歴史の勉強

土佐藩

藩主 在任 石高(万石) 特記
山内一豊 慶長5.11~慶長10.9
1600~1605
24.0 遠江掛川より
山内忠義 慶長10.11~明暦2.7
1605~1656
24.0  
山内忠豊 明暦2.7~寛文9.6
1656~1669
24.0  
山内豊昌 寛文9.6~元禄13.9
1669~1700
24.0  
山内豊房 元禄13.11~宝永3.6
1700~1706
24.0  
山内豊隆 宝永3.8~享保5.4
1706~1720
24.0  
山内豊常 享保5.5~享保10.9
1720~1725
24.0  
山内豊敷 享保10.10~明和4.11
1725~1767
24.0  
山内豊雍 明和5.1~寛政元.8
1768~1789
24.0  
山内豊策 寛政元.8~文化5.2
1789~1808
24.0  
山内豊興 文化5.2~文化6.3
1808~1809
24.0  
山内豊資 文化6.5~天保14.3
1809~1843
24.0  
山内豊熈 天保14.3~嘉永元.7
1843~1848
24.0  
山内豊惇 嘉永元.9~嘉永元.12
1848~1848
24.0  
山内豊信 嘉永元.12~安政6.2
1848~1859
24.0  
山内豊範 安政6.2~
1859~
24.0  

慶長5年(1600年)9月に、関ヶ原役で西軍に与して領地を没収された長宗我部盛親に代って、遠江掛川から山内一豊が24万石で土佐一国の領主となり、入国したことで土佐の近世が始まった。
長宗我部氏の時代の土佐では兵農は完全に分離されておらず、平時は農業に従事して事あるときには具足を担いで馳せ参じる半農半兵の一領具足と呼ばれる在郷の給人制度が軍事を支えていた。
また、長宗我部氏の城下町である浦戸は城地が狭く、とても城下町を運営できるようなところではなかった。
山内一豊が入部した時の土佐は、まだこのような中世的な雰囲気が色濃く残る状態であった。

藩祖一豊

山内一豊が土佐を与えられたのは関ヶ原役での論功行賞であった。
秀吉の側近として出世をしてきた一豊は、秀吉の甥でのちに関白職を譲られる秀次の重臣に任じられた。
何事につけても実直な一豊は、秀次の補佐役にも徹していて、秀次の信任も厚かった。しかし、文禄2年(1593年)に秀吉に実子秀頼が誕生すると、秀次は秀吉から疎んじられるようになる。
小心で陰気な秀次は自暴自棄となって乱行を重ね、同年7月に改易されて切腹を強制された。このとき一豊には咎めはなく、逆に改易の際の秀次への使者を務めた功績で8千石加増された。

この関白秀次事件は、一豊の考えを変える大きなきっかけになった。一豊の家康への接近は秀次失脚後から速度を増したが、これは秀次に対する秀吉の扱いを見て、一豊がそれに嫌気を持ったためとするのが定説になっている。
当時一豊が城主であった掛川は、江戸の家康・秀忠父子が上方との往復の際に必ず通過する城下であった。
その掛川での家康父子への饗応は、一豊の家康への接近により、通常の配慮を超えるものとなっていた。

秀吉が慶長3年(1598年)8月に死去し、慶長5年(1600年)6月に会津の上杉景勝征伐のために家康が京を発ち東下を開始した。
この会津征伐が関ヶ原役のはじまりとなるのだが、このときも一豊は掛川で家康を饗応し、その後に出陣の準備を整えて会津に向った。
下野国小山において石田三成が上方で挙兵したとの報が届き、家康は軍議を催す。豊臣恩顧の諸将の動向を見極める軍議であったが、用心深い家康はその前に様々な手を打っていた。

その軍議の前日、一豊は妻女から上方情勢を綴った密書を受取り、妻女の別書の指示で密書を封をしたまま家康に届けた。これによって家康は一豊が真の味方と知り、その信頼を勝ち得た。
さらに軍議の席で家康に掛川城を兵糧とともに家康に差し出す発言をし、これがもとで諸将は雪崩を打って家康に味方した。
この小山での発言が戦場のどんな働きにも勝ると家康に高く評価されて、一豊は土佐一国24万石の国持大名となり、土佐浦戸城主となった。

一豊の土佐入部と一揆

土佐は戦国時代に四国の覇者となった長宗我部氏の本国で、関ヶ原役で西軍に与した長宗我部盛親が改易され国内には不穏な空気が流れていた。
長宗我部盛親は西軍に積極的に加担したわけではなく、家康の会津征伐に遅ればせながら加わるために兵を率いて大坂に上陸したところ、すでに石田三成が東国への通行を禁止して西軍の戦力を徴募しており、やむなく西軍に与したのだった。
関ヶ原役でも西軍陣営にあったものの戦闘には参加せずに、西軍の敗北が決定的になると戦場から逸早く離脱した。
したがって本来なら改易処分は苛酷にすぎるのだが、戦後の対応のまずさもあって家康の不興を買い、領国を没収された。

こういう情勢であったために、家康の命により井伊直政が城を接収した後に一豊に城が引き渡されることになった。
直政の家臣鈴木平兵衛が浦戸城接収のために土佐に入ると、一領具足たちの一揆が起きたが、長宗我部側の老臣に撃退され、城は引き渡された。
一領具足とは長宗我部氏の家臣で在郷の給人であり、戦闘の時には自身の具足を担いで参加した土佐独特の制度であった。
一揆が平定されても一豊はすぐに入国せず、先遣として弟の康豊を土佐に向わせた。康豊は人心の不安を取り除き、領国の安定を図るために、長宗我部時代の法を踏襲し、逃亡した農民や一領具足の帰住を勧めた。

大坂で土佐の形勢を見ていた一豊は、一揆平定ののち慶長6年(1601年)正月8日に浦戸城に入城した。
一豊は一領具足のなかに不穏な空気があるのを見てとり、3月1日に桂浜で相撲を行うこととし、集まった一領具足の中から、かつての一揆に関わった者や反感を抱くという噂のある者を捕らえて磔刑に処した。
この弾圧は一豊のイメージからは想像しにくいが、国内の治安維持と民心の安定のためにはやむを得ない処置であった。
一方で一豊は反抗する意図のない長宗我部遺臣は召抱えたり、あるいは他国での仕官を許した。また国内を巡視し、14条の定書を布れ、寺領を寄進するなど寺社を保護して国内の安定化を進め人心収攬に務めた。

一豊は国内の要所に重臣を配置して領内支配体制を整える。すなわち中村2万石に弟の康豊を、佐川1万石に深尾重良を、窪川5千石に山内一吉を、宿毛7千石に山内可氏を、本山千三百石に山内一照を、安芸千百石には五藤為重を配した。
このなかで本山の山内一照領で、慶長8年(1603年)11月に一揆が起きた。首謀者は長宗我部遺臣の高石左馬之助で、反検地と年貢減免を要求する農民闘争と結びついた一揆で、農民の抵抗は間もなく平定されたが、滝山の天険に拠った左馬之助の抵抗は強く、藩兵を派してようやく鎮圧した。これが長宗我部遺臣の最後の一揆であった。

高知築城と一豊の死

難治の国といわれ新封地の土佐で、一豊はその支配基盤を固める一方で、新城の造築を開始した。
長宗我部氏が本拠とした浦戸は要害の地ではあったが、土地が狭いために城下町の建設が思うようにできず、発展性が制限された。
戦国時代との決別と人心一新の両面から一豊は浦戸を捨て、大高坂の地を新城の地と定めた。
大高坂は鏡川に沿う湿地帯であったが、土佐のほぼ中央に位置し、後背地として平野部を擁し、港湾の建設も可能であったことなどが新城地に選ばれた理由である。

慶長6年(1601年)8月から百々(どど)安行を総奉行とし工事に掛かり、連日千数百人を動員した。一豊も浦戸から隔日に出向いて工事現場を巡見したが、長宗我部遺臣による襲撃を警戒して、5人の影武者を連れていたという。
新城の完成は慶長8年(1603年)で、この年8月21日に一豊は浦戸から新城に移り、地名を河中(こうち)と改めた。その後、洪水の被害が甚だしく、河の中の字を嫌って一豊没後の慶長15年(1610年)に高智、さらにのちに高知と改めている。

高知城は、四層六階の天守閣が聳え、その最上階には高欄を巡らせてあった。これは前地の掛川城を模したものであるとされる。
また築城と同時に城下町も整備され、これによって兵農分離がなされ、ほぼ同時期に長宗我部遺臣の最後の一揆も鎮圧され、慶長10年(1605年)ころには近世大名山内氏によるの領国支配の制度が確立した。
これを見取るかのように、慶長10年(1605年)9月20日に一豊は61歳の生涯を閉じた。遺骸は高知城とは境川を挟んで対岸になる真如寺山に葬られ、文化2年(1805年)に有名な妻女とともに高知城内の藤並神社に祀られる。

二代忠義と野中兼山

一豊には実子がなかったために、一豊の弟康豊の子の忠義を慶長8年(1603年)に養子としており、一豊の死去により忠義が二代藩主となった。
忠義は、14歳で襲封したが初期には父康豊が後見となっている。また慶長10年(1605年)4月には、家康の養女阿姫(家康の異父弟松平定勝女)と結婚して将軍家の縁戚となり、幕府との結びつきを強めている。慶長15年(1610年)には二代将軍秀忠より松平の名乗りを許されている。
忠義は土佐藩の石高24万石とし、幕府からの朱印状の石高20万2千6百石の変更を願い出たが却下され、以後表高は20万2千石だが、24万石と公称した。

忠義は慶長17年(1612年)に「定法度条々」75条を定め、「御定条々」を発布して施政方針を示す。「定法度条々」のうち農地を捨てて逃げ出す走者に関する条文が22条もあり、これは長宗我部氏遺臣の一領具足を対象としたものであった。
走者には厳罰で臨んだが、もともと耕地が少なく農民の自立も不十分であったために、年貢の完全徴収は困難であった。
また、高知城の築城と城下町の建設、公役負担、大坂の陣への出兵などにより藩財政は急激に悪化し、借銀は3千貫にも及んだという。
そのため野中直継、福岡丹波、小倉少介に借財整理を命じ、経費節約、支払い延期、藩士からの借上げ、米の販売統制、増税、木材の売却などにより寛永2年(1625年)に借財は返済された。

一方、土地を公平に分けて耕作させる田地割替制を始めたり、過去の年貢を平均して年貢を一定にする定免制を実施し、村上八兵衛を奉行として元和~寛永年間にかけて検地を行い、3万3千8百石余りを得ている。
この検地は「村上改」と言われ、忠義の厳命もあってかなり厳しく行われ、八兵衛は恨まれて土佐を逃げ出したと伝えられている。
さらに忠義は健全な財政政策を恒久的に打ち立てるために野中兼山を起用した。兼山の政策は用水路開削による新田の開発、港湾整備、郷士の取立て、村役人制度の強化、産業振興、紙・鰹節・茶・漆・油菜などの専売制実施、森林保護などであった。

とくに新田開発は7万5千石に達したが、その開発にあたっては郷士の取立てを行った。兵農分離によって農民となっていた長宗我部氏遺臣の一領具足を郷士に取り立てて新田を開発させ、土地を与えるとともに下士の身分として不満をやわらげた。
兼山の政策はある程度成功を収めたが、工事費用などが嵩んで現金が不足して経済が混乱し、また労役に借り出された農民はその苛酷な労働に不満を高めた。
兼山の権力が増大するのを快く思わぬ重臣が、やがて農民達の不満に便乗して兼山を弾劾して失脚させる。

兼山失脚と天和改革

兼山の失脚は三代藩主忠豊のときであった。忠義は、陶工久野正伯を招いて尾戸焼を始めるなど文化事業も起こしたが、酒と相撲を好み鷹狩を楽しむなど豪儀かつ華美好みで、中風に掛かり明暦2年(1656年)7月に嫡子忠豊に家督を譲り隠居した。
忠豊襲封のころ宇和島藩とのあいだに幡多郡の篠山、沖の島を巡る国境争いが起きたが、万治2年(1659年)に兼山の努力によって解決をみている。
しかし忠豊は兼山の強引さすら感じられる政策をよく思っておらず、寛文3年(1663年)7月1日に反兼山の重臣たちによる弾劾書が忠豊に提出されると、忠豊は藩主親政を決定、義父の伊予松山藩主松平定勝の同意を得て兼山を辞職させた。

兼山は同年12月に死去したが、反兼山派は野中家の取潰しと遺族の流罪を策し、遺族は幡多郡宿毛に幽閉された。野中家が赦されるのは男系が絶えた元禄16年(1703年)のことである。
兼山失脚後忠豊は人事を刷新、家老の月番制を定めて合議によって政務を執り行うこととした。寛文3年(1663年)8月には大赦令が布れられ、減税、専売制廃止など政治は大きく変えられた。いわゆる「寛文の改替」といわれる政変で、土佐藩政史上画期的な事件といわれる。
「寛文の改替」によって、野中兼山による統制経済は大幅に緩和されたわけであるが、あくまで一時的なもので、狙いは民力を回復させた後に年貢取立てを中心に据えた藩政を行おうとするものであった。
忠豊は藩主親政のもとにこの方針を定めたのち、寛文9年(1669年)6月に隠居して嫡子豊昌に家督を譲る。

四代藩主となる豊昌は、「奢りの君にて万事結構を好み、この御代より古風一変せり」(谷真潮「流沢遺事」)とあるように、風流を好んで能に熱中し食の道楽を求めた。豊昌はその費用を木材に求め、山林を伐採したために山林荒廃の原因になったといわれる。
もっとも豊昌は剣の奥義に達していたというほどであり、文武を好み学問復興を志し、緒方宗哲を招いて藩学の振興を図ろうとしたが土佐の風土と合わず、のちには南学の伝統を受け継ぐ谷家の学問に取って代られた。
さらに元禄期に入り上方文化が流入し、また生類憐みの令により鷹狩はできず、これらが尚武の風を削いだといわれている。

豊昌の代は藩政が最も安定していたころであり、天和元年(1681年)に給知を地方知行制から蔵米制に改めている。さらに天和3年(1683年)から本田・新田の年々の貢租の平均額を定めて年貢とする平等免(ならしめん)によることとした。
さらに農民の生活に対する触書をだして、酒造りの禁止、特別のときを除き酒を買うことも禁止、煙草の耕作禁止など奢侈を戒め統制を強化している。これら一連の諸策は天和の改革と呼ばれる。
また、一方では交通運搬の便を図る目的で高知城東の堀川を開いたり、室津港の浚渫をしたが交通路の整備には至らなかった。

このほか豊昌は、元禄3年(1690年)3月に、寛文3年(1663年)以降の法令を集大成した「元禄大定目」を制定している。藩政初期の「慶長法度」、藩政末期の「海南法典」と合わせて土佐の三代法典といわれ、藩政の基本方針を確立したもの位置づけられている。
このように功罪併せ持つ藩主であった豊昌は、30年余り藩主の座にあり、元禄13年(1700年)9月に江戸において没した。

中期藩政

豊昌には男子がなく、分家の武蔵指扇山内家から豊房が婿養子として入り、五代藩主を継いだ。用紙として忠英はともあれ藩の支配体制を官僚中心に変革した。しかしその直後の承応元年豊房は名君といわれ、その治世は短かったが、風水害や大火に苦しむ領民のために救小屋を設置するなどその窮状を救い、学問を奨励して文治政治の基を築き、孝行柱を作って孝子節婦を表彰した。
元禄16年(1703年)には財政再建を目指して藩札を発行し、分家である佐川深尾家の山内規重を奉行に起用して、緊縮財政策を推し進め、自らも緊縮生活をして範を示している。
谷泰山を登用して学問を奨励して泰山学を政治の基本としたが、風水害や大火で圧迫された藩財政の再建には失敗した。

宝永3年(1706年)6月に豊房が35歳で病没すると、その弟の豊隆が六代藩主となった。
豊隆は享保5年(1720年)に死去するまで、約14年間藩主の座にあったが、その間先代からの家老深尾若狭や兄豊房が登用した山内規重、谷泰山を処罰したために土佐藩随一の暗君とされ評価は悪い。
宝永4年(1707年)10月4日に大地震が領内を襲い、死者は1800人以上に及んだ。幕府に願い出て参勤免除が認められたが、豊隆の地震被害の対応は無能で熱意に欠けるものであったという。
地震復興の傍ら借知制度や御蔵紙制度など宝永の改革を進めたが効果はほとんど見られなかった。

豊隆の跡は二男の豊常が襲封するが、襲封時にわずか10歳であった。そのために父豊隆に処罰され蟄居中であった山内規重を復帰させて後見とした。
山内規重は家中での人望が厚く、規重の知己であった三宅尚斎を京から招いて豊常の侍講とした。が、享保6年(1721年)に規重が死去し、尚斎も辞職してしまった。
豊常は11歳にして自ら政務を見ることとなったが、倹約を主張する一方で進歩的であり、将来を嘱望されるほど聡明であったという。名君の素質ありと期待されたが、享保10年(1725年)9月にわずか15歳で死去した。

さて、この間に土佐藩でも商業経済が発達して高知城下も繁栄し、華美の風が土佐にも押し寄せた。
一方で、風水害や大火、地震など天災も多く、幕府から課せられる川普請や日光東照宮修復工事、さらに参勤交代費用など出費が嵩み、他藩同様財政状態は日増しに悪化した。
借金は増大し、それでも足りずに藩士からの俸禄借上げが日常茶飯的に行われることとなる。享保年間(1716~35年)には7回も借上令が出されている。
さらに土佐の貴重な資源であった材木もほとんど切り尽くされ、享保12年(1727年)の城下の大火の際には餓死者も出て、藩政の動揺期に入っていくことになるのである。

苦難の時代と相次ぐ一揆

享保10年(1725年)に没した豊常には子がなく、豊常の妹でもある先々代藩主豊隆の女の長姫と結婚した豊敷が養子となって跡を継いだ。
豊敷の治世は40年以上に及ぶが、その時代は苦難の時代であり、襲封後間もない享保12年(1727年)の大火で高知城が焼失、翌年以降も領内で大火が続発して、その対策と再建により財政は悪化した。
高知城の再建半ばの享保17年(1732年)には虫害による不作で、幕府から1万5千両を借入れたが、翌享保18年も不作で飢饉となった。

そのために行政機構の整理、風俗の戒め、製鉄業の起業、藩士からの借上げなどの政策を打ち出して、財政難を打開しようとした。
宝暦年間に入ると商人に専売権を与えて特産品や副産物を安く集積させ、販売を独占させて運上金を藩庫に入れるという、商業資本との連携による財政再建路線を敷いた。
宝暦2年(1752年)に藩は国産方役所を設置して体制を整備したが、農民は商人の利潤独占に対して反発した。
ついに宝暦5年(1756年)高岡郡津野山の農民は、中岡善之丞を指導者として大規模な一揆を起した。一揆は平定されて善之丞は処刑されたが、国産方役所は廃止され農民側の勝利に終わった。

豊敷は文武を奨励し、宮地静軒、谷垣守らを登用して、藩士を対象に朱子学の講義を行い、宝暦9年(1759年)には藩校教授館を設立して谷真潮らを招いている。
さらに追手門外に目安箱を設けて領民の意見を聞くなど善政を目指したが、積極的な藩政の改革には至らないまま明和4年(1767年)に没し、跡を子の豊雍が継いだ。
このころ藩財政は歳出過多と多額の借財、さらには天明の大飢饉の影響もあって悪化の一途をたどった。
豊雍は財政状況を詳しく調べ、その状態に驚き藩内から意見を徴した。福富半之丞らの意見を入れて藩士の半地借上げなどを実施したが、成果は挙がらなかった。

明和7年(1770年)1月に吾川郡池川、用居、名野川の農民は食糧難に追いつめられ、平紙の自由販売の緩和と合わせて藩に訴状を提出した。
藩ではこの審議を怠り、その間に強訴と見做されて処罰されるとの噂が広まって、農民は伊予に逃散した。藩では農民の説得に努めて、首謀者3名を処刑するかわりに農民の要求を入れて事件を解決した。
このほかに宿毛でも農民一揆が起き、また高知城下でも商人の米買占めに端を発して打ちこわしが起きた。相次ぐ騒動に直面した豊雍は谷真潮、馬詰親音、尾池春水、久徳直利らを登用して藩政改革を行った。

特に久徳直利が提出した意見書「浅茅の露」は、歳入を考えない歳出が財政悪化の最大の原因で、それが招いた悪循環が一揆や逃散に至ったと指摘した。また、役人の腐敗や形式主義を批難している。
「浅茅の露」に感銘した豊雍は、久徳直利を奉行に据えて改革を実行した。幕府に願い出て向こう10年間、格式を10万石に切り下げ、200石以下の藩士は正月の儀式を免除、豊雍自らも衣服や食事を簡素にして倹約を率先垂範し、宝器を売り払った。
また問屋制を廃止して商品の流通を円滑にし、農村では五人組制度を強化して村の再建を図った。このような上下を挙げての改革によって藩財政はようやく好転したが、豊雍はその成果を十分に見ることなく寛政元年(1789年)に死去した。

豊策と豊資の時代

豊雍の跡を嫡男豊策が襲い、豊雍が進めた改革を受け継いで、倹約を旨とした政策を推し進めた。
しかし、豊雍の晩年に好転し始めた財政も、商品経済の発展や公役の負担によって再び悪化の兆しを見せた。そのような中、寛政9年(1797年)には郷士高村退吾が殺害され、この事件をきっかけに藩内の上士と下士のあいだに対立感情が芽生え、身分制度に動揺が生じた。
豊策は学問を好み藩校教授館を拡張し、馬詰親音を頭取に任じた。馬詰親音はこれによく応え、砂糖製造を広め、井戸の開削を行い、貸本を始めるなど多くの業績を残した。
豊策は文化5年(1808年)2月に致仕して長男豊興に家督を譲るが、豊興はわずか1年後に病を得て死去し、豊策二男の豊資が藩主となった。

豊資は専売制を強化し、新田や銅山の開発など領内開発を行い、社倉・義倉を設置するなど藩政に留意したが、文化・文政期の爛熟した文化の影響と自身の派手好みから藩内の風は華美に流れた。
一方で、教育には熱心であり藩校教授館の改築を行い、儒学者日根野鏡水を教授に迎え、医道の普及にも心した。このために学問は隆盛を迎え、特に地方では南学や国学の思想が広まった。これはのちに農村にも尊王思想が起る基となった。

天保年間に入ると全国的に飢饉が続き、その影響は土佐にも及んだ。天保10年(1839年)に倹約令を出すなどして対処したが根本的解決にはほど遠く、天保12年(1841年)には藩主親政を宣言した。
しかし同年末には農村の庄屋が秘密同盟を結び、待遇改善を訴えて町方庄屋と対立した。これは農村における商品経済の発展に伴い、農民や農村の地位を上げようとの狙いから盟約に及んだもので、これは農民勢力を背景にした勤皇運動に発展していく一つに要因にもなった。

天保13年(1842年)になると吾川郡名野川の郷民の伊予への逃散事件が起きる。名野川の大庄屋小野庄右衛門は10年に渡り年貢を余分に取り立て、そのために民心が動揺していたが、その返還交渉の過程庄右衛門を排斥した2人の庄屋が藩により罰せられた。
このために2人を信頼していた郷民300人あまりが伊予に逃げたのであるが、事件は私闘が拡大したものと見做され、松山藩の協力のもと松山藩領に出張った土佐藩士により逃散郷民は捕えられて、11名が処罰された。
だが、この事件は豊資に隠居を決意させ、豊資は天保14年(1843年)3月に長男豊熈に家督を譲り隠居した。隠居後の豊資は謡、能、狩など悠々自適な生活をしつつも政治に干渉して藩政にも影響を及ぼした。

おこぜ組と豊信襲封

豊資の隠居によって十三代藩主となった豊熈は、幼時から才能が傑出し、思慮深く、学問を通じて治世の理想像を描き民情の本当の姿を知ろうとしたという。豊雍の施政を範として、自ら倹約に努め、華美に流れていた藩風を刷新しようと改革を進めた。
そのために実行力のある若手官僚を登用し、これは馬淵嘉平を中心とする「おこぜ組」といわれる改革派のグループに発展した。
「おこぜ組」は異端視されつつも、大坂商人と絶縁して健全財政の確立を図り、専売制を廃して封建制本来の経済政策を推進した。

さらに山内家の分家筋である、西・東・南・追手などの諸家の経費を大幅に削減したが、追手家の豊栄はこれを不服として他の分家と協同して、「おこぜ組」は徒党を組んで私していると隠居の豊資に訴えた。
これを受けた豊資の介入で「おこぜ組」を処罰せざるを得なくなった。このために有能な人材が失われ、藩政改革は停滞した。
豊熈はこの事件の後も精力的に藩政にあたり、教育を充実させ、医学館や武芸所を開き、民情視察も積極的に行ったが、嘉永元年(1848年)34歳の若さで急死した。

豊熈の死去により、その弟の豊惇が養子となり十四代藩主となったが、その直後に豊惇は急死してしまう。
襲封が嘉永元年(1848年)9月6日で、死去したのは同月18日だから藩主の座にあること、わずかに12日であった。
豊惇には子がなく後嗣が問題となった。豊惇の弟豊矩は分家しており、もう一人の弟豊範はまだ3歳と幼く、土佐藩は断絶の危機に直面した。
藩では喪を秘して、12月に致仕し翌嘉永2年(1849年)2月に死去したとし、この間に分家の豊信を養子に迎えて家督を継承させた。この土佐藩の危機には、親戚筋の島津氏が尽力し、幕府も了解していたという。
豊信は号である容堂の名の方が圧倒的に知られ、ここにいよいよ幕末期の激動期に突入するのである。

吉田東洋と嘉永安政期の土佐藩

豊信(容堂)は、十二代藩主豊資の弟豊著の長男として、文政10年(1827年)に生まれた。
父豊著は分家して追手邸山内家を創設し、天保3年(1832年)に弟豊栄に追手邸を譲り、鷹匠町に新邸を営む。
この新邸は城南にあって南邸とよばれ、容堂はここで少年期から青年期を過ごす。天保14年(1843年)1月に元服、弘化3年(1846年)に父豊著の隠居により家督を継ぎ、1500石を受けた。
嘉永元年(1848年)に土佐藩十三代豊熈、十四代豊惇が相次いで死去したために、容堂が宗家の養子として迎えられ、十五代藩主となった。

嘉永6年(1853年)6月にペリーが米国大統領の国書を携えて来航した。幕府は諸大名に意見を求め、容堂はこれに対して要求を拒絶して海防策を急ぎ実施するよう答申した。
この答申書は、吉田東洋によって起草された。東洋は先々代豊熈に抜擢されて郡奉行となり、藩政改革推進メンバーの一員であったが、豊熈の死去により辞任し、城下で学問研究に日を送っていた。
東洋のもとには同士が集い「新おこぜ組」といわれた。東洋は答申書の提出後に、小南五郎右衛門らとともに藩政改革を担う。
幕府は判断に迷った末に安政元年(1854年)に日米和親条約を締結し、その一方で海防策を進める。土佐藩でも品川付近に砲台を建設し、郡制を改革して郡奉行の増員や権限強化をし、外国船打ち払い責を負わせた。
また、郷士を動員し、農民・漁民の中から民兵を募り、造船事業を起し、藩士を長崎に派して砲術・戦術を学ばせるなど海防強化に努めた。

一方で容堂は条約問題と、将軍家定の継嗣として一橋慶喜と紀伊慶福が争った、将軍継嗣問題に巻き込まれることとなる。
容堂は一橋派の越前福井藩主松平慶永(春嶽)の説得で一橋派に与したが、井伊大老の独断により、条約は調印され将軍は慶福に決まり、ここに至って一橋派は敗北し、安政の大獄が起る。
容堂も安政6年(1859年)2月26日隠居し、同年10月11日に謹慎を命じられた。容堂は品川鮫洲の別邸で酒や詩文に気を紛らせながら過ごしたが、この間に持論であった攘夷論から公武合体による開明論に変ったといわれている。

土佐勤王党と幕末期の土佐藩

桜田門外の変により井伊大老が暗殺されて、時局は大きく変る。容堂は万延元年(1860年)9月4日に謹慎を解かれたが、外部との接触は制限され、完全に自由の身とはならなかった。
そこで容堂の攘夷論に共鳴した郷士や庄屋たちは容堂救援の目的で、文久元年(1861年)8月武市瑞山(半平太)を中心に、土佐勤王党を結成した。
この当時、藩政は容堂の意を呈して吉田東洋が牛耳っていたが、重臣門閥層はこれに反抗して吉田らと対立し、さらに小南五郎右衛門らの尊皇攘夷の一派があった。
東洋の方針は佐幕開国、公武合体であったが、勤王党は長州と連絡をとり東洋の説得にかかるが、これに失敗し翌文久2年4月8日に東洋を暗殺した。

これによって藩内の情勢は一変し、実権は重臣保守門閥層に握られたが、勤王党の発言力は強まった。容堂はこの直後に完全に自由の身となり、御用部屋出仕となる。
容堂はすでに公武合体によるしか時局収拾の手段はないと考えており、このために土佐勤王党を許すわけにはいかなかった。
また、容堂は自身の藩主就任の件で幕府に恩を被り、藩祖一豊、二代忠義も徳川氏に目をかけられたことから徳川氏への恩を忘れるるわけにはいかなかったのである。
文久3年(1863年)5月、容堂は土佐勤王党に解散を命じた。8月18日の京における政変で公武合体派が朝廷の実権を握ると容堂は更に勢いづいて、9月に入ると勤王党に対する弾圧が始まり、瑞山はじめ多くの党員が投獄され、一部は長州に逃れるが、勤王党は壊滅した。

時局の急速な展開によって一時藩政の実権を握っていた保守門閥層はすでに力を失っており、ここに容堂を中心とした公武合体論が土佐藩を動かすこととなる。
京において公武合体派諸侯による会議が元治元年(1864年)はじめに開かれ、容堂も出席した。しかし相互の思惑の違いから対立して会議は失敗におわり、この結果攘夷派は力を得て、長州藩を主体とする禁門の変が起る。
禁門の変は長州藩の敗退に終わり、幕府は朝敵として長州征伐を実施した。土佐藩は第一次、第二次の長州征伐とも大坂警備となり、容堂は出兵せずに傍観した。

第二次長州征伐は将軍家茂の親征となったが、家茂は大坂で急死して征伐は中止され、再び攘夷派が勢いを盛り返す。容堂が目指した公武合体論は既に過去のものとなり、容堂は新たな策を模索しなければならなかった。
このような情勢の時に現れたのが坂本龍馬であった。郷士の家に生まれた龍馬は一時土佐勤王党にも加盟するが、東洋暗殺の直前に脱藩し、江戸に出て勝海舟の門下となり、その後西郷隆盛の庇護を受け、苦心ののちに薩長攻守同盟締結に導いた。
この薩長同盟が新時代建設の原動力となるのであるが、龍馬は土佐藩にもこの一翼を担わすべく活動を続け、長崎において出張してきた土佐藩の後藤象二郎に藩論の転換と大政奉還を献策する。

後藤からこれを聞いた容堂は大いに喜び、大政奉還の建白書を提出し、結果徳川時代は終わりを告げた。しかし大政奉還の実務処理、特に徳川氏の処分を巡る対立から鳥羽・伏見の戦い、さらに戊辰戦争へ発展し、徳川慶喜は容堂の意に反して朝敵の汚名を受けることとなる。
容堂は内国議定となっていたが、鳥羽・伏見の開戦による引責辞任を願うが容れられず、事務総裁、議事体裁取調方総裁、学校知事、制度寮総裁、上局議長とめまぐるしく官職を変転したが、明治2年(1869年)に役職を全て辞して隠居し、明治5年(1872年)6月21日に46歳で没した

最後の藩主豊範と土佐藩の終焉

さて、安政の大獄による容堂の隠居謹慎によって、十六代藩主となったのは豊範であった。豊範は十二代藩主豊資の六男として生まれ、兄の十四代豊惇が死去したときはわずか3歳であったために容堂が養子として宗家を継いだ。
その容堂の隠居で安政6年(1859年)2月に豊範が14歳で襲封し、土佐藩最後の藩主となった。
とはいえ襲封時には豊範の実父豊資は健在であり、また容堂も隠居謹慎の身とはいえ、手腕は確かであり、豊範は豊資・容堂に圧力と指導のもとで藩政を運営することになる。
したがって豊範が藩政に独自色を出すことは困難であり、また豊範自身も温厚従順な性格であったといわれ、そのために容堂の指導によく耐えて維新を迎えた。

容堂が復権すると豊範は容堂とともに土佐藩の運営にあたり、土佐藩を幕末の雄藩の位置に押し上げた。明治元年(1868年)には土佐藩も官軍に加わり、高松・松山に進駐した。
翌明治2年正月に薩摩、長州、佐賀各藩主とともに版籍奉還を建白し、これにより豊範は高知藩知事となった。
明治3年(1870年)に四民平均の令を発して藩政改革を行うが、翌明治4年に廃藩置県となった。
高知藩は廃藩となったが、新政府中枢は薩長土肥の有力者で固められ、土佐人は近代黎明期政治の一翼を担うこととなった。

参考文献:江戸三百藩主人名事典(新人物往来社)、新編物語藩史(新人物往来社)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ
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