歴史の勉強

中村藩

藩主 在任 石高(万石) 特記
山内康豊 慶長6.11~寛永2.8
1601~1625
2.0  
山内政豊 寛永3.5~寛永6.4
1626~1629
2.0  無嗣により本藩に収公
山内忠直 明暦2.?~寛文7.6
1656~1667
3.0  絶家を再興
山内豊定 寛文7.6~延宝5.10
1667~1677
3.0  
山内豊明 延宝5.10~元禄17.1
1677~1704
3.0  改易

中村藩は土佐藩祖山内一豊の弟康豊が、慶長6年(1601年)に幡多郡内で2万石を分与され、中村に居したことで成立した。ただし内分与であり、幕府公認の藩ではなかったが、藩として扱うのが一般的である。
これは一豊が国内の要所に重臣を配置して領内支配体制を整えた一環であった。康豊は一豊をよく補佐し、一豊も康豊を信頼した。
一豊には子がなかったために康豊の長男忠義が一豊の養子となり、慶長10年(1605年)一豊の死去により土佐藩二代藩主となった。
そのため中村藩は次子の政豊が継いだが、政豊は寛永6年(1629年)4月に没し、子がなかったため、中村2万石は本藩に収公された。この康豊-政豊の時代が第一次の中村藩である。

そののち明暦2年(1656年)に、土佐藩二代藩主忠義の二男忠直が3万石を与えられ絶家となっていた中村山内家を再興する。
再興された中村藩は完全に独立した藩ではなく、幕府の公認したものではないと思われるが、参勤を勤めておりその記録も多く残っているという。また、知行地があったという説と蔵米支給であったという説がある。

忠直-豊定-豊明と継承し、豊明は五代将軍綱吉の寵臣で、元禄2年(1689年)4月14日奥詰衆、同年5月3日若年寄と異例の栄進を遂げた。
だが、5月10日に病気により若年寄辞任を申し出、これが綱吉の逆鱗に触れて、12日に邸召し上げ、13日に謹慎、8月3日に2万7千石を没収、3千石を直久に与えられ交代寄合とされたが豊明はこれを潔しとせずに拒んだために、全所領を没収され断絶となった。
なお、豊明の若年寄辞任は病気ではなく、藩財政が苦しい折に幕閣の一員になって、さらに財政を悪化させることを恐れたためという。忠直-豊定-豊明の時代が第二次の中村藩である。

参考文献:江戸三百藩主人名事典(新人物往来社)、藩と城下町の事典(東京堂出版)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ
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