歴史の勉強

相馬藩

藩主 在任 石高(万石) 特記
相馬利胤 慶長7.10〜寛永2.9
1602〜1625
4.8  
相馬義胤 寛永2.10〜慶安4.3
1625〜1651
6.0 検地により石高確定
相馬忠胤 承応元.2〜延宝元.10
1652〜1673
6.0  
相馬貞胤 延宝元.12〜延宝7.11
1673〜1679
6.0  
相馬昌胤 延宝7.12〜元禄14.2
1679〜1701
6.0  
相馬叙胤 元禄14.2〜宝永6.6
1701〜1709
6.0  
相馬尊胤 宝永6.6〜明和2.5
1709〜1765
6.0  
相馬恕胤 明和2.5〜天明3.12
1765〜1783
6.0  
相馬祥胤 天明3.12〜享和元.3
1783〜1801
6.0  
相馬樹胤 享和元.3〜文化10.11
1801〜1813
6.0  
相馬益胤 文化10.11〜天保6.3
1813〜1835
6.0  
相馬充胤 天保6.3〜慶応元.4
1835〜1865
6.0  
相馬誠胤 慶応元.4〜
1865〜
6.0  

浜通りと呼ばれる福島県の太平洋沿岸地方の北部にある相馬市、南相馬市、相馬郡一帯は鎌倉時代から江戸時代まで相馬氏が800年に渡り支配してきた。
相馬氏の名の興りは、下総の相馬御厨(伊勢神宮領)をその祖である相馬師常が相続したことにより、やがて奥州の行方郡一帯にも恩賞で所領を得た。
相馬氏六代重胤は一族の争いに嫌気がさして奥州行方郡に居を移し、その子孫は南北朝、室町、戦国期を生き延びた。
関ヶ原役では西軍より態度を取ったが、相馬藩初代となる相馬利胤の奔走で本領を安堵されて相馬藩6万石の成立を見た。
明治維新まで相馬氏が一貫して相伝し、明治後は藩主の名がそのまま地名になった。

相馬藩の成立

相馬藩主初代となる利胤は、天正9年(1581年)に相馬氏十五代相馬義胤の長男として陸奥国行方郡小高城で生まれた。
烏帽子親であった石田三成の一字を賜って初名を三胤といったが、これは義胤が豊臣秀吉の小田原陣に参陣した際に、石田三成の取り成しで本領を安堵され、それ以来三成と昵懇であったためであった。
義胤は関ヶ原のころには常陸の大大名佐竹氏の与力とされていた。佐竹氏当主義宣も石田三成と昵懇であり、そのため関ヶ原でも旗幟を鮮明にせず、会津の上杉包囲に出兵はしたものの、攻撃には加わらなかった。
また相馬氏の宿敵であった伊達氏が徳川方として、上杉攻めに積極的に動いたこともあって、義胤は関ヶ原では兵を動かさなかった。

徳川家康は会津の上杉攻めに向う途中、下野小山で石田三成の挙兵を聞き兵を返す。慶長5年(1600年)8月関ヶ原本戦で家康が勝利、この報を聞いた義胤は遅ればせながら翌慶長6年正月に上杉領であった安達郡を攻めて失敗している。
慶長7年(1602年)5月24日に関ヶ原不参により義胤は領地を没収される。このとき常陸の佐竹義宣も領地を没収されて、出羽久保田20万石に移封されたが、義胤には佐竹領のうち1万石が分与される予定であったという。

義胤は久保田移封を受け入れる決心をするが、利胤は江戸に上り実力者本多正信を頼み、その仲介もあって家康・秀忠に謁見して弁明し忠誠を誓うなど奔走し、宿敵であった伊達政宗の取り成しもあって、10月には利胤に本領が安堵され相馬藩が成立した。
なお、江戸に上る際に三成の偏諱をはばかって密胤と名を改め、その後さらに幕閣の実力者土井利勝の利の字を偏諱として再び改名し、利胤と名乗りを改めている。
慶長16年(1611年)12月に利胤は、それまでの本拠小高城から宇多郡中村城に本拠を移している。以後、ここが相馬藩の城下町となる。そのために中村藩とも称される。

初期藩政

利胤は宇多川の流れを変え、碁盤の目状に街割を行って城下町の形成に意を注いだが、この際に北方の伊達氏を仮想敵として考慮したという。
元和3年(1607年)に財政難のなか、家臣に対して知行に対して納める役金を割り増ししたことに端を発して、藩士5百余名が免除を願う連判状を提出したが、利胤はこれを許さずに連判した藩士を追放処分とした。
寛永2年(1625年)9月利胤が病没するとその子義胤がわずか7歳で封を継ぐ。幼少であったために泉田村に隠居していた祖父義胤が後見となった。このために義胤は泉田村を出て中村城に移った。寛永6年(1629年)に元服し、祖父義胤の名を譲り受ける。

相馬藩は歴史が古いために藩主相馬氏の蔵入地は他藩と比べて極端に少なかった。太閤検地の際の相馬氏の蔵入地は16%に過ぎなかったといわれている。実に8割以上が、藩士や寺社領であった。
このように財政基盤が弱いところに、江戸開幕後の軍役負担、中村城築城などの出費があり、たちまち財政難に陥った。つまり相馬藩は成立時から財政難に苦しめられたのである。

この打開策として藩では元和8年(1622年)検地を行って石高6万石を打ち出した。寛永6年(1629年)に幕府はこれを認め、以後これが相馬藩の表高となる。
寛永12年(1635年)に後見であった祖父義胤が死去、寛永16年(1639年)には再び領内検地が行われ、領内三郡の村々は五級に区分されて、実収高と貢租の均等化、公平化が図られた。
なお、寛永16年の検地では新田開発によって石高は9万3千2百余石となった。
このように若くして相馬家の家督となった二代義胤は、相馬藩に基礎固めに功績を残したが、慶安4年(1651年)に33歳の若さで病死した。

名君忠胤の治世

相馬藩二代藩主義胤には男子がなく、上総久留里藩主土屋利直の二男直方を養子とし、義胤の息女亀姫と娶わせた。
先々代の利胤の後妻が利直の父土屋忠直の異父妹であった縁である。承応16年(1652年)に相続が認められて、最初勝胤と名乗る。忠胤と改名するのは寛文3年(1663年)のことである。
忠胤は名君とされていて、襲封後に検地を実施し10万2千石を打ち出した。この検地は竿の間制を六尺三寸から六尺五寸に緩和し、さらに地味・水利・交通などによって村を上々かた下々までの九等に区分し行われたが、精細を極めたために石高は増したという。
この石高に対して定免制が布かれ年貢率は48.2%とされ、天災などの際には検見法によることとされた。寺社領や百姓屋敷は不課税、山年貢や炭焼きなどの雑税は撤廃された。

この検地によって忠胤は地方知行制から蔵米知行制への移行を実施した。これまで歴史の古い相馬藩では藩士は直接農民から貢租を徴収していたが、28石以上は給人としたのである。
また忠胤は、在郷給人制つまり小録の給人には土地所有を認めたうえで開墾を支援して農地を拡大する方法を推進し、また農民の保護にも積極的であった。
行政では藩政執行体制が整備され城代家老以下の要職が常置され、地方支配体制は領内三郡を7つの行政区分に分けて郷と称し、陣屋を設けてそれぞれ奉行を筆頭に支配することとした。

また忠胤は中村城下の長松寺には講学所を開設して文武の鍛錬を図り、他領の商人による海魚自由買い付けを禁止して、藩内の魚問屋を保護した。
このほか伝統神事である相馬野馬追に武田流軍法を取り入れ、武術としてもすぐれた行事としたのも忠胤の企画という。このように忠胤は名君として名高く、十善第一の君とうたわれた。
一方で寛文8年(1668年)には一揆の発生を見る。この年は凶作であり、その救済が及ばなかったことが主因であるが、その裏には給人の増加により百姓地が減り、検地によって年貢が増加し、金穀の貸付はありがたいが返済に苦しむのが実態であり、百姓の分家の禁止は苛酷過ぎるという事情があった。

百姓の要求のうち金穀の貸付や百姓の分家の禁止は農民保護を目的としたものであったが、実態との矛盾が噴出した形となった。
この一揆に対して忠胤は郡代と代官を処罰し、家老以下の役人を農村に派遣して訴状が誤解に基づくものであると説得させた。
さらに貸与した種籾を無利息として返済期限も延長し、給人の新田開発にも一人10石以下と制限を設けた。これらによって民心を和らげて一揆を沈静化させたのであった。
忠胤は延宝元年(1673年)10月に37歳で病没し、戒名の広徳院から徳公と称されたが、のちに寛政年間(1789〜1800年)に藩政の破綻を来たした相馬藩では、徳公遺範が編纂されるほど、忠胤の諸改革は藩政の模範とされた。

迫り来る財政の逼迫

忠胤の跡を貞胤が襲うが病身であったためにその治世は短く、その跡は五代昌胤となる。
昌胤は農業の振興に力を入れ、北金森堤の構築や青根場溝の開削などを行い、また歌道を中院通茂に学んで領内の松川十二景を決め、茶園を開くなど文化人としても名高い。
さらに伝統の相馬野馬追を整備拡充している。昌胤の代は元禄文化全盛期であり、文化の向上を図ったものと考えられる。
一方で元禄9年から10年にかけて検地を行ない13万5千9百余石を打ち出し、藩財政には余裕が生じた。

昌胤は元禄14年(1701年)2月に隠居し、養子叙胤が六代藩主となった。叙胤は温厚であったといわれるが、その生活は財政に余裕があったこともあり万時に豪奢であったという。
幾世橋村に隠居した養父昌胤のために1万石をさき、御殿の運営費も多く、江戸麻布屋敷も再建したが、この間下級藩士や領民の生活は困窮の度を高め始めていた。
宝永6年(1709年)6月に叙胤が隠居し、尊胤が継いだ。尊胤の代もまだ元禄期の余韻が残り、財政の窮迫度それほどではなかったために、生活にも余裕があった。
また、幕命により利根川や荒川の護岸工事、日光山本坊修理、朝鮮通信使接待役、勅使接待などを勤め功績があった。

明和2年(1765年)5月に尊胤が隠居し、恕胤が八代藩主となった。
天明元年(1781年)に幕府より三河国矢作川架橋架替え工事を命じられ、これ以降に公役負担が多くなった。家臣や領民の困窮が増している時にあたり、農村の荒廃、人口減少が顕著になり、藩財政も困窮の度を加えていった。
明和6年(1769年)には中村城下に疫病が流行して多くの死者を出し、また家臣の減知も恒常的となった。

このような状況で恕胤の藩政の基本は仁政で、農民の間引きを禁じ、また財政窮迫にも関わらず年貢の引き上げは行わなかった。
また教育にも熱心であり尾崎修平、井上文平らの儒学者を招いて藩士に学ばせ、また甲州流兵法を自ら学び、藩士の武芸も奨励した。
天明の飢饉を前にした天明3年(1783年)12月に叙胤は世子祥胤に封を譲り隠居した。

天明の大飢饉と財政難

祥胤が封を継いだ天明3年(1783年)から大凶作が始まり、翌天明4年にかけて大飢饉となった。
天明4年6月には餓死者が8千5百を越え、最終的には行方不明者も含めて1万6千人が死亡し領内人口は3万4千人まで減少した。
さらに同年12月には江戸の中屋敷が焼失し、そのため祥胤は幕府に拝借金を願い出た。しかし幕府も財政難であり拝借金は許されず、5千両のみ特貸金としたが、このときに祥胤は不覚悟の故をもって翌天明5年5月まで登城停止となった。

天明8年(1788年)に拝借金の返済期限となったが、相馬藩では財政難により返済は不能となり、猶予を願い出た。このとき出仕を再び停止される処分を受けたが猶予願いは聞き届けられた。
祥胤は倹約に努め、自身が倹約した生活費を貯蓄して千両の基金を拠出したほか、人口減少対策として間引きの禁止を徹底し、さらに三男三女以上の子供には藩から養育費を支給した。
また10人以上の子供を養育者には名字帯刀を許したほか、一方で14歳から50歳までの農村の妻女は登録をし年3回に渡って見届けるという監視制度を伴った。
これらは仁政に基づくものではなく、あくまで人口を確保して年貢の増収を図る見地からの政策である。

寛政4年(1792年)には役人に通達を出し、荒地に開発を勧め、贈物を禁止した。翌寛政5年正月には「武家法令」「百姓法令」「町人法令」を発布して、各々の守るべき道を示している。
また教育面では尾崎修平に10日に1度の割合で城内において論語を講義させ、寛政4年には衆臣家譜を編纂している。
享和元年(1801年)3月に祥胤は嫡子樹胤に家督を譲り隠居した。
樹胤の治世は12年と比較的短かったが、文化6年(1809年)に百姓1軒あたり1石ずつ、給人・郷士には持高に応じて無年貢地を与えたるなど、先代祥胤の時代から続く財政難との戦いの時代であった。

益胤の改革

文化10年(1813年)11月に樹胤が隠居し、益胤が家督を相続した。益胤が家督を継いだころの相馬藩は30万両以上の借財を抱え、返済のめどは全く立たず、新たな借財の道も閉ざされた状態であった。
文化13年(1816年)に益胤は藩勢を回復して人心を安んずる方策を家臣に諮問し、これに対して上書献策した草野正辰、池田胤直を家老に登用して改革を進めた。

第一に倹約を励行し、江戸表の費用は年1万石に緊縮され、藩主は酒宴を廃して食事も一汁一菜、衣服も木綿とした。文政2年(1819年)には相馬家累代の重器が売り払われた。
備荒策として社倉を設置し、各郷には非常米囲蔵を常備させ、その間には民情を視察して、殖産振興や植林を奨励した。また藩校として文政5年(1822年)4月に育徳館を創立し、益胤自身も在藩のときは講義を聞き、また自らも講義した。
同年には赤子養育料を増額し、さらに新百姓の取立てを行った。これは他領の困窮した百姓を招き、結婚資金2両2分、馬代金1両を貸し与え、この新百姓が開墾した田畑は5年間無年貢とした。貸与資金は6年目以降の年貢から返済された。
この制は文政12年(1829年)には相馬藩内の百姓や給人・郷士の二男以下の取立てには10両貸与10年無年貢に緩和された。

文政10年(1827年)ごろからは検地が実施され、さらに天保元年(1830年)からは改めて検地が行われた。1割の縄緩めにより領民にくつろぎを与える目的の検地で、同時に苗代田に貸せられた年貢は免除された。
これらの施策により天保4年(1833年)に起きた飢饉では、一人の餓死者も出さなかった。この飢饉のときは益胤は参勤延期を願い、野馬追の行事も省略し、さらに越後に役人を派遣して女子を買い入れて困窮百姓に配偶した。
このために飢饉による農村の荒廃も避けられ、益胤は相馬藩中興の祖といわれる。

二宮仕法の導入

天保6年(1835年)3月に益胤は病気により隠居し、嫡男充胤に家督を譲った。
充胤家督の翌年となる天保7年(1636年)は大凶作となり、このときの相馬藩の収納高は457石に過ぎなかったといわれる。
江戸商人からの借財、大坂や秋田から米の調達、富農からの献米、材木の売却などにより餓死者、離散者を出さずに済んだ。
しかし文政以来の蓄積は全て消費されてしまい、このこともあって充胤は先代益胤同様に農業施策を第一とし、新田開発や水利に力を入れた。
弘化元年(1844年)に充胤は領民に対して相馬藩の窮状を訴え、村々が一致団結して向こう10年復興に努力するよう諭した。

翌弘化2年には二宮尊徳の弟子となった相馬氏庶流の富田高慶を通じて尊徳に相馬藩復興を依頼して、二宮仕法が藩内に実施され大きな成果を挙げた。
二宮仕法は簡単に言えば、天の恩恵を受けている各人は、天から与えられた能力を十分に働かせて勤労によって生活物資を生産し、自分の限度を弁えて生活して、その余分を他人に融通して万民の幸福を得て進化に貢献するというもので、倹約と勤労をその方法の中心とする。
過去の収支から倹約の目安として目標を立てて実施に移す。相馬藩では寛文5年(1665年)から弘化元年(1844年)までの180年間の収支を調査し、その後半90年間の貢租と直近10年の貢租から歳入標準を算出して、歳出はこれを限度のとした。歳入超過分は借金返済と基金積み立てに廻された。

仕法は一村単位で行われ、宇多郡成田村、同坪田村から開始され、翌弘化3年には歳入超過187石、金額換算で190両余りという成果を挙げた。
この後に仕法は領内全体に拡大され、明治維新まで続けられ、廃藩後も県の事業として続行される。
このほか充胤は北陸から真宗移民を受け入れ、蝦夷地の開拓も行って石川郷、軍川郷を開き、植林事業や水産事業も奨励した。しかし幕末の不穏な情勢のために蝦夷地開拓は中止されている。
一方幕命による沿岸防備のために急遽西洋砲術を導入することとしてその鍛錬を始めたほか、大砲の鋳造も行った。

相馬藩の終焉

幕末多端のときを迎えたが、充胤は健康を害し、慶応元年(1865年)4月に誠胤に家督を譲り隠居した。
相馬藩の藩論は勤皇であり、慶応4年(1868年)2月には家老佐藤勘兵衛を上洛させて、朝廷に恭順の意を示す傍ら、誠胤自身は江戸にあった。
奥羽鎮撫総督九条道孝が同年3月に海路仙台に入ると家老を派遣し、翌4月には自身も仙台に赴き、九条総督に謁して会津藩追討出兵の準備命令を受けた。
しかし仙台藩、米沢藩の主唱により奥羽の列藩が白石に会同すると、仙台藩の強い圧力もあって相馬藩もこれに参加調印し、奥羽列藩同盟に加わった。

だが誠胤自身には積極的に戦う意思はなく、同年8月に新政府軍が浜通りを北上して相馬領に近づく降伏して謝罪した。仙台藩追討軍は中村城に入り、中村城が新政府軍本部となる。
誠胤は先代充胤とともに謹慎処分を受けるが、新政府軍への協力を認められて10日余り謹慎解除となる。さらに本領を安堵され季胤は軍資金1万両を新政府軍に献納した。
やがて大きな混乱もなく明治を迎え、版籍奉還を経て明治4年(1871年)に廃藩置県となり8百年に渡る相馬氏の領地支配は終焉となった。
なお、その後相馬氏の旧領は相馬郡として一体化し、相馬氏伝統の行事である相馬野馬追祭は現在に続いている。

参考文献:下総・奥州相馬一族(新人物往来社)、江戸三百藩主人名事典(新人物往来社)、新編物語藩史(新人物往来社)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ
相馬氏のページに戻る
江戸三百藩の表紙に戻る
歴史の勉強

Last modified -