歴史の勉強

仁正寺(西大路)藩

藩主 在任 石高(万石) 特記
市橋長政 元和6~慶安元.2
1620~1648
2.0 越後三条より再封
市橋政信 慶安元.6~宝永元.1
1648~1704
1.8  
市橋信直 宝永元.2~享保5.2
1704~1720
1.7  
市橋直方 享保5.4~元文元.5
1720~1736
1.7  
市橋直挙 元文元.5~宝暦8.11
1736~1758
1.7  
市橋長璉 宝暦8.11~天明5.10
1758~1785
1.7  
市橋長昭 天明5.12~文化11.9
1785~1814
1.7  
市橋長発 文化11.11~文政5.1
1814~1822
1.7  
市橋長富 文政5.9~弘化元.10
1822~1844
1.7  
市橋長和 弘化元.10~
1844~
1.7  

元和6年3月17日に越後三条藩主市橋長勝が無嗣のまま死去し、三条領4万1千3百石(4万3千石とも)は収公された。
しかし長勝の老中宛の必死の嘆願書等による工作や長勝が家康の信任篤かったことなどから、甥の長政に家督相続が認められた。
長政の新たな所領は近江国蒲生、同野洲、河内国交野の各郡内で2万石となり、長政は蒲生郡仁正寺に陣屋を置いて仁正寺藩を立てた。
元和8年(1622年)に2千石を女婿の市橋長吉に分与し、また二代政信のときにその弟政直に千石を分与したので、仁正寺藩領は1万7千石となり、以後明治まで市橋氏が相続した。

七代藩主長昭は、聡明であり学問を好んだといわれ、寛政8年(1796年)に藩校日新館を創設、文武を奨励した。
また西生懐忠に命じて地誌「蒲生旧址考」を編纂させ、藩士には武術を訓練した。享和3年(1803年)には大砲の訓練もはじめたといい、その事績から仁正寺藩中興の英主といわれる。
九代長富のときの天保14年(1843年)に、砲術の大家高島秋帆を預けられ、このことが仁正寺藩の砲術訓練に大いに寄与したという。
十代長和は最後の藩主で、文久2年(1862年)には西大路藩と改称した。長和は当初佐幕であったが、その後新政府軍に帰順し、鳥羽伏見の戦いには官軍側として参加、戊辰戦争では東山道鎮撫使に属して奥羽地方にまで転戦した。
明治元年(1868年)には天皇の東京行幸の奉送にあたり、その後は京都警護を担任した。

参考文献:江戸三百藩主人名事典(新人物往来社)、藩と城下町の事典(東京堂出版)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ
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