歴史の勉強

二本松藩

藩主 在任 石高(万石) 特記
松下重綱 寛永4.3〜寛永4.10
1627〜1627
5.0 下野烏山より
松下長綱 寛永4.10〜寛永5.1
1627〜1628
5.0 陸奥三春へ
加藤明利 寛永5.1〜寛永20.7
1628〜1643
3.0 陸奥三春より
改易
丹羽光重 寛永20.7〜延宝7.4
1643〜1679
10.0 陸奥白河より
丹羽長次 延宝7.4〜元禄11.?
1679〜1698
10.0  
丹羽長之 元禄11.8〜元禄13.12
1698〜1700
10.0  
丹羽秀延 元禄14.2〜享保13.5
1700〜1728
10.0  
丹羽高寛 享保13.6〜延享2.5
1728〜1745
10.0  
丹羽高庸 延享2.5〜明和3.12
1745〜1766
10.0  
丹羽長貴 明和4.1〜寛政8.3
1767〜1796
10.0  
丹羽長祥 寛政8.5〜文化10.8
1796〜1813
10.0  
丹羽長富 文化10.11〜安政5.10
1813〜1858
10.0  
丹羽長国 安政5.10〜明治元.12
1858〜1868
10.0  
丹羽長裕 明治元.12〜
1868〜
10.0  

二本松藩前史

二本松は鎌倉時代には安達一族の所領であり、室町時代になると奥州探題となった畠山氏の所領となった。
畠山氏はもう一人の奥州探題吉良氏との戦いに敗れて、その孫は二本松の地で地方大名化した。二本松畠山氏は戦国期に伊達政宗により滅ぼされ、その後は伊達領となったが、豊臣秀吉の奥州仕置により会津領となった。
豊臣時代の会津領主は蒲生氏、上杉氏と継がれ、関ヶ原後は再び蒲生氏が会津藩主となった。しかし蒲生氏は忠郷の代で無嗣断絶となり、寛永4年(1627年)に伊予松山から加藤嘉明が入部した。

加藤氏は、二本松に女婿で与力大名でもあった松下重綱を5万石で封じたが転封直後に死去、嫡子長綱が18歳で跡を継いだが、幼少との理由で三春に3万石で移された。
変わって三春から嘉明の二男明利が5万石で入る。明利も嘉明の与力であった。
寛永18年(1641年)に明利は死去し、その後会津の加藤明成(嘉明嫡男)が直接支配した。だが2年後の寛永20年明成は会津で騒動を起こし封地を幕府に返上してしまう。
これにより二本松も幕府に一旦収公され、陸奥白河10万石の丹羽光重が同石高で二本松に移封された。
二本松藩は松下氏、加藤氏の短い治世のあと、丹羽氏が入り幕末まで11代に渡り継承される。

二本松入部までの丹羽氏

丹羽氏は尾張の土豪であったが、戦国期に長秀が出て織田信長に仕え戦功を挙げた。長秀は政治面でも多くの業績を残し、やがて織田家中で柴田勝家に次いで重きをなした。
本能寺の変で信長が斃れると長秀は豊臣秀吉に接近した。その結果秀吉から若狭・越前で120万石の所領を与えられるが、後には秀吉と距離を置くようになった。
秀吉の度々の催促にも上洛せず、天正13年(1585年)に51歳で死去した。

長秀の跡を継いだ長重は秀吉から徹底的に嫌われた。
秀吉にすれば自身の権威の確保のためには、信長時代の重臣の名門大名である丹羽氏を牽制する必要があった。
長重はその犠牲になり、父の遺領を何度も減封されついには加賀4万石にまで落とされた。その後、加賀小松で12万5千石にまで回復するが、関ヶ原での対応を誤り東軍の前田氏を領内通過の際に攻撃して家康の怒りを買い戦後に領地を没収された。

長重は謹慎してひたすら恭順の意を示し、慶長8年(1603年)11月許されて常陸古渡に1万石を新たに与えられ、大坂の陣にも出陣。
元和5年(1619年)に1万石、元和8年(1622年)にも3万石を加増され陸奥棚倉城主となった。ここで家康は棚倉城の新造を命じる。
丹羽氏にしてみれば、ここまでの苦労を水の泡にするわけにはいかず幕命にに従い棚倉城と城下を完成させた。

すると今度は、寛永4年(1627年)に陸奥白河10万石に転封となり、白河小峰城の大修築を命じられる。
小峰城の大修築は寛永9年(1632年)に完成させたほか、城下町の整備を行った。現在の白河の基礎はこのときの作られたといわれる。
寛永14年(1637年)に長重が死去、跡を嫡子光重が継いだ。寛永20年(1643年)5月会津の加藤家が騒動により改易され、加藤家の領地であった二本松も幕府に収公された。
光重は幕命で会津接収に向かったが、会津から江戸に呼び戻され二本松への転封を告げられたという。

初期の二本松藩政

丹羽氏は長秀時代から累積された財宝が多くあり、常陸から棚倉に移る際もその財宝を積んだ荷駄が長蛇の列を成したという。
徳川家が棚倉城、白河小峰城の築城を命じたのも、この丹羽氏の財宝を費消させるのが目的であったといわれ、丹羽氏はそのほかにも江戸城普請や日光廟造営などの公役を割り当てられた。
二本松に入部した丹羽光重に対し幕府は二本松城の修築を強いた。さすがに丹羽氏が長年にわたって蓄えた財宝も底をつき、二本松城は天守もなく城中には土居や板張も多かった。
丹羽氏は二本松に入ったときから、既に財政難に見舞われていたのである。

二本松藩の領地は安達郡69ヶ村約7万1千百石余り、安積郡41ヶ村約3万2千6百石余り、合計約11万6千6百石余りであったという。
安達郡を渋川・杉田・玉ノ井・本宮・小浜・針道・糠沢の七組に、安積郡は郡山・大槻・片平の3組に分け代官による支配を行った。
地代官と呼ばれる代官は二本松城下で執務し、達代官が現地に赴任したが全ての組に代官所があったわけではなく、例えば安積郡の郡山・大槻・片平の三代官所は全て郡山に置かれていた。

入部初期から財政難であり、貧窮に瀕していた二本松藩では、重臣丹羽庄兵衛だけが5千石の知行地を持ち、ほかは全て知行地を持たない俸禄制であった。
丹羽庄兵衛の知行地も名目だけのもので、実際はその管理を藩で行っていて実質的には俸禄制となんら変わりはなかったようである。
初期の二本松藩は財政を持ち直させるために、積極的に新田を開発し、その成果は着実に実り暫くは安定し財政的にも余裕ができた。
二本松藩二代長次の代には延宝・天和・貞享年間の凶作を乗り切ることが出来たほどだった。

財政逼迫と藩政改革

しかし、これといった特産品もなく米作だけに単一農業地帯では、天災等の影響を受けやすく凶作が襲うと農民は疲弊していった。
さらに四代秀延のころには幕府による日光本坊造営手伝い、江戸城修理手伝い、朝鮮通信使接待役などのほか宝永5年(1708年)の江戸屋敷の焼失などで出費が嵩んだ。
安定していた財政もたちまち底をつき、藩では凶作の対策をするにも金がなく、江戸や大坂の商人にも相手にされず、仕方なく御用金や運上金の名目で領内から調達した。

これは自然と農民の生産力を奪う結果となり、そのために収穫量は減り、さらに藩は借金を重ね、またそれが農民を疲弊させるという悪循環に陥った。
家臣に対しても早い時期から俸禄米の強制的な借上げが行われ、倹約令がさかんに出され、やがてそれは士風の退廃に繋がっていった。
藩士の間に汚職・博打・遊芸・刃傷などが絶えず、藩士の中には自分の名前すら書けないものが数多くいたという。

二本松藩四代秀延には子がなく、五代高寛は一族から養子に入った。高寛は藩財政の逼迫と士風の退廃を見て改革の必要を感じていた。
家老の丹羽忠亮もまた改革の必要を認めていたので、忠亮は親しかった幕府の儒学者桂山彩厳の推挙で岩井田昨非を召抱え改革の責任者に据えた。
昨非の改革は軍制、教育、農政、税制など藩政全般にわたる広範囲なもので、藩主高寛、家老忠亮の後ろ盾により、重臣や家臣の反対をものともせずに、半ば強引に行われた。

改革の失敗、そして再改革

しかし改革には肝心な経済振興策がなかったために農民の負担は増え、家臣の既得権は侵され、さらに後ろ盾であった家老丹羽忠亮が死去したために反対派の声が次第に大きくなっていった。
藩主高寛も熱意を失い隠居し、家督を高庸に譲った。高庸も最初は昨非とともに改革を進めたが、領民や家臣の批判の高まりを知り、加えて寛延2年(1749年)に東北全域を襲った凶作によ一揆が勃発し、ついに昨非を罷免し責任者として勘定奉行諸田兵四郎を閉門追放とした。
これにより藩政改革は失敗したが、実際には改革により新設された税や諸制度はそのままで農民の負担は改革前よりは重くなった。
一揆は説得され鎮圧されたが、農民は返って一揆前より重い負担を背負うことになり、一揆の厳しい処分と合わせ農村の疲弊は進み、これ以降一揆を起こす力すらなくなっていった。

藩主高庸は改革の失敗の反動で保守派の家臣を登用し、昨非討つべしと叫ぶだけで、何の対案もない家臣が重用された。
このような中でも幕府の課役は相次ぎ、主なものだけでも享保15年(1730年)の日光廟修理、延享年間の美濃伊勢での治水工事、宝暦13年(1763年)の芝増上寺修理、安永4年(1775年)の甲斐国での治水工事などがあった。
さらに高庸の跡を継いだ長貴の明和4年(1767年)には二本松城下に大火があり、藩財政の困窮化に拍車をかけた。

天明年間には長雨や冷害、旱魃などの天候不順による凶作が続き、飢饉となった。このため藩内でも多くの餓死者が出た。
このため長貴は、家老成田頼綏を用い藩政改革を行い、農村人口の増加策を実施、城下郊外に窮民救済所を設けた。さらに長寿の領民を表彰した。
しかし、改革に抵抗する重臣らの抵抗にあい、重臣依包源兵衛は長貴を諌めて「お家の為」として刺殺したとある。
刺殺が本当かどうかは別として、そのくらい抵抗が激しかったのだろう。

藩政改革は長貴の跡の長祥、長富の代にも継続され農村振興、文武奨励、特産品の生産などが行われた。
この時に二本松万古焼、川崎の紙、平石の畳、大平串柿などの特産品が生まれた。また、養蚕業のほか馬市や糸市なども開かれるようになった。
長富の代には藩校敬学館を開設し文武を奨励した。しかし藩財政は既に破綻しており、改革をしても一向に好転しなかった。

二本松藩の終焉

藩主長富も情熱を失い、ついには二本松城下に遊女町や芝居町を作り歓楽街にして、藩収入に当てた。
武士道の退廃著しく、正論を言えば謹慎、追放、投獄などを命じられ、賄賂が公然と行われるようになった。
このような状態で二本松藩は幕末を迎えた。勤皇か佐幕かで世の各藩が揺れるなかにあって、財政破綻した二本松藩は動こうにも動けない状態であった。
人材もなくおろおろとするばかりで、日和見に終始していた。

しかし奥羽越列藩同盟が結成されると、発言すらできないほど疲弊した二本松藩も周囲の大勢に引きずられ同盟諸藩とともに幕府側に立った。
とはいえ戦費など一銭もなく、重臣たちが藩内を走りまわって強制的に戦費を調達、城内の武器庫より関ヶ原当時の武器を引っ張り出して出兵した。
洋式装備の官軍に敵うわけがなく、二本松藩は各地で負け続ける。官軍が二本松に迫った頃には、城下には兵はことごとくいなくなり、元服前の少年隊が編成され官軍にあたった。
少年隊は一人一刺を実行し、その全員が討たれた。この結果官軍は作戦変更まで余儀なくされた。その少年隊の人数は30名前後というだけで、正確にはわかっていない。

二本松城は落ち藩主長国は隠居謹慎となり、跡を継いだ最後の藩主長裕はわずか10歳。兵もなく金もなく城下は戦いで荒廃し、廃藩置県の頃にはすでに藩の態をなしていなかった。

参考文献:江戸三百藩主人名事典(新人物往来社)、新編物語藩史(新人物往来社)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ
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