歴史の勉強

高知新田藩

藩主 在任 石高(万石)
山内豊産 安永9.12~天明3.5
1780~1783
1.3
山内豊泰 天明3.5~享和3.7
1783~1803
1.3
山内豊武 享和3.9~文政8.7
1803~1825
1.3
山内豊賢 文政8.9~安政3.6
1825~1856
1.3
山内豊福 安政3.6~明治元.1
1856~1868
1.3
山内豊誠 明治元.9~
1868~
1.3

土佐藩二代藩主山内忠義の四男一安は、慶安2年(1649年)に3千石を与えられ分家した。屋敷の地の名をとり麻布山内家と呼ばれ、之豊-豊清と相伝した。
一方、中村藩三代豊明は将軍綱吉の寵愛を受けて若年寄に就任したが、不敬によって改易となった。その豊明の子の豊成の四男豊産が麻布山内家の豊清の養子となり、安永9年(1780年)に本藩九代藩主豊雍から廩米1万俵を給されて、それまでの3千石と合わせて1万3千石となり高知新田藩を立藩した。参勤交代を行わない定府大名であった。

五代豊福は筑前秋月藩主黒田長元(本藩十代山内豊策の五男で黒田家に養子に入った)の二男で、嘉永6年(1853年)嗣子がなかった先代豊賢の養子に入った。
豊福の治世は幕末の激動期にあたり、本藩主容堂に従って国事に尽くし、洋式兵制を採用して軍事力を強化した。佐幕派ではあったものの、武力行使には反対であったという。
鳥羽・伏見の戦いに敗れた将軍慶喜が江戸の逃げると、豊福はその後を追い、江戸城での方針決定の会議にも臨んだ。
会議の方針が抗戦に決まると抗戦阻止には反対であった豊福は、本藩が新政府軍に与したこともあって進退に窮し、明治元年正月14日に自刃した。
豊福の跡はその遺言で、四代豊賢の弟豊充の長男豊誠が継ぎ、戊辰戦争では新政府軍に属して戦った。

参考文献:江戸三百藩主人名事典(新人物往来社)、藩と城下町の事典(東京堂出版)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ
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