邦、井上正直はいずれも在封中に老中になっている。
特に水野忠邦は老中になりたくて浜松への転封を希望し、運動したほどで、ある意味で浜松の藩主は魅力的であったのかもしれない。
しかし幕閣の要職に就けば江戸常駐となり、ほとんど帰国できず藩政は家老任せとなる。また移封が激しいということは領主と領民の関係が薄いということになり、領民から見て藩主は遠い存在となっていき、名君や賢君という自慢できる藩主がいないことにつながった。
浜松城は今でも家康の城であり、江戸期の大名については、ほとんど忘れられたようになっている。

浜松が発展していった大きな要因は、東海道の重要な宿場であったことにある。家康は慶長6~7年(1601~2年)にかけて、東海道をはじめとする五街道を整備し、伝馬制を実施して運賃や助郷の制度を定め一里塚を設けた。
世の中が安定し、また参勤交代が制度化されると、特に東海道は賑い、それが浜松の発展につながった。
元禄16年(1703年)には戸数646戸、人口4336人を数え、江戸時代後期には東海道でも一、二を争うほどの宿場となったらしい。大名や公家の泊る本陣も最大6軒にも達したという。
浜松は藩主が頻繁に交代する城下町というより、宿場町という性格の方が強く、宿場町としての発展の過程での賑いが、城下町の形成に影響し、それが浜松の原動力となっていった。

初期の浜松藩

さて、江戸初期の浜松藩主高力忠房は、一代で20年間藩主をつとめたが、浜松の城下が整備されたのは、この忠房の時代のことである。
新田開発や治水にも積極的であったようで、これは次の松平乗寿から太田氏の時代へと引き継がれる。
高力高房は武将としても活躍し、大坂の陣でも功を挙げ、島原の乱後の島原に転じた。次の松平乗寿は在封中老中となり、浜松出世城を具現化した人物といってもいいだろう。

次の太田氏のときに検地が行われた。太田殿検地という。太田氏は3万5千石であったが、その領地の中心となるのが敷知郡53ヶ村13662石、長上郡66ヶ村15803石、計29465石であり、この約3万石が代々の浜松藩の城付所領(不変領地)となっていく。
ちなみに太田氏時代は、このほかに豊田郡など3郡が藩領であった。以後の浜松藩の所領は敷知、長上両郡が基本となり、この両郡の所領は天保年間(1830~43年)の水野氏の代まで継続されている。
太田氏は資宗-資次と封を継いで、延宝6年(1678年)に資次が大坂城代に就任し、藩主は青山宗俊に替った。

宗俊は延宝6年(1678年)6月に老齢の為に大阪城代を辞職し、浜松入封後の翌延宝7年2月に死去し、忠雄-忠重と継いで元禄15年(1702年)に丹波亀山に転封となる。
替って本庄松平資俊が常陸笠間から入封した。資俊入封5年後の宝永4年(1707年)に大地震が発生した。
この地震で浜名湖畔の新居関は壊滅的な被害を受け、町ごと移転せざるを得なくなったという。浜松の城下においても大きな被害をもたらした。
正徳3年(1713年)には大旱魃となり、これらの天災をきっかけとして農民と商人との間、農村と城下との間の対立が激しくなっていったという。

中期の浜松藩

一方で本庄松平氏は幕藩体制の維持と強化を目指して、新田開発と治水事業に力を入れ、農業生産力の向上と安定を図った。
また、遠州木綿の栽培が農民の副業として盛んになっていくのも、この頃であるという。やがて、これらが農村の経済力を高め、商人など支配者側の人間との対立が、ますます激しくなっていくのである。
正徳4年(1714年)~享保元年(1716年)にかけて、城下塩町は三河吉田町の塩問屋を訴えている。
天領であった宇布見村、山崎村の塩が浜松に入らず、吉田の塩問屋に買われたことが原因であった。
このときは享保元年に吉田側で浜松塩町の要求を受け入れたので解決したが、享保3年(1718年)には再び旗本の知行地であった和田村の塩売買をめぐって争いが起きる。
和田村が勝手に塩市を立てて、浜松塩町の売買を妨害したとするのが原因で、結局は和田村の塩売買が禁止され決着する。

権力によって独占的に塩の売買を行ってきた塩町の権利は犯されはじめ、新興の商人が台頭してくることになっていった。
これは、塩だけでなく魚などの販売でも同様であり、経済圏は城下町あるいは藩内という狭い地域から、急速に拡大していった。
本庄松平氏二代資訓は、享保14年(1729年)に三河吉田へ転封となり、替って大河内松平氏が藩主となるが、寛延2年(1749年)に再び松平資訓が浜松城主となった。
この二度目の本庄松平氏時代には、一種の反体制運動である大念仏の行事が広まった。もともとは三方ヶ原の戦いで戦死した武田軍の兵士の供養がその起源といわれるが、やがて娯楽化し、このころには喧嘩念仏と称されるように、紛争の種になっていった。
さらには反体制運動の色彩を帯びて騒動に発展することもあり、藩ではたびたび禁止令を出したという。

次の藩主井上氏の頃を含めて目安箱の設置などで少しでも不平不満を和らげようとしたが、もはや農民のエネルギーを権力だけで抑えられる時代ではなくなっていた。
さて、本庄松平資訓-資昌と続いた第二次本庄松平時代は宝暦8年(1758年)に終わり、井上正経が入り、正定-正甫と続く。
正甫は奏者番となったが、江戸にあるとき目黒村に鷹狩りに行き、農家の娘を強奪して、陸奥棚倉に左遷され、入れ替わりに水野忠邦が登場する。

水野忠邦

天保の改革で知られる水野忠邦は、唐津藩主から浜松への転封を強く願った。忠邦は野心家であり、幕府の要職、願わくば老中になって思う存分自身の政策を推し進めたかったのだ。
しかし、唐津藩は長崎警備があるために幕府の要職にはつけない。そのために国替え願望であった。
しかし、家臣はこぞって大反対であった。唐津は肥沃な土地で、表高は6万石ながら実際には25万石もの収穫があったのに、浜松では同じ6万石でも15万石程度しかない。
表面上は同石高ながら10万石もの減収になってしまうのだ。家老が諫死までしたが、忠邦は国替運動に奔走し、井上正甫の不祥事左遷もあって、ついに念願を果たして浜松に転封となった。

浜松転封後の忠邦は、さらに運動をして文政8年(1825年)大坂城代、翌文政9年に京都所司代、文政11年(1828年)西の丸老中と進んだ。
当時の将軍は十一代家斉であり、多くの側室に多数の子女を持ち、大奥の経費だけでもたいへんなものであった。
時の老中の最大の仕事は、家斉の男子をどこかの大名の養子にしたり、女子の嫁ぎ先を探したりすることであったというほどだった。
将軍がそんな風だから、各大名家とも風紀は緩み、生活は華美になり、財政は逼迫していった。西の丸には世子の家慶がいたが、家斉は一向に将軍職を手放さずにいた。

天保5年(1834年)に忠邦は待ちに待った本丸老中に就任した。翌天保6年に家斉はやっと家慶に将軍職を譲って隠居した。
しかし家斉は実権は握ったままで、大御所として目を光らせていた。まだ忠邦の出番はない。天保9年(1838年)に西の丸の火災の際に、駆けつけた忠邦の機敏な処置が評価され、忠邦は老中首座になった。
天保12年(1841年)に家斉が没して家慶の時代が到来すると、忠邦は待ちかねたように改革に着手する。いわゆる天保の改革である。

天保の改革は家斉の側近や大奥の女中を追放することからはじまった。改革は一言で言えば八代将軍吉宗や寛政の改革の松平定信に範をとり、綱紀粛正、文武奨励、倹約を柱に洋式を取り入れた軍制の改革をであった。
そのために「法令雨下」といわれるほど多くの法令を出して、何でもかんでも規制し、そのために江戸市中は火が消えたようになったらしい。
農村の振興を図るために、人返し令を出して江戸に流入した逃散農民を農村に強制送還し、株仲間を解散させて低価格政策を敷いた。

その一方では貨幣を劣悪なものに改鋳して幕府財政の欠損を補う政策をとったため、経済は混乱した。
天保14年(1843年)には印旛沼の新田開発に失敗し、また上知令を強行しようとして諸大名の反対にあい、ついに同年9月に失脚するが、弘化元年(1844年)には再び老中に返り咲いている。
しかし10ヶ月ほどで辞任を余儀なくされ、隠居謹慎を命じられ、家督を長男の忠精に譲った。忠精はほどなく出羽山形に転封となるが、これは左遷にほかならなかった。

忠邦の藩政改革

中央の改革に失敗した忠邦であるが、浜松藩においても率先して改革を行っている。改革は多分に封建的であり、藩財政の立て直しの為に、厳しい収奪を行うことを基本としていた。
勧農奨励と上納金や調達金の強化、藩の借金返済の停止、藩士への教育強化、軍事改革が柱とされた。
勧農奨励の根底にあるのは農業生産性を向上させて年貢を増微させる、いわゆる収奪強化であり、そのために農民を土地に縛り付けて労働力を確保し、天保8~9年(1837~8年)には穀類の他所での売買の禁止や勘当の禁止を通達した。
社倉、義倉を設けての取立強化や倹約令の布れ、さらに五人組を通して勧農命令の徹底を図った。

借金返済の中止は文政13年(1830年)正月に、鴻池、住友など大坂十家に対するものを除いて適用した。いわゆる踏倒しであるが、これによって帳簿上は藩財政は好転し、天保元年(1830年)には黒字を出した。
藩士への教育強化は、藩内秩序を回復して藩士の出奔を防ぎ、新規採用を中止し、役人の衣服を定めて華美を戒めるなど細部に及んだ。
藩校「経誼舘」を設けて儒教思想のもと文武一致を掲げて、藩士とその子弟への教育を行った。

軍事改革では長沼流兵学の導入、農兵隊の編成のほかに、藩領が遠州灘に面しているために海防御備組を設置した。
海岸をいくつかに区割りして、農兵を組織して隊を編成し、海防に備えたのであったが、農民は農業生産の暇を見ては訓練に従事しなければならず、その負担は大きかった。
これらの封建的藩政改革は当然のごとく不評であり、忠邦が失脚して跡を継いだ忠精が弘化2年(1845年)11月に転封と決まると、転封は歓迎されたが、反面打毀しが多発した。
これは水野氏が御用金や無尽講と称して金を集めて、返済せずに山形に移ろうとしたためで、水野氏だけでは鎮圧できず、次の井上氏に騒動鎮圧を依頼して転封する始末であった。

井上氏の再封と浜松藩の終焉

水野氏に替って文化14年(1817年)まで浜松藩主であった井上氏が28年ぶりに再入封した。井上氏は正甫が不祥事によって棚倉に左遷されたあと、文政3年(1820年)4月に嫡子正春が封を継ぎ、正春は奏者番兼寺社奉行となって天保7年(1836年)に上野館林に転封となった。
正春は天保11年(1840年)に西の丸老中となるが、天保14年(1843年)正月に病気により辞任。弘化2年(1845年)11月30日に浜松に転封となった。
一説には館林藩主時代に矢田川治水工事と参勤交代による財政難のために苛酷な貢租を掛け、そのために農民が逃散したり土地を質に入れたりし、それが幕府に聞こえたのが転封の原因という。

このように井上氏もまた財政難に苦しんでいたから、水野氏以上に御用金の調達や献金政策が強行された。
一方で殖産振興を図り、陸奥や出羽から良質の桑を取り寄せて植えさせたほかに、茶、蜜柑、柿、楮などを栽培し製紙業を起そうとした。
さらに館林時代に覚えた結城縞に似せた織物を作って、その商品化にも力を入れたという。
正春は浜松転封の2年後、弘化4年(1847年)2月に死去し、最後の藩主正直が封を継いだ。正直は文久元年(1861年)10月に老中に就任、文久3年(1863年)に外国御用取扱となり横浜開港問題などにあたる。

元治元年(1864年)7月に老中を罷免されるが、翌慶応元年(1865年)11月に老中再任。将軍家茂の第二次長州征伐に供奉し、外国御用取扱となり、さらに勝手入用掛も兼任するが、慶応3年(1867年)6月に老中を罷免された。
一方で遠州は国学が盛んな地であった。江戸中期に浜松から賀茂真淵が出て、それ以来ますます発展していき前衛的になっていった。
嘉永7年(1854年)に浜松領内八村十社の神職が集まって、復古惟神の祈願祭を施行し、これが尊皇運動に発展して行く。

やがて勤皇運動は神職から富農の青年に広まり、国学研究会が盛んに開かれて国事が論じられ、慶応4年(1868年)には遠州報告隊が結成された。
藩士の中からも報国隊に参加する者も現れ、報国隊は有栖川宮東征大総督に属して、東北地方まで従軍している。
一方で藩主正直は心情的には勤皇であっても、幕府老中であったために態度を容易に決せられなかった。
藩論の決定には報国隊の存在が寄与したことは明らかで、慶応4年(1868年)2月に正直は浜松に帰国して新政府軍の通過に力を尽くした。

明治元年(1868年)9月に徳川慶喜は大政奉還し、徳川家の家督は田安亀之助が家達と改名して継いだ。
家達には駿河遠江70万石が与えられ、駿府城に拠ることとなった。このため駿河、遠江の諸大名は上知のうえ転封させられる。
井上正直は上総鶴舞に転封となったが、財政難で転封費用が捻出できず、大坂では60万両もの借金を抱えていたといい、新政府は米1200石と金1万8千両を以後3年間、下げ渡したという。
これらによって実際に転封したのは、明治2年(1869年)1月になってからで、同時に駿府から浜松奉行井上八郎が派遣され、浜松藩は潰えた。

参考文献:江戸三百藩主人名事典(新人物往来社)、新編物語藩史(新人物往来社)、藩と城下町の事典(東京堂出版)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ
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