歴史の勉強

大溝藩

藩主 在任 石高(万石) 特記
分部光信 元和5.8~寛永20.2
1619~1643
2.0 伊勢上野より
分部嘉治 寛永20.3~明暦4.7
1643~1658
2.0  
分部嘉高 万治元.閏12~寛文7.6
1658~1667
2.0  
分部信政 寛文7.8~正徳4.6
1667~1714
2.0  
分部光忠 正徳4.6~享保16.3
1714~1731
2.0  
分部光命 享保16.3~宝暦4.9
1731~1754
2.0  
分部光庸 宝暦4.9~天明5.3
1754~1785
2.0  
分部光実 天明5.3~文化5.4
1785~1808
2.0  
分部光邦 文化5.6~文化7.9
1808~1810
2.0  
分部光寧 文化7.11~天保2.3
1810~1831
2.0  
分部光貞 天保2.3~明治3.4
1831~1870
2.0  
分部光謙 明治3.7~明治4.6
1870~1871
2.0  

関ヶ原役では東軍に属して富田知信とともに安濃津城に籠城した伊勢上野城主分部光嘉は、圧倒的な西軍の攻撃で開城したものの、戦後安濃津城籠城戦の戦功で1万石を加増されて2万石となった。しかし籠城戦での傷が悪化し、慶長6年(1601年)11月に没した。
光嘉の跡を光信が継いだが、元和8年(1622年)に徳川頼宣が紀伊に入ると上野藩領も全て紀伊家領となるため上野藩は廃藩となり、光信は近江大溝に転封となった。光信の跡を嘉治が継いで、分部氏は明治まで十二代に渡って相伝した。

八代光実は名君で、城内に藩校修身堂を開設し、天明8年(1788年)には心学者中沢道二を登用して修身の道を説かしめた。藩財政窮乏により倹約令を布れ、自らも率先垂範したという。
幕末期の文久3年(1863年)8月18日の政変で十一代光貞は京都守護を勤め、孝明天皇に賞されて金子を賜った。これ以後大溝藩は新政府軍側に立つ。
最後の藩主光謙は藩財政悪化を理由に明治4年(1871年)6月23日に廃藩届けを出して受理され、大溝藩は廃藩置県を待たずに消滅した。

参考文献:江戸三百藩主人名事典(新人物往来社)、藩と城下町の事典(東京堂出版)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ
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