歴史の勉強

高徳藩

藩主 在任 石高(万石) 特記
戸田忠至 慶応2.2~明治2.5
1866~1869
1.0 新封
戸田忠綱 明治2.5~明治3.8
1869~1870
1.0 下総曾我野へ

高徳藩は幕末のごく短期間だけ存在した藩である。藩祖の戸田忠至は、下野宇都宮藩主戸田忠翰の弟で、藩重臣であった田中忠舜の二男として生まれ、やがて重臣の間瀬家を継いで間瀬和三郎と名乗った。
安政3年(1856年)には家老上席となり、わずか10歳の宇都宮藩主戸田忠恕を補佐し、藩政、家政全般を実質的に取り仕切った。
さらに歴代天皇陵修復を建白し、幕府の許しを得て畿内の山稜の調査修復にあたった。文久2年(1862年)9月18日に宇都宮藩家老を辞して山稜造営惣奉行、同月21日に戸田姓に復し、10月23日に山稜奉行、翌文久3年従五位下大和守に任じられた。

元治元年(1864年)に水戸天狗党の乱の際に、追討を命じられた宇都宮藩は、戦闘に消極的であり、元治2年(1865年)正月に藩主忠恕は譴責されて2万7千8百石余りを減封されたうえ隠居謹慎を命じられた。
さらに陸奥棚倉に転封の内命が下されたが、宗家の正親町三条家を通じての朝廷への嘆願や忠至らの山稜修復の功績などにより減封、謹慎、転封とも取り消された。
この忠至の功績に対して宇都宮藩は1万石(うち3千石は新田分)を分知し、忠至は陣屋を高徳の置き高徳藩を立藩した。

実態は宇都宮藩の支藩であり、忠至はその後も宇都宮藩忠友の隠居問題でも奔走するなど、宇都宮藩の保全に尽力した。
一方で、慶応3年(1867年)7月京都若年寄、翌慶応4年2月参与、会計事務局判事、御台所口取締などにも任じられている。
明治2年(1869年)に版籍奉還と同時に致仕して、家督を長子忠綱に譲ったが、忠綱は明治3年(1870年)3月に下総千葉、印旛両郡内に所領を移されて下総曾我野村に藩庁を置いた。

参考文献:江戸三百藩主人名事典(新人物往来社)、藩と城下町の事典(東京堂出版)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ
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