歴史の勉強

足利藩

藩主 在任 石高(万石) 特記
本庄宗資 元禄元.1〜元禄5年.11
1688〜1692
1.0 新封
常陸笠間へ
(引続き元禄12まで本庄領)
戸田忠時 宝永2.1〜宝永5.6
1705〜1708
1.1 新封
戸田忠囿 宝永5.6〜享保17.5
1708〜1732
1.1  
戸田忠位 享保17.閏5〜元文元.9
1732〜1736
1.1  
戸田忠言 元文元.10〜安永3.12
1736〜1774
1.1  
戸田忠喬 安永4.2〜文政4.4
1774〜1821
1.1  
戸田忠禄 文政4.4〜弘化4.9
1821〜1847
1.1  
戸田忠文 弘化4.11〜安政3.8
1847〜1856
1.1  
戸田忠行 安政3.10〜
1856〜
1.1  

戸田氏以前の足利

源氏の名門足利氏の故地であり、足利学校のある地としても名高い、栃木県足利市付近は、かつては足利荘といわれる荘園であった。
戦国期には、関東管領上杉房顕に仕えていた長尾景人が、専攻により由緒の地として足利荘一帯を与えられたが、やがて小田原の後北条氏に追われた。
豊臣秀吉により後北条氏が滅ぼされると、この地は徳川家康領となり代官が支配した。寛永10年(1633年)〜天和2年(1682年)の間は、古河藩領となり、土井氏による支配がなされたが、土井氏の転封の後は再び天領となった。

元禄2年(1689年)に、本庄宗資が1万石で入封し、ここに足利藩の成立を見た。
宗資は、五代将軍綱吉の生母桂昌院の義理の弟であり、綱吉が将軍になると召し出されて数度の加増のあと、大名となったもので、まさに桂昌院の引立てでの出世であった。
宗資はさらに加増の上、元禄5年(1692年)に常陸笠間4万石に転封となったが、足利の地は引き続き本庄氏の領地であった。
その後元禄12年(1699年)に宗資が没すると、足利の地は甲斐谷村の秋元喬知の領地となり、5年後の宝永元年(1704年)に秋元氏が武蔵川越に移されたあと、戸田氏が封ぜられた。

戸田忠時の入封

戸田氏は三河の在地勢力であり、最終的には家康に仕えて、江戸期には大名として三系統があった。
すなわち二連木戸田家(松平戸田家)、田原戸田家、大垣戸田家であり、足利藩主の戸田氏は、このうちの田原戸田家の分家である。
田原戸田家は家康の三河時代に、渥美半島の田原嬢を本拠とした家で、一時は滅亡したが天正18年(1590年)に再興され、故地三河田原を振り出しに各地を転封された。

田原藩二代藩主を戸田忠能といい、その弟忠次の二男が戸田忠時(初名は忠利)であった。この忠時が足利藩戸田氏の初代となる。
戸田忠次は幕臣となり、御小姓組番士を勤めていた。長男を忠昌といい、忠昌は兄忠能の養子となったために、忠時が家督を継いだ。
承応3年(1654年)2月御小姓組番士を振り出しに、延宝8年(1680年)2月徒士衆頭、天和2年(1682年)正月11日には伏見奉行となった。
天和3年(1683年)12月に従五位下長門守に任じられ、貞享3年(1686年)小姓組番頭、元禄2年(1689年)7月に甲府の徳川綱豊に付けられ、その家老となった。

忠時は綱豊側近となり、やがて綱豊が将軍綱吉の継嗣となって西の丸に入ると、忠時も幕臣に復帰し元禄2年(1689年)に5千石を賜り、さらに元禄16年(1703年)に3千石を加増された。
宝永元年(1704年)家宣(綱豊)御側役、翌宝永2年正月に3千石を加増され都合1万1千石となり、足利に陣屋を構えた。
以後足利の地は幕末まで戸田氏が忠囿‐忠位-忠言‐忠喬‐忠禄‐忠文-忠行と八代にわたって継承し、明治維新を迎えた。

二代忠囿から七代忠文まで

本格的な藩政は、二代忠囿によって確立されたといっていい。享保6年(1721年)11月に三ヶ条、享保10年(1725年)7月には十二ヶ条の法制を発布している。
前者では将軍吉宗の享保の改革を受け、衣服や食事、婚礼など何事も質素倹約を旨とせよといい、後者は旅行の法制として道中での注意や禁制が述べられている。
これは忠囿が享保10年に大坂定番に任ぜられたためで、忠囿はこの任務中の享保17年(1732年)に大坂で死亡している。なお、忠囿は大変な肥満であったらしいが、乗馬や武勇を好んだとされる。

忠囿の跡を子の忠位が継ぎ、大坂定番や日光祭礼奉行を勤め、忠位の跡はその子の忠言が継いでやはり大坂定番や奏者番を勤めた。
忠位〜忠言の時代の天明3年(1783年)9月、飢饉を原因とする打ち毀しが起きた。いわゆる天明の大飢饉で、このときに藩庁がどういう対応を取ったかは不明だが、この前後にもおそらく一揆は発生しており、藩当局も対応に苦慮したに違いない。
忠言は安永3年(1774年)12月に48歳で死去し、嫡子忠如がすでに死去していたために、忠言八男にあたる忠喬が藩主となった。忠喬は、文化12年(1815年)2月に御定書五箇条を制定して、藩財政の緊縮や倹約、貯蓄の奨励を行った。文政4年(1821年)4月7日に三男忠録に家督を譲り隠居した。

忠録の治世の天保期は全国的に飢饉に見舞われ、足利藩も例外ではなかった。足利陣屋には政治批判の捨書も行われた。
捨書は天保8年(1837年)3月25日に、陣屋の門前に足利町困窮人の名でなされ、穀物の高騰に対し役所は何もせず、これは役所と商人の結託ではないかとも疑われ、領主の名にも拘り、このままでは乱も起きると脅している。
藩当局も手をこまねいていたわけではなく、買占め禁止や穀物の値下げなど、できる限りの対策をしている。
忠録は弘化4年(1847年)9月に50歳で死去し、養子の忠文が跡を継いだ。忠文は宗家である宇都宮藩主戸田忠温の四男で、わずか9歳での襲封であった。忠文は病弱であったようで、安政3年(1856年)初から病篤く、同年8月に18歳で没した。脚気であったという。

激動の時代

忠文の跡を継いだのが忠行で、足利藩最後の藩主である。忠行は先々代藩主忠録の子であったが、忠録は忠行が生まれる10日ほど前に死去している。
安政3年(1856年)に先代忠文の急養子となって跡を継いだが、そのときはまだ10歳であった。文久2年(1862年)大番頭となるが、翌文久3年に大番頭自体が廃止されて職を免じられた。
文久3年(1863年)6月に忠行は藩政改革に着手している。この年正月、藩士田崎恒太郎(草雲)が藩校設立の建白書を提出し、次いで翌2月に森下章蔵と初谷利一郎の両名が藩政について上申書を差し出した。

いずれも藩政改革を目指したもので、6月には改革の一環として禄高の制限が打ち出され藩士の俸禄が削減された。
同年9月には教育機関が設立された。武術が奨励され、7月には50歳以下の藩士には武術の稽古が義務付けられた。
足利藩の軍制は安政年間にオランダ式で縦隊を編成したが、縦隊は熟練していなければならないとの考えに基づいて鍛錬を重ねていたが、西洋調練掛も設けられた。

慶応3年(1867年)6月に忠文は陸軍奉行並に任じられ、10月にはフランス陸軍伝習方となる。これにより明治になってからではあるが、足利藩の軍制はフランス式に改められた。
一方、幕末期の水戸天狗党の乱では、足利藩も対応を余儀なくされた。元治元年(1864年)に水戸藩の尊王攘夷派である天狗党が挙兵し、足利からも藩医鈴木千里やその子の刈谷三郎、また豪農の青木陽民などが協力したり参加したりしている。
彼らは大平山に籠ったが、足利藩でも都賀郡内に領地があった関係もあり、大平山退去の交渉をしている。この後、天狗党内の分裂もあって乱は収まったが、その過程で栃木宿が放火され、足利藩士も応戦している。

慶応3年10月14日に大政奉還がなされたが、あくまでも武力倒幕に拘る西郷隆盛は幕府を挑発すべく、浪人を集めて各地に派遣した。
その一隊が栃木の出流(いずる)山満願寺で挙兵し、付近の農民などを集めて義軍をなし、唐沢山や大平山、岩船山などに拠った。
幕府は足利、館林、壬生の三藩に出兵を命じ、一千余名の討伐隊によりこれを鎮めた。

これらによっても明らかなように、忠行の態度は極めて幕府寄りあった。しかし慶応4年(1868年)に徳川慶喜が寛永寺に蟄居すると態度を変え、家老相場杢左衛門に「天機奉伺内意伺書」を持たせて京に派遣している。
忠行は病気のためと称し、名代派遣の形にして同書は受理された。戊辰戦争では藩兵のほかに、誠心隊と命名された民間部隊が結成された。
隊員は約200名ともいわれ、準藩士の待遇が与えられ、名字帯刀を許され、陣屋への出入りできた。

誠心隊は藩兵とともに新政府軍に加わり、梁田宿での幕軍との戦いの掃討戦や上州沼田近くの戸倉村での会津軍との戦いに活躍した。
明治2年(1869年)には版籍奉還により忠行は反知事となり、また同年には藩札が発行されている。藩札には贋造事件も起き、処刑者も出ている。
また藩の教育機関は求道館となり明治元年には足利学校内に移り、同時に医学所も設けられた。見てきたように足利藩も他藩同様、幕末には激動したが、藩主忠行以下小藩ながらの身のこなしもあって乗り切り、廃藩置県を迎えた。

参考文献:江戸三百藩主人名事典(新人物往来社)、シリーズ藩物語・足利藩(現代書館)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ
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