歴史の勉強

松本藩

藩主 在任 石高(万石) 特記
石川数正 天正18.7~文禄元.12
1590~1592
8.0  
石川康長 文禄元.12~慶長18.10
1592~1613
8.0 改易
小笠原秀政 慶長18.10~元和元.5
1613~1615
8.0 信濃飯田より
小笠原忠真 元和元.7~元和3.3
1615~1617
8.0 播磨明石へ
松平(戸田)康長 元和3.3~寛永9.12
1617~1632
7.0 上野高崎より
松平(戸田)康直 寛永10.2~寛永10.4
1633~1633
7.0 播磨明石へ
松平(越前)康政 寛永10.4~寛永15.2
1633~1638
7.0 越前大野より
出雲松江へ
堀田正盛 寛永15.3~寛永19.7
1638~1642
10.0 武蔵川越より
下総佐倉へ
水野忠清 寛永19.7~正保4.5
1642~1647
7.0 三河吉田より
水野忠職 正保4.8~寛文8.6
1647~1668
7.0  
水野忠直 寛文8.8~正徳3.5
1668~1713
7.0  
水野忠周 正徳3.6~享保3.10
1713~1718
7.0  
水野忠幹 享保3.11~享保8.5
1718~1723
7.0  
水野忠恒 享保8.7~享保10.7
1723~1725
7.0 改易
松平(戸田)光慈 享保10.10~享保17.8
1725~1732
6.0 志摩鳥羽より
松平(戸田)光雄 享保17.10~宝暦6.11
1732~1756
6.0  
松平(戸田)光徳 宝暦6.11~宝暦9.1
1756~1759
6.0  
松平(戸田)光和 宝暦9.3~安永3.12
1759~1774
6.0  
松平(戸田)光悌 安永3.12~天明6.6
1774~1786
6.0  
松平(戸田)光行 天明6.8~寛政12.2
1786~1800
6.0  
松平(戸田)光年 寛政12.2~天保8.2
1800~1837
6.0  
松平(戸田)光庸 天保8.3~弘化2.10
1837~1845
6.0  
松平(戸田)光則 弘化2.10~
1845~
6.0  

関ヶ原以前の松本

漆黒に輝くその姿から「烏城」ともよばれる、国宝松本城を本格的に築城したのは石川数正であった。
石川氏は河内国石川郡に由来する豪族で、のちに下野国を経て三河国に移った。石川氏九代親康のときに松平氏に仕えて以来、代々松平氏に仕え、数正は酒井正親、酒井忠次、植村家政らとともに重臣の一人であった。
家康の駿府での人質時代にも随従していて、家康の信任も篤く、数正またそれに応えて多くの働きをした。
だが天正13年(1585年)11月、数正は突然妻子を連れて出奔し、大坂の豊臣秀吉のもとに走った。

その理由や事情は謎とされているが、このことは家康に大きなショックをもたらした。前年天正12年の小牧・長久手の戦後、小康状態を保っていたとはいえ、家康にとって秀吉は最大の仮想敵である。
その敵に軍事機密が筒抜けになってしまった。家康は数正出奔後、急遽軍制を大幅に変更しなければならなかった。
一方秀吉の喜びは大きく、数正を優遇し、小田原征伐後には8万石の松本城主にした。
もともと松本の地は深志といわれ、延暦年間(782~805年)以降は信濃国府が置かれた。武士の時代となり、信濃守護には源氏の名門小笠原氏が任じられ、小笠原氏は室町時代まで守護職を伝承する。

小笠原氏の居館は、建武年間(1134~37年)以降は井川(松本市内)に、明応年間(1492~1500年)には林城に移った。
やがて隣国甲斐の武田氏の侵略にあい、ついに天文19年(1550年)には武田信玄によって林城は攻略された。
小笠原氏は深志の地にも城館を置き、重臣の坂西氏に守備させたが、深志城も同時に信玄に攻略された。
信玄は深志城に馬場信房を入れて城を大改築し、武田氏の信濃経営の拠点とした。

天正10年(1582年)2月、織田信長は家康と連合して武田氏を攻めて滅亡させた。武田氏の旧領甲信両国は信長の有するところとなった。が、そのわずか4ヵ月後に信長は本能寺において横死した。
深志周辺は越後の上杉景勝の勢力が占拠し、景勝は傀儡として小笠原貞種を立てたが、小笠原遺臣はこれに反発し、家康の庇護下にあった小笠原貞慶を迎えた。
貞慶はやがて家康と誼を通じて、嫡子の秀政に家康の孫女を正室に迎えて代を継がせ、徳川譜代としての地位を得た。
家康は小田原征伐後の天正18年(1590年)に関東に入り、貞慶、秀政もまた深志を離れて関東入りし下総古河に封ぜられた。なお、深志を松本と改めたのは、この貞慶のときであった。

小笠原氏に代って松本城主となった石川数正は、土豪勢力を鎮め権力機構を整備し、寺社を保護するなど領国経営の基礎固めに着手した。その過程で城と城下町の整備を手がける。
ところが数正は文禄元年(1592年)12月に死去し、跡を子の康長が襲った。康長は文禄の役に参じ肥前名護屋に陣したが、引き続き城郭の整備を進めた。
石川氏時代に造営されたのは大天守ではなく、その北に連なる乾小天守であったとの説もあるが、現在の松本城の大枠は石川氏時代に造られたことは間違いない。

城主の頻繁な交代

かつて家康のもとを出奔した石川数正の子の康長は、関ヶ原役では家康に与した。家康の命により西軍方の上田の真田氏を牽制して在国し役後は本領安堵となったが、その13年後の慶長18年(1613年)に康長は改易され、豊後佐伯に流された。
一説には開幕期の大スキャンダルである大久保長安事件に連座したとされるが、数正の出奔が無関係とはいえないだろう。
石川氏の跡には、小笠原秀政が復帰した。家康とともに関東入りして古河城主となった小笠原氏は、関ヶ原後は5万石を与えられ信濃飯田に入っていた。松本移封の際に3万石の加増があり、8万石での復帰である。

秀政が松本に復帰した慶長19年(1614年)には大坂冬の陣があり、秀政の嫡子忠脩が参陣した。さらに翌年の夏の陣には秀政、忠脩父子が揃って出陣したが父子は戦死してしまい、家督は秀政二男の忠真が継いだ。
元和3年(1617年)7月、忠真は2万石加増され、10万石となって播磨明石に移された。この小笠原氏時代は5年間と短かったが、郷村制度、租税制度、町方制度が整えられた重要な時期であり、また松本城大天守が造営なったのも小笠原氏時代のことであるともいわれている。

小笠原氏の跡に松本藩主となったのは、松平戸田家の康長であった。戸田氏はいくつかの系統があるが、家康の養妹松姫女が嫁したことから松平姓を賜った譜代の名門である。
康長は幕政にも関与したが、松本においては総検地を行い城下町を拡張整備し、寛永9年(1632年)に死去する。跡を康直が継ぐが、翌寛永10年4月に播磨明石に転封となり、続いて松平越前家の直政が7万石で入封した。
直政の治政はわずか5年であったが善政であったと伝えられ、辰巳小天守、月見櫓を造営した現在に続く松本城の形を成したのも直政時代であった。

直政はまた領内検地を実施し、寛永13年(1636年)には寛永通宝の鋳造を行い、寛永15年(1638年)に出雲松江に転封となった。
代って堀田正盛の時代となるが、正盛は幕閣で重きをなしており、藩政は家老任せであり、また領内は凶作が続き政治は不安定であった。
正盛の時代は4年間で、寛永19年(1642年)に下総佐倉に転封となり、代って三河吉田から水野忠清が7万石で入封した。
これまで相次いで藩主が交代した松本藩であったが、水野氏の時代は忠清-忠職-忠直-忠周-忠幹-忠恒と80年余り続き、ようやく藩主の定着を見た。

水野氏の入部と加助騒動

水野氏初代の忠清は、馬廻六番組の軍制の整備や城郭の修築を行うなどして、在封5年で没し二代忠職の代になった。
忠職は慶安2年(1649年)から翌5年にかけて領内全村の検地を行い、このときの検地帳が以後の藩政時代の土地台帳の基本となった。
この検地の後、新田5千石が明暦2年(1656年)に弟忠増に分知されている。また郡奉行-組手代-庄屋-五人組の郷村制度が完備され、宗門改が行われた。
忠職の治世は22年の長きに及び、寛文8年(1668年)に忠直が襲封した。忠直襲封時には藩政は比較的安定しており、忠直も諸制度のより一層の整備を図った。

しかし延宝9年(1681年)の越後高田城、元禄2年(1689年)の信濃高遠城の受取と出役が重なり、また大名生活も華美を極めた時代となって財政が悪化し始めた。
さらに松本では天災や凶作が続き、農民の間で藩政に対する不満が高まっていった。藩庁側も財政難のために、いきおい年貢の取立てが厳しくなり、ついに貞享3年(1686年)に苛政に対する不満が爆発する。
安曇郡佐野村で、農民に対して苛酷な措置を行った役人に対して農民が反発して投石し、怒った役人は庄屋松沢佐衛門を殴打した。

農民は激高して役人を取り囲み、役人の方も抜刀して騒擾となり、役人は撲殺された。
事件は役人の急死として処理されて表沙汰にはされなかったが、安曇郡中萱村の多田加助、同郡楡村の小穴善兵衛らは事態を憂えた。
加助、善兵衛はともに庄屋層の人物であり、年貢の減免を藩庁側に申し入れたが、受け入れられるわけもなく、極刑を覚悟で郡奉行に直訴した。
年貢の減免や年貢米運搬負担が過酷であること、役人給金の補充の中止などを求めたものであるが、訴状を受取った藩では家老鈴木主馬らが収拾にあたった。

この間農民は城下の堀端や河原に野宿して回答を待ち、藩庁側の解散命令にも従わなかった。
やむなく藩では、警備を厳重にして農民側の要求をある程度受入れて回答を示した。また、事態は江戸に報告され、在府中であった忠直は、老中大久保加賀守に書面で報告した。
結局幕閣では問題にされず、農民側も回答を受け入れて事態は鎮静化に向った。首謀者として加助、善兵衛をはじめ11名が逮捕投獄され、さらにその家族や一味などを含めて36名のうち8人を磔、20人を獄門、8人を追放とし田畑家財を没収した。
この加助らの義挙は巷間に語り伝えられたが、明治になって荒れ果てた松本城天守が傾いたのは、この加助の恨みによるものとの伝説をうむほど人々の間に浸透していた。

水野氏改易

さて、忠直の治世は46年に及び、苛政による一揆はあったものの元禄6年(1693年)には18ヶ条の家中法度を制定して諸事慇懃に勤めるように諭し、また侍医には本道6人のほか紅毛流外科3人を抱え、儒者、茶道頭、絵師、能大夫、座頭、観世大夫などまで扶持し、大名生活を豊かにしたことも見逃せない。
忠直は正徳3年(1713年)に死去し、跡を嫡子忠周が継ぐが4年余りで死去し、見るべき事績はない。
忠周死去後、享保3年(1718年)には忠幹が家督を継いだが、忠幹は文人君主として将来を期待された藩主であった。

儒書兵書に通じ、和歌にも秀でていた。藩政においては法制度を整備した先々代忠直制定の家中制度を補足し、仕置は必ずしも先例にこだわらず、支配の指図を請うて滞りなく処理し、また役の得手不得手を考えて適材適所の配置を説いている。
このほかに目安箱を設置し、また家中の半知によって財政難に対処しようとしている。このように積極的で将来が期待されたが、享保8年(1723年)5月に25歳の若さで死去した。
忠幹はこのほかに松本地誌とも称すべき信府統記の編纂事業にも着手している。鈴木重武、三井弘篤を中心に丸山友陳、野村政助を助手として着手された。
信府統記の編纂事業の結果を見ることなく忠幹は死去し、全巻が完成したのは次代忠恒のときである。

その忠恒は享保8年に襲封したが、酒色を好み政務を顧みない暗君であった。享保10年(1725年)2月に江戸に参勤し、7月に大垣藩戸田家の息女との婚儀が行われた。この祝宴の最中に酒乱発狂したという。
さらに江戸城に御礼の登城をし、将軍吉宗への拝礼は無事に終わったが、その直後に松の廊下において長府藩世子の毛利師就に突然斬り付けた。
両名は直ちに取り押さえられたが、師就と忠恒は一面識も無く、故に罪は忠恒のみにきせられて、秋元喬房の邸に預けられた。
江戸城中での刃傷であり、領地没収、改易処分となったが、水野家は家康生母の実家でもあり、家名存続は許され、家督は忠穀が継ぎ信濃佐久に7千石を賜った。のちに水野家は大名として復活している。

戸田松平氏の再封

水野忠恒も改易により、松平(戸田)光慈が志摩鳥羽から転じてきた。寛永10年(1633年)に松平(戸田)康直が松本から明石に転じ、さらに美濃加納-山城淀-志摩鳥羽を経て93年ぶりの再封であった。
松本への移封は光慈の希望によるものであった。石高は同じ6万石でも、城地の狭い鳥羽に比べて、内高3万石を有する松本では、それだけ財政的に余裕ができることを意味した。
光慈入封の翌年、享保12年(1727年)閏正月本丸御殿より出火し全焼した。これ以降、松本城の本丸御殿は再建されず、二ノ丸御殿が藩主居宅となり、城外に若干の役所が新築されるに留まった。

光慈は享保17年(1732年)まで7年間在封したが、慎み深く自らも倹約に徹して財政難に対処し、朱子学を学んだ。
享保16年(1731年)の長雨による不作の際には、租税を免除して米銭を放出して窮民を救うなど善政を心がけ、藩政に専心した。
享保17年に光慈の跡を受けて光雄が襲封するが、こののち明治の廃藩置県に至までの約100年間に渡り、光雄-光徳-光和-光悌-光行-光年-光庸-光則と松平(戸田)氏の支配下に置かれた。

松平(戸田)氏の治世は、他藩同様の財政難下で行われざるを得なかったが、歴代藩主は概ね学問を好み、仁政を布いたために藩政は比較的安定していた。
六代光行のように能を好み、浪費をしたとされる藩主もいないではないが、この光行にしても松平定信の改革を模範とする藩政改革に着手し、法制の整備(光慈時代の享保式目の改定)や藩校崇教館の設立による文武奨励の実践をしている。
崇教館は五代光悌の時代に開かれた学問所を発展拡充したもので、漢学、筆道、習礼、弓術、剣術の各科目を置いた。
また光行は好学でもあり、読書の際に金言玉語に逢うときは記録をし、のちに「弘裕斎撰語」として編集印刷して配布したという。

赤蓑騒動

このように功績もあった光行だが、前記の浪費が原因で家臣に隠居を迫られて光年に封を譲った。
光年は温厚で仁慈に篤く民政に注力したが、その治世中の文政8年(1825年)に光慈の松本入封から100年を迎え、盛大な式典を行った。
一方で同じ文政8年の暮、赤蓑騒動が起る。この騒動は俗に言う世直し一揆的な性格のものであり、きっかけは雨天続きの凶作による米価の高騰であったが、そもそもの根本には農民、農村間のトラブルがあった。

江戸後期ともなると農民の各階層の間の階級差も拡大し、富農の出現、さらには村役人や上級農民が商人化し、同時に権力層と結着していった。
かつては下層農民のリーダーであり、村の代表者でもあった上級者は、下層農民の支配者になり、下層農民からすれば権力者になっていた。
これが村内や村々のトラブルをうみ、下層農民の当面の敵対層は同じ村の上級農民となっていった。

きっかけ一つで暴発するほどに下層農民のエネルギーが溜まっていたところに凶作があり、それが引き金となって一揆に発展し赤蓑騒動が起きた。
したがって一揆の結束力はそれほど強くなかったが、一方で藩側も説得材料がなかった。
最後は農民の大量捕縛という藩側の実力行使によって一揆は解散し、捕らえられた多くの者はのちに釈放された。
首謀者の三日市場村和左衛門、沢渡村定吉など4名が永牢、峯方村などの庄屋や大町組大庄屋など上級農民の解職追放、鎮圧の不手際による藩士の免職などで結着した。

幕末の松本藩

八代光庸のときに至り、いよいよ財政の悪化はのっぴきならないところとなり、その再建が急務となった。
盆地である松本では新田開発に限界があり、また倹約や出費の削減にも限度があった。
このため年寄戸田図書壮誠、同じく太田庄太夫有忠らは、商業の統制、領内農村の家内工業の奨励、工場制手工業の試行、江戸・大坂への絞木綿の販路開拓、犀川通船の管理など積極政策を推進しようとした。
一方、これに反対する年寄林忠左衛門良棟、同じく西郷新兵衛元純らは派閥を成して対抗した。

天保5年(1834年)に絞木綿問屋による農村の家内工業奨励策が失敗に帰すと、戸田図書、太田庄太夫らは免職となり、さらに戸田図書は脱藩してしまった。
その後戸田図書は水戸藩内に潜伏しているのが発見され、天保12年(1841年)に関係者を含めて処分が行われた。いわゆる戸田図書騒動といわれる事件である。
弘化2年(1845年)10月に光庸は隠居し、光則が封を継いだ。この光則が最後の松本藩主となる。光則はまだ18歳であったが、時代は幕末の多事多難なときを迎えていた。
光則は将軍継嗣問題や条約締結に際して目立った動きは果たしていないが、和宮降嫁の際には和宮の一行が通る中山道本山宿から下諏訪宿の警固を課せられ、藩士1500人を7日間に渡り出動させ、御用金2万両、助郷1万3千人、馬千匹の負担を負わされた。

やがて通商条約が発効し、英仏米露蘭5ヶ国の公使が赴任する。文久2年(1861年)4月、イギリスの仮公使館であった高輪の東禅寺に代理公使ニールが着任し、イギリス海兵隊30名とともに日本側からは大垣、岸和田、松本の3藩が警備を担当した。
そのうち松本藩士伊藤軍兵衛は、もともと外国人の態度に憤りを感じており、さらに外国人のために藩が多大な出費をすることを不快に思い、また日本人が外国人に使われることに同情していた。
そのため自分が犠牲となって藩主以下の苦悩を除こうと考え、公使殺害を企てて公使寝室に忍び込もうとした。

しかしイギリス海兵隊に見つかり刃を抜き海兵2名を殺害、自らも負傷しのちに手当てを拒否して死んだ。
この事件により幕府は3千ドルの償金を払い、光則は差し控えとなった。これが第二次東禅寺事件と呼ばれるものである。
光則の差し控えは間もなく解かれ、文久3年(1862年)4月から慶応元年(1865年)まで浦賀警固、第二次長州征伐では広島に参陣した。
戊辰戦争では藩内は佐幕と尊王に分かれて、慶応4年(1868年)2月29日には城内二の丸書院で藩論決定のための会議が開かれた。

結着はなかなかつかなかったが、光則はすでに心を決しており、これより先の2月10日に岩倉具定に対し帰順の意を述べた口上書を提出していた。
しかし「松本藩は朝廷に対しては陪臣に当る故、主家徳川を経て仰せ聞けられたし」と言上したことが朝廷の忌諱にふれ、光則は謹慎を命ぜられた。
謹慎は宗家にあたる正親町三条家のとりなしで解除され、のちに越後、会津方面を転戦した。明治2年(1869年)の版籍奉還を経て、廃藩置県となり松本県となるが、すぐに松本を含む南信4郡(筑摩、安曇、諏訪、伊那)は飛騨国とともに筑摩県となった。以後明治9年(1876年)に長野、岐阜両県に分割されるまで筑摩県時代が続く。

参考文献:江戸三百藩主人名事典(新人物往来社)、新編物語藩史(新人物往来社)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ
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