歴史の勉強

飯田藩

藩主 在任 石高(万石) 特記
京極高知 文禄2.10~慶長5.11
1593~1600
10.0 丹後宮津へ
小笠原秀政 慶長6.?~慶長18.10
1601~1613
5.0 下総古河より
信濃松本へ
脇坂安元 元和3.?~承応2.12
1617~1653
5.5 伊予大洲より
脇坂安政 承応3.3~寛文12.5
1654~1672
5.5 播磨龍野へ
堀親昌 寛文12.閏6~延宝元.7
1672~1673
2.0 下野烏山より
堀親貞 延宝元.9~貞享2.11
1673~1685
2.0  
堀親常 貞享3.3~元禄10.3
1686~1697
2.0  
堀親賢 元禄10.5~正徳5.11
1697~1715
2.0  
堀親庸 正徳5.12~享保13.7
1715~1728
2.0  
堀親蔵 享保13.9~延享3.2
1728~1746
2.0  
堀親長 延享3.4~安永8.4
1746~1779
2.0  
堀親忠 安永8.4~天明4.6
1779~1784
2.0  
堀親民 天明4.9~寛政8.4
1784~1796
2.0  
堀親寚 寛政8.5~弘化2.9
1796~1845
2.7  
堀親義 弘化2.9~慶応4.3
1845~1868
1.7  
堀親広 慶応4.3~
1868~
1.5  

飯田藩前史

飯田藩は天竜川に沿った信濃伊那谷の飯田周辺を領有した小藩である。信濃は室町時代小笠原氏が守護を勤めていたが、地域が広大で、谷筋に幾多の国人がおり最初から安定しなかった。
伊那谷には鈴岡に小笠原氏(松尾小笠原氏)が入ったが力が弱く、室町中期には土豪が割拠していた。そこに隣国甲斐から武田家、越後から長尾(上杉)が信濃を盛んに侵しだした。
小笠原家は国人層の支配を最後までできず戦国大名化に失敗、早くから国人層を支配下に置いた甲斐武田氏や、守護代として力をつけ戦国大名化した長尾氏に付け込まれることになった。

伊那地方は地理的な条件から甲斐の武田氏が勢力下に置いた。天文23年(1554年)に武田晴信(信玄)自ら兵を率いて松尾小笠原氏を追い、伊那谷一帯を平定した。
武田氏は家臣秋山信友を最初は高遠、次いで飯田に置き郡代として支配させた。飯田がこの地方の中心となるのはこの時からである。

やがて武田氏は信玄の病没により勢威を失い、設楽ヶ原で織田・徳川連合軍に破れると伊那谷は織田氏の支配下に置かれた。
織田氏は毛利秀頼を飯田城主とし伊那郡一円を支配させたが、すぐに本能寺となり飯田は無住の城となった。
この隙に徳川家康が信濃に軍を進めて伊那谷一帯を占領、関東移封により家康が信濃を去ると信長の死後秀吉に仕えていた毛利秀頼が再び飯田城主に返り咲いた。

文禄2年(1593年)の文禄の役の陣中で秀頼が没すると、秀頼の女婿の京極高知が伊那郡一帯を領有した。
高知は関ヶ原戦で家康に付き岐阜城攻撃や関ヶ原本戦で功を挙げ、それにより丹後宮津12万3千石に転封された。
家康は高知の後を松尾小笠原氏の正統であり、お気に入りの小姓であった小笠原信之に与えようとしたが固辞され、仕方なく小笠原のもう一流である深志小笠原氏の秀政に与えた。

初期の飯田藩

秀政は慶長6年(1601年)に飯田に入ったがその所領は5万石、前の京極家は10万石だったから半減である。
これは山間地帯であるこの地に大大名を置くことを好まなかった家康の戦略によるものと、伊那谷の木材を幕府直轄にするためのものだったと考えられる。
秀政は慶長18年(1613年)に在封12年で故地松本に転封となった。

秀政転封の後飯田は3年間天領となる。大坂の陣の後の元和2年(1616年)に伊予大洲から脇坂安元が5万5千石で入部するが、飯田領は飯田周辺と下条・箕輪一帯の98ヶ村約5万石で小笠原時代そのままであり、残りの5千石は上総一宮で領した。
脇坂安元は賤ヶ岳七本鑓で有名な脇坂安治の二男で、兄安忠が早世したために脇坂家を継いだもので文武両道に優れた剛直な人であった。
安元は承応2年(1653年)に70歳で病死し、養子の安政が継いだが、安政は寛文12年(1672年)播磨龍野に転封となった。

堀親昌の入部

脇坂氏の後に飯田藩主となったのは堀親昌であった。堀氏は信長の武将であった堀秀政が秀吉の側近となり、信長死後に秀吉に取り立てられて栄達した家で、秀政死去後は嫡子秀治が継ぎ、関ヶ原のころには越後春日山で45万石を領し、関ヶ原でも家康についた。
秀治の弟親良は、兄秀治の与力大名として越後蔵王4万石を与えらたが、慶長8年(1603年)に兄の政治を不満として越後を去った。
その後本多正純の家臣を経て、寛永4年(1627年)下野烏山2万5千石の大名となり、その子親昌が信濃飯田に転封となった。以後飯田藩主として代々封を受け継ぎ幕末まで続く。
ちなみに兄秀治の系統は、秀治の子の忠俊の代に家老間の争いから取り潰されてしまう。

親昌は家督を継ぐときに弟2人に5千石を分知したので、飯田に入ったときは2万石の小大名であった。
脇坂氏の領地のうち、残りの3万石は天領となり飯島に代官所が置かれて支配された。親昌は飯田に入部するとそれまでの知行制から蔵米制に改めた。
農民支配は庄屋、組頭、長百姓の村方三役にによって行われ、庄屋も世襲制ではなく廻り庄屋と呼ばれる、一種の持ち回り制であった。

親昌は飯田入部の翌年延宝元年(1673年)に死去し、親貞、親常、親賢と継ぐ。親貞は延宝元年襲封するが12年の在封で貞享2年(1685年)に死去、次の親常は12歳で家督を継ぎ、これも在封12年で元禄10年(1697年)に死去した。
親貞は松平光長改易の後の高田城在番中の急病死であり、親常も24歳の若死にで、親常の代の12年間は、重臣による執権政治であった。

牛之助騒動と藩財政

飯田藩四代藩主親賢の時に牛之助騒動が起きた。側用人牛之助が親賢の世話で殿中の女中と結ばれた。
婚礼の翌日、牛之助は御礼のために登城すると、親賢は側室に髪を結わせていた。その側室と牛之助は日ごろから見知った仲なので、側室は牛之助を見て何気なく微笑した。
鏡に映ったその笑顔を見た親賢は、側室と牛之助が不義の関係にあると思い込み、牛之助を惨殺したという、なんともお粗末な話である。

藩主がこれでは家臣もあきれ返るのだろう、藩内には退廃の気が漂い、元禄12年(1699年)には堀宇右衛門ら50人が暇をとり藩を去ってしまった。
その後、宝永4年(1707年)には大地震、正徳5年(1715年)6月には天竜川大洪水と事件が相次ぎ、親賢の跡の親庸の代にも、享保2年(1717年)江戸の大火で江戸屋敷焼失、享保4年(1719年)天竜川大洪水など災害に見舞われる。

小藩ゆえ藩財政はたちまち揺らぎ、享保年間には「御定借」と呼ばれる豪商や豪農からの借用による賄い金制度が一般化した。
この頃の飯田は伊那街道の物資運輸の中心地として発展し、特に輸送機関として中馬の中心地となった。
当時の陸上輸送は馬によって行われたが、通常は各宿駅で馬から馬へ荷物が付け替えられる中継による方式がとられていた。
中馬とは付け替えの手間を省き、一頭の馬で長距離を輸送し経費を節約する方式であった。

信州から太平洋岸へは中山道の木曽路と伊那街道の伊那路があったが、中山道は人の往来多く、日光例幣使や朝鮮通信使も通り何かとやかましい。
もっぱら貨物輸送に使われたのは、脇往還である伊那街道であった。そのために飯田は物資の中継地、中馬の中心地として発展し、小藩の城下ながら商業都市となり、富商が生まれた。
やがて藩の毎月の必要経費は富商を中心とする町人が賄うようになり、これが「御定借」と呼ばれるものになった。従って飯田藩の財政は町人層に握られることとなった。

千人講騒動

飯田藩の財政は御定借や御用金に頼らざるを得なくなっていたが、宝暦5年(1755年)の江戸屋敷焼失、宝暦8年(1758年)には駿府城加番と事件や公役が相次ぎ藩財政は逼迫した。
そこで郡奉行黒須楠右衛門の発案で千人講を行うことになった。公営の無尽である。城下桜町に千人講会所を作り、町家や各村は強制参加であった。
村は大小にかかわらず全村で二口、一口は毎月一分年で六両としたから、一村では毎月一両の拠出が必要であった。

これを村中で出すのであるが、小村ではそれでも無理であった。第二会あたりから辞退する者が現れだしたが、黒須楠右衛門は「辞退するなら、田地を差し出して立ち退け」と激怒。
これに怒った農民たちは一揆の相談を始めた。藩では不穏の動きを察知し、農民たちが意見一致を見る前に説得し、一旦は収拾しかけた。
ところが下郷三ヶ村といわれる藩南端の桐林、時又、上川路の農民は一揆の決行を決め、宝暦12年(1762年)2月22日に城下に向けて出発した。

道々人数は膨れ上がり、城下に入った頃には圧倒的な人数に防ぎようがなく、城下の富商の屋敷は打毀しにあった。
翌23日には上郷など他地域の農民も飯田に押し寄せ、打毀しを恐れた町人までが加わり、収拾が付かない状態になった。
藩では農民たちの要求である千人講の廃止と責任者の黒須楠右衛門、小林源五左衛門の罷免を決めて農民を説得、一揆を収めた。

千人講騒動は基本的には農民の要求が受け入れられた形であった。藩では騒動の始末が一段落すると騒動の首謀者を内偵捕縛、その数は50人余りに及んだという。また町人でも一揆に肩入れしたとして11名が閉門となった。
しかし死罪、追放など重い罪にはならず手錠お預けや入牢などで、やがてそれらも許されて千人講騒動は終った。

紙問屋騒動と堀親寚

千人講騒動は終っても藩財政の困窮は終ったわけではない。その後も飯田藩では財政絡みのゴタゴタが続く。
豪農林新作が御用紙の一手引き受けを願って許可され、城下商人の反対にあった。新作は藩財政の一端を担うほどの豪農であり、藩では願いを拒否できず許可したのであるが、その後商人が騒いだために紙問屋の林新作独占は延期となった。

藩はよくよく考えてみると新作一人に儲けさせるより、城下商人たち利用し、その元締めを役人がやるほうが藩の直接の利益になると考えなおし、ここに公許紙問屋を設立した。
この紙問屋の公印がない紙は売買を一切禁止され、運上金と手数料を取った。たちまち紙の値段は上がり紙漉職人を巻き込んで騒動になった。
規模は小さかったが打毀しもおたが、結局は鎮圧され首謀者が処罰された。これを紙問屋騒動という。

千人講騒動、紙問屋騒動と藩政は不安定で、藩財政の窮乏は相変わらずであったが、寛政8年(1796年)家督を継ぎ藩主となった親寚は、辣腕家であった。
文化11年(1814年)奏者番、文政9年(1826年)寺社奉行ついで若年寄となり、さらに天保12年(1841年)側用人、同14年(1843年)に7千石加増され老中格、天保15年(1844年)には老中となった。
水野忠邦の側近で、天保の改革を忠邦とともに推し進め、諸大名に恐れられる存在となった。
しかし弘化2年(1845年)忠邦の失脚により1万石を減封され、逼塞を命じられる。翌3年に逼塞は解かれたが、そのまま剃髪隠居した。

幕末維新の飯田藩

親寚の跡は親義が継いだが、この時に親寚五男で才気煥発、親寚も溺愛する金四郎とのあいだで家督を巡る争いが起こる。
国家老安富主計は親寚を諌めて親義の家督となったというが、それが奥向きの勢力争いに絡み、奥向で権勢のあった老女の刺殺事件にまで発展した。これを飯田騒動という。
一方で藩政面でも嘉永3年(1850年)と5年に一揆がおきた。親義は嘉永6年(1853年)に奏者番、文久3年(1863年)に寺社奉行に進み、文久4年(1864年)大坂警備、元治元年(1864年)には長州征伐に向かう。

このころ飯田藩は清内路峠の関所を管理していたが、その関所を水戸浪士に破られ、その責任を取らされて親義は逼塞の上2千石減封。清内路関所は高遠藩の管理となった。
領内では米騒動が盛んに起き、一方で行政は機能せず、すでに藩の態をなしていなかった。慶喜の大政奉還により、小藩である飯田藩は大勢に順応せざるを得ず、藩論は勤皇に決して戊辰戦争では官軍に従い各地を転戦した。

なお明治維新の混乱期飯田藩内に二分金騒動が起きる。贋金のような粗悪な二分金が多量に藩内で使われたために、その二分金の交換を要求した農民や商人が騒ぎ打毀しに発展したものである。
藩では犯人たちを捕縛し罰金を課し、城内枡形の杉や外堀の木を売って金を作り、藩札を作って二分金と引き換え収拾した。
飯田藩は小藩ゆえか一揆をはじめ騒動の多い藩であったが、最後の最後まで騒動続きであった。

参考文献:江戸三百藩主人名事典(新人物往来社)、新編物語藩史(新人物往来社)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ
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