歴史の勉強

弘前藩

藩主 在任 石高(万石) 特記
津軽為信 〜慶長12.12
〜1607
4.7  
津軽信枚 慶長16.5〜寛永8.1
1611〜1631
4.7  
津軽信義 寛永8.3〜明暦元.11
1631〜1655
4.7  
津軽信政 明暦2.2〜宝永7.10
1656〜1710
4.7  
津軽信寿 宝永7.12〜享保16.5
1710〜1731
4.7  
津軽信著 享保16.5〜延享元.5
1731〜1744
4.7  
津軽信寧 延享元.8〜天明4.1
1744〜1784
4.7  
津軽信明 天明4.2〜寛政3.6
1784〜1791
4.7  
津軽寧親 寛政3.8〜文政8.4
1791〜1825
4.7→10.0 高直り
津軽信順 文政8.4〜天保10.5
1825〜1839
10.0  
津軽順承 天保10.5〜安政6.2
1839〜1859
10.0  
津軽承昭 安政6.2〜
1859〜
10.0  

弘前藩は津軽藩とも呼ばれ、藩主である津軽氏が支配する本州最北端に位置する外様の藩である。
初代為信のときに、それまでの居城堀越城から、高岡と呼ばれた地に築城を開始し、二代信枚の時にこれが完成して高岡に城地を移した。
この高岡が弘前と名を改めるのは、寛永5年(1628年)8月のことであるが、初代為信の頃より弘前藩と通称される。

津軽氏の出自と為信の活躍

津軽氏については、津軽氏側の主張によれば奥州藤原氏を祖とし、後に南部氏の一族久慈南部氏の被官となり、光信のときに津軽鼻和郡に土地を与えられて大浦氏を名乗る。
その頃津軽に下向した近衛尚道に光信の長女阿久が近侍して政信を生み、守信、為信と継承したとする。従って藤原氏であり、近衛家の親戚であるとする。
一方、南部氏の主張では久慈南部氏に生まれた為信が大浦氏の養子に入り、やがて大浦家を継ぎ、その後南部氏に反抗し津軽氏として勝手に独立したとする。
現在では津軽氏の説は創作とされ、久慈南部氏の出であることは間違いないとされる。

為信が大浦氏を継いだころに、南部宗家に御家騒動が起きた。24代晴政とその従弟の信直の争いである。
このときに為信は久慈一族や九戸一族とともに晴政側についた。晴政も為信に「津軽斬り取り次第」という指示を与えたとされ、為信は信直の実父である石川城主石川高信を攻めて自害させてしまう。
ところが南部家の騒動は晴政とその子晴継が相次いで死去し、信直が南部宗家を相続することとなった。

これにより為信は信直の敵となり、津軽一統に向け行動せざるを得なくなった。為信は、父の仇敵として侵攻してきた信直を迎えて対峙するが、南部領内で九戸政実(実親兄)が蜂起したために、南部側が戦線を離脱し、結局戦いは行なわれなかった。
その後天正2年(1574年)大光寺城に南部家城代滝本播磨守重行を攻め、苦戦の後に翌天正3年これを落す。
天正6年(1578年)浪岡御所と呼ばれていた北畠顕村を攻めて自害に追い込む。
天正13年(1585年)に油川城を攻略、これにより外が浜一帯を制圧する。油川城は現在の青森市で、青森市周辺はこれによって為信の版図となったわけである。

一方この天正13年、南部側は浅瀬石城を攻撃してきたが、浅瀬石城主千徳大和守の奮戦によってこれを撃退する。さらにこの年為信は田舎館城を落す。
天正16年(1588年)6月に飯詰高楯城を攻略、これによってほぼ津軽一統は完了した。
為信は政治感覚にも優れ、この間中央にも目を向けており、中央政権であった豊臣秀吉にコンタクトを取っていた。
家臣を派遣して名馬や鷹を献上し、比較的早くに秀吉に拝謁し、津軽三郡、合浦一円の所領を安堵された。

津軽氏の近世大名化

津軽一円を安堵された為信は、近世大名化への脱皮をすることとなるが、南部氏は秀吉に対して為信を逆徒として喧伝、一度は為信は豊臣秀吉によって征伐の対象とされたほどである。
しかし津軽氏の巻き返しによって、奥州仕置きにより為信による津軽支配が名実ともに公認された。だが、これにより南部氏と津軽氏は仇敵となり江戸期を通じて、その仲の悪さは有名であった。

奥州仕置きに続いて総検地が実施され、津軽氏の所領は4万5千石(うち領地高3万石、太閤蔵入地1万5千石)となった。
一方で天正19年(1591年)に南部領内で発生した九戸政実の乱の際には、出陣命令が出され、中央政権下に組み込まれた大名の義務の履行をさっそくに求められている。
また、その後の起きた文禄の役では肥前名護屋に出陣している。

慶長5年(1600年)の関ヶ原役における津軽氏の動きは、よくわかっていない。津軽氏の官選史書「津軽一統志」では為信自ら出陣して大垣城を攻めたとしているが、諸事実からこれも創作とされている。
一方「関ヶ原合戦絵図」の家康本陣に津軽家の卍の幟が描かれていることや、石田三成と関係が深かったことなどから、現在では為信は戦闘には不参加で、長男信建は西軍につき大坂城にあり、三男信枚が少数の家臣とともに家康本陣にあったとする説が有力である。
これは、三男信枚のみが役後の叙任に与ったことからも、信枚が家康の本陣にいたことは確かであろう。
ちなみ奥羽の諸大名は会津の上杉包囲陣に加わり、関ヶ原本戦には参加していないが、津軽氏は上杉包囲陣には加わっていなかった。

関ヶ原で津軽氏が明示的に東軍に付かなかったのは、石田三成との関係が深かったためでもあるとされる。為信が秀吉への接近を模索していた際に、田舎大名を秀吉に取り持ったのは三成であった。
文禄の役の際に名護屋に滞陣した為信を、南部氏と関係の深かった前田氏を始め多くの武将が鼻にも掛けなかったが、三成だけは丁重に接したという。
このこともあって為信は三成に近いとされ、関ヶ原でも家康は警戒していたとも考えられるが、所詮北辺の小大名であって、あまりアテにはされていなかったというのが真相であろう。
いずれにせよ関ヶ原役後上野国において2千石の加増を賜った。

為信の死と家督争い

本領を安堵された津軽氏は、関ヶ原後はひたすら藩政の充実を目指す。その一環として為信は、堀越城から高岡の地に新たに城を築き、藩政の中心とすることとした。
幕府の許可を受けて、町割りを開始したが、為信の代では町割りだけで終わり、城の完成を見たのは次の信枚の代であった。
関ヶ原後の為信には往年の覇気が見られず、体調もすぐれなかったようで、さしたる業績も無いまま慶長12年(1607年)を迎える。

この年京都で隠棲していた長男信建の危篤の報に接し、三男の信枚とともに上洛した為信は、11月10日に京都に入った。
しかし既に信建は10月に没しており、体調不良を押して上洛した為信はこの事態に接して自身も床につき、翌12月5日58歳の生涯を閉じた。
為信の死去を受けて信枚が家督を継いだが、すんなりと家督が決まったわけではなかった。
為信長男信建の子大熊を正統な後継であるとする訴状が幕府に提出され、御家騒動が発生した。

訴状の主旨は、信枚は「我儘で惣領の筋目を違え、庶子の国になってしまう」というもので、大熊の義叔父津軽建広(もと後北条氏家臣で、為信二女富姫の婿)や信建に仕えた重臣が、その背後についていた。
幕府の裁定は、信枚の関ヶ原参陣などが理由となって、信枚勝訴となり信枚の家督が認められた。

信枚はじめ信枚派の重臣たちはこれにより大熊を支持した一派を徹底的に弾圧している。津軽建広は追放され、その後江戸城の典医となった。ちなみにその家系は幕末まで続いている。
また建広の居城であった大光城では、その家臣が城の引渡しを拒否して抵抗し、全員が討ち死にした。
大熊のその後については諸説あり、肥後の加藤家に仕えたが病弱で元和8年(1622年)23歳で病没したとも、元和元年(1615年)16歳で病死したとも伝えられるが、いずれにしろ若くして死去したようである。

信枚の時代

治世初期の相続争いを乗り越えた信枚は、先代為信時代からの高岡築城に力を注ぐ。為信在世中はまだ、町割りに留まっていて、信枚にそれが引き継がれ、慶長14年(1609年)に幕府から正式許可が下されると本格的な普請にかかっている。
五層の天守がある4万7千石の小藩にすれば、破格の規模の城であったが、幕府も北辺警備の面から築城を許したとされる。
驚くべき早さで工事が進められ、慶長16年(1611年)正月に町割りがなり、町人たちが移住をはじめ、同年5月には城も完成して信枚や重臣たちも移ってきた。なお、高岡が弘前と名を改めるのは、寛永5年(1628年)8月のことである。

信枚の時代にはそのほか、青森港の築港が行なわれた。これまでは、日本海に面した鯵ヶ沢、深浦、十三などが海上輸送の拠点であったが、陸奥湾最奥部の善知鳥村に青森港を築き、松前との貿易の拠点としたほか、太平洋廻りで江戸と直接結ぶ航路を開設した。
さらに新田開発、用水の整備、植林にも積極的に取り組み、藩政の基礎固めを行なっている。

信枚の正室は徳川家康の養女満天姫であった。満天姫は家康の異父弟松平(久松)康元の四女で、慶長元年(1596年)8歳のとき家康の養女となる。その後福島正則の養嗣子正之に嫁いだが離縁し、信枚に再嫁した。
一方、信枚には慶長15年(1610年)の末に辰姫が北政所の養女となって嫁いでいた。この辰姫は石田三成の三女であり、これを知った家康が津軽氏を牽制する意味で満天姫を半ば強引に輿入れさせたものであろう。
やがて辰姫に子が生まれる。この子は平蔵と名付けられ、のちに信枚を継ぎ三代藩主信義となるのだが、満天姫は辰姫を快く思わず、これがために信枚は満天姫を必死で説得して、一命に関わる難行である百日潔斎の業までして、ついに平蔵の嗣を認めさせた。

信枚時代には、福島家がらみでもう一つ騒動があった。元和5年(1619年)に安芸広島城主だった福島正則が、広島城の無断修築を咎められて改易となった。
福島氏を津軽に移し、信枚を信濃川中島10万石に移封させる予定で、幕府から内示が下された。
幕府の命は絶対であり、江戸にいた信枚は国元に対し13ヶ条からなる詳細な指図書を送った。さらに転封に要する費用も秋田の佐竹氏から借りる手筈を整えたが、転封自体が中止となり、福島氏の川中島4万5千石への転封だけとなった。
津軽家では転封の中止は満天姫の力によるものとしているが、実際はそのような事実はなかったようで幕府の何らかの都合で中止となったようである。
藩政初期の基礎固めを着実に行なった信枚は、寛永8年(1631年)正月14日、48歳で江戸にて死去し、先に嗣子となった平蔵が信義と名乗り三代藩主となる。

二つの御家騒動

信義の世は先代信枚同様に藩政の基礎を固め、より強固にしていく時期であった。
水害の元凶とされた十三湖の水戸口の付け替え、尾太鉱山の開発、新田開発が信義の業績としてあげられる。
尾太鉱山ではかなりの銀が産出し、藩財政に寄与した。また新田開発は6万石に及び、弘前藩の実高は10万石を越えた。
一方で信義の時代には船橋騒動と正保のお家騒動という騒動が続けて起きている。

船橋騒動とは江戸時代初期に他藩でも見られた譜代家臣と外様家臣の対立が、やがて家中を二分する争いに発展したものである。
外様の家臣の船橋半左衛門長真は宇喜多家の家臣であったが、関ヶ原で宇喜多家が改易されると流浪の身となった。
津軽に来たときに先代信枚に見出され江戸詰めの家臣となり、関ヶ原後の元和5年(1619年)に半左衛門の妻が信義の乳母として津軽家に入ったのが縁で信義の傅役になった。

信義はその頃母辰姫とともに不遇を囲っていた。家康の養女で信義正室となった満天姫に睨まれていたのだ。
先代信枚の必死の説得でやがて信義が信枚の嗣子となり、信義が家督を継ぐと俄然半左衛門の立場が強くなった。半左衛門は増長し驕慢となり譜代衆の不興を買った。
それでも国家老服部長門がいるうちは、それを抑えていたが、長門が死去すると譜代家臣と船橋一派の対立が激しくなり、譜代家臣たちは幕府に津軽家立ち退きを訴えでた。

幕府では信義も含めて喚問し、その結果信義は幼少でもあり態度も神妙につきお構いなし、譜代側の兼平伊豆や乳井美作は萩の毛利家に船橋半左衛門は伊予松山の松平家に預けられた。
津軽側記録では船橋半左衛門とその一派を一方的に悪者としているが、津軽はジョッパリと呼ばれる頑固者が多い地で、家中も保守的でありそこに殿様側近として他国ものに乗り込まれ、唯でさえ面白くないのに、この半左衛門というのが主君一途のやかまし屋であったらしく、それが譜代衆の反感を買ったというのが事の真相らしい。
船橋騒動の決着がついたのが寛永13年(1636年)であり、その約10年後の正保4年(1647年)に正保の変と呼ばれるお家騒動が起きる。

信義を隠居させ、その次弟信英を藩主にしようと信義四弟信光、五弟為盛、七弟大道寺為久、家老北村宗容、妹婿富岡武兵衛らが謀議を図ったとされるものであるが、謀議そのものは成立しなかったらしい。
話に加わった北村宗容が信義に報告してことが露見し、大騒動は未然に防止されたが、信義は直ちに藩内の関係者を処分した。信光を流罪、為盛を閉門としいずれも後に切腹。
為久は流罪となったがのちに許され、富岡武兵衛は流罪の後に切腹となった。津軽家はこの二つの騒動で、家臣が動揺し暇を取る家臣も多く、一時は弘前城の警備にも事欠くほどであったという。
これらの心労もあったのか信義は明暦元年(1655年)11月25日37歳で江戸において死去している。

名君信政

津軽氏四代信政は名君といわれている。信政は、正保3年(1646年)に先代信義の長子として生まれ明暦2年(1656年)信義の死去により、わずか11歳で封を継いだ。
若年のために旗本であった叔父津軽信英(信義弟)が後見となった。信英は津軽領内に5千石を与えられ、これがのちに支藩である黒石藩となる。
この信英は後見6年目にあたる寛文2年(1662年)9月22日の死去し、以後は信政が藩主として藩政にあたることとなる。

信政の代は、先々代信枚、先代信義時代に基礎固めが行われた藩政を、さらに発展させていった時期にあたる。そのためにまず法令を整備し、支配体制の確立に努めた。
具体的には藩の役職の体系化を定めた「御用人支配役職申達」、続いて各役職の役割を定めた「家老ほか役務方に関する覚書」、そしてそれらを補完する諸法令を整備していった。
続いて寛文元年(1661年)には孝子・節婦の奨励、不孝・不貞の罰則、藩士に対する文武の勧め、訴訟手続き、徒党の禁止、日常の質素倹約、五人組制度の確立などを盛り込んだ法度を制定し支配体制強化と秩序の維持に努めている。

さらに信政の代には新田開発が盛んに行なわれた。この時期には従来から地域の有力者によって行なわれた新田開発のほか、藩の直営による開発も行なわれ、「お蔵派立」と称された。
お蔵派立によって五所川原新田、広須新田、金木新田、俵元新田などが開発された。その結果、元禄7年(1694年)には弘前藩の内高は約30万石に達した。
新田開発に並行して用水や植林作業の同時に行なわれている。新田開発のほかに養蚕、機織り、陶器製造など殖産振興も行なわれ、中でも名高いのが高級漆器津軽塗りである。
また米作のほかに果実、香辛料、薬用人参などの領内生産を勧め、藩営牧場を作って牛馬を飼育して、領内数ヶ所に馬市を開いた。

一方で信政治世の後半、元禄8年(1695年)に大飢饉が発生している。この年は春先から天候不順が続き、凶作となることが充分予想されていたにもかかわらず、重臣たちは前年産米を輸出してしまった。
しかし、予想されたとおりに飢饉となり、米価は高騰したうえ商人に買い占められ、為に領内の治安は悪化し、餓死者は10万人に及んだとされる。
藩では遅ればせながら米の輸出禁止と他藩からの米買入れ交渉を始めたが、すでに米のほとんどは輸出してしまい、他藩でも飢饉に苦しんでいて交渉も思うに任せなかった。
明らかに失政であるが、信政は積極的な対策を施せず、それにより財政は悪化し家臣の俸禄の半減と藩士の大量解雇によって乗り切るしか策はなかった。

シャクシャインの乱と那須騒動

元禄の大飢饉より前の寛文年間に蝦夷地においてシャクシャインの乱が起きた。
蝦夷地のアイヌはそのころオニヒシとシャクシャインという2人の酋長に率いられた勢力があった。
もともと2つの勢力は抗争を繰り返していたが、寛文8年(1668年)にシャクシャイン一党がオニヒシを暗殺したことから、両者の対立は激化した。
さらにオニヒシの息子のウトウがオニヒシの敵を打つ為に松前藩に援助を求めたために、シャクシャイン一党は和人全部を敵として闘争を開始した。

暴動は日ごとに勢いを増し、松前藩だけでは手に負えず、弘前藩にも援助要請が来た。津軽家では杉山八兵衛を大将として総勢7百人余りを松前に派遣したが、結局弘前藩は先頭には出ず、松前藩だけで決着を見た。
結局シャクシャインは降伏し、獄門にかけられた。乱は治まったものの幕府の受けた衝撃は大きく、北辺警備に対して不安を起こした。のちに幕末期の弘前藩は、北辺警備の一翼を担わされることになる。

また貞享年間には那須家のお家騒動に巻き込まれ、信政は閉門蟄居の処分を受けている。下野国烏山藩主那須資弥のもとに、信政の子政直を養子にして那須資徳と名乗らせ、那須家の嗣子とした。
ところが資弥には昔女中に手をつけて産ませた資寛という子がいて、資弥は那須家を継ぐと資寛を烏山に呼び寄せ福原姓を与えて重臣として処遇した。
那須資弥が死去した後、資徳が那須家の家督を継いだが、資寛が異議を挟み結局幕府の裁定に持ち込まれた。裁定の結果は那須家は改易、資徳の実家の津軽家も閉門蟄居を申し渡された。

元禄元年(1688年)に神田小川町にあった上屋敷が、隅田川を越えた本所二つ目に移転を命じられた。同時に中屋敷、下屋敷も本所に移されている。
当時の本所は湿地帯で地盤が悪く、江戸城までの距離も遠かった。これも那須家のお家騒動と無関係ではないと思われる。
信政の治世は54年にも及び、その間藩政の発展に寄与したことは間違いなかったが、シャクシャインの乱や烏山藩のお家騒動など予期せぬ出来事にも巻き込まれ、さらに元禄の大飢饉への対処の失敗など負の部分も見られる。
しかし歴代藩主の中でも名君であり、中興の英主として称えられ今でも尊敬を受けている。その信政は宝永7年(1710年)10月18日弘前城において65歳で急逝し、跡を二男の信寿が襲う。

停滞の時代

名君と言われた信政の跡を受けた五代信寿と六代信著の時代は停滞の時代であった。
五代信寿が襲封したころの弘前藩は、元禄の大飢饉以降に続いた天災と江戸における交際費の増大により財政難に陥っていた。
このために家臣の俸禄を蔵米制から知行制に切り替えて凶作のリスクを藩士に転嫁し、さらに正徳4年(1714年)には倹約令を発布し、さらに俸禄の一割カットと年貢の増率を実施、翌正徳5年には家臣を大量に召し放っている。領内の豪商、豪農には御用金や御用米を命じてもいる。

この状況にありながら、信寿は藩政には無関心であり、初入部の際にも華美な行列を組んでお国入りし、初入部の祝の宴も8日間も続けて行なった。
さらに領内の大鰐や浅虫などの温泉めぐりや別荘での酒宴、江戸に出府中は家臣を引き連れての吉原通いを行なった。
侫臣が跋扈し、特に佐藤著恒は信寿に取り入り、自身の屋敷地に池を作って隅田川に直結し、舟を入れて信寿とともに吉原に通ったという。

信寿の吉原通いの遊興費のため借金が増えると、佐藤は弘前に帰り豪農や豪商に御用金を割り当てて借金返済に充てた。
遊び好きの信寿のこれら一連の行動が幕閣に聞こえ、やがて将軍吉宗の耳にも入る。当然吉宗の不興を買い、享保16年(1731年)5月16日に信寿は隠居した。
表向きは老齢によるとなっているが、実際は吉宗の勘気を受けたものである。信寿には嫡子信興がいたが早世したために、嫡孫信著が家督を継いだが幼少の為に信寿が後見し、浪費生活も続くことになった。

六代信著の代になると享保17年(1732年)に大地震、翌享保18年に疫病の大流行、享保19年(1734年)には弘前城下の大火と岩木川の氾濫、元文4年(1739年)には有珠山の爆発による影響で地震が頻発し、元文5年には大凶作と災害が連続し、さらに財政悪化に拍車をかけた。
信著の治世当初は父信寿の後見を受け、実質的には先代時代のままの体制だったが、享保18年(1733年)ころから重臣たちを徐々に入れ替え元文2年(1732年)には信寿の寵臣であった佐藤著恒を解任した。
財政悪化に対しては借米の実施や倹約令、豪商豪農への御用金の割り当てなど消極的な対策で凌いでいった。
信著は延享元年(1744年)5月25日にわずか26歳で死去、その政治はわずか13年であった。

乳井貢の藩政改革

信著の跡を襲ったのは、その長子信寧であったが、信寧もまた政務には無関心の暗君でった。
しかも信寧の代には飢饉が多く、大飢饉といわれるものだけでも、寛文2年(1749年)、宝暦5年(1755年)、天明3年(1783年)の3回発生していて、寛文と天明の大飢饉では多くの餓死者を出している。
しかし宝暦の大飢饉では一人の餓死者も出さなかった。これは勘定奉行乳井建富(乳井貢)を中心とする宝暦の改革の成果が現れたためであった。

この改革では藩士からの借米三分の一のカット、豪商豪農への御用金の賦課、財政改革への権力の集中、役人に対する綱紀の粛正などを柱にしたもので反発や弊害はあったものの一応の成功を見た。
信寧は宝暦の飢饉で餓死者が一人も出なかったことを喜び、帰国した際に乳井に「いく年も四季の間絶えぬ貢かな」という句を与え、これを賞した。乳井が貢と名乗るのはこのときからである。
宝暦の大凶作はなんとか乗り切れたものの、改革によって得られた成果はほとんどが消し飛んでしまった。しかし乳井は功績によって出世し、政務に関心のない信寧の寵を一身に集める。

この後乳井の採った路線は、標符(藩札と物品通帳の中間的なもの)を発行し、徳政令である賃借無差別令を発する。さらに藩士、領民を問わず金銀財物を挑発して、藩御用商人の蔵に収めさせた。
御用商人と組んだこれらの政策はやがて破綻をきたし、不正標符が出回り標符の信用は低下し、藩内の経済は大混乱した。
信寧に諫言する家臣もいたが信寧はまったく聞かず、見かねた津軽家の裏菩提寺長福山耕春院の覚源和尚が信寧の叔母に当たる英姫の夫松平(奥平)忠恒に藩内の窮状を訴え、忠恒は直ちに信寧に改善を迫った。

驚いた信寧は乳井貢を設問したが、乳井は責任を御用商人に転嫁して、それら商人を処罰したが、混乱の責は回避しきれずやがて失脚し蟄居を命ぜられる。
乳井はこののち安永7年(1778年)再び勘定奉行に復帰し汚名挽回を図るが、重臣や商人に支持を得られず再び失脚する。
政務に無関心であった信寧は、そのために政治も経済も大混乱する中の天明4年(1784年)正月2日、46歳で死去した。

中興の祖、八代信明

停滞の時代と乳井貢による改革の失敗で疲弊した弘前藩の藩主となったのは、不世出の名君といわれた信明であった。
信明襲封時、藩内は天明の大飢饉の窮状から領民は減り、領内には荒田が広がり、藩財政もどん底であった。
信明は窮民救済のために幕府から1万両を借り受け、さらに用人津軽多膳を上方に派遣して上方商人からの借入れに成功した。

続いて種籾を秋田藩から輸入し、豪農14名を督励役として名字帯刀を許して武士の処遇とし、荒田の復興に乗り出している。
さらに領内に疫病が発生すると医師を巡回させて薬剤を無料で配布し、疫病の流行で死者は多かったものの、領民は信明の行為に心打たれ農作業に専心したという。
信明は初入部の際も駕籠は使わず馬に乗り、供揃いもわずか数十人でひっそいりとお国入りし、直ちに領内の死者を弔い、失政者を処罰した。

次いで節約令を発布して自らも質素にし、藩士の禄高の三分の一をカットした。これらにより徐々に窮乏からは回復していったが、冷害や旱魃が続き思うような回復はできなかった。
寛政2年(1790年)にようやく豊作となり、領民は飢饉から解放された。このとき信明は飢饉に備えて藩営の備荒倉を設置している。
その翌年、名君として名高い信明は体調不良のまま参勤交代のために出府したが、江戸に入って病が篤くなり、看病のかいもなく死去した。治世はわずか7年余りで、30歳の若さであった。

九代寧親襲封

信明には嗣子がなかったために、その跡は分家の黒石家から寧親が入って家督を継いだ。
寧親の治世は文政8年(1825年)に隠居するまで約35年に及んだ。治世の初期は先代信明の政策を引き継いだために、比較的順調な滑り出しで始まった。
備荒倉制度の完成させ、さらに信明時代の着想である武士土着制度を実施に移した。
武士土着制度とは大凶作とそれに伴う飢饉によって荒れた田を、城下に住する武士を在所に帰すことで復興させようとした制度で、これは他藩にはほとんど例を見ない珍しいものである。

2百石以下の中下級の武士が対象で、在所に帰ると半農半士の生活をさせることとした。
信明の時代には極めて緩やかな形で行われていたために大きな混乱はなかったが、寧親は大々的かつ半強制であった。対象とされた藩士のうち実行しないものがいると厳命をもって臨み、藩士たちは混乱した。
結局この制度は藩士の不満が極めて強く、さらに在所に移り住んだ藩士たちが農民を私的に使役し、勝手に役料を取るものもあって農民にも不評であり、寛政10年(1798年)土着禁止令が出されて中止された。

このために新たな荒田復興策として逃散者に対して帰国費用の負担や5年間の免税、農具や馬の無償貸与など優遇策を施すことで呼び戻し、さらには他領からの入植者を積極的に受け入れた。
入植者には生活を保証したために、東北各藩のほか関東や北越諸藩からも入植者が集まり荒田復興、新田開発に従事した。これにより天保5年(1834年)には内高は31万7千石を越えるまでになった。
しかし寧親はこのうち3万石を藩主手許金として藩財政に繰り入れず、自身で着服してしまった。

蝦夷地警備と高直り

寛政4年(1792年)ロシアの使節が漂流民を送り届けるとの名目で蝦夷地に来航、幕府も応接使を派遣したが、この警備のために弘前藩は山田勝承、都谷森正祥を大将として240名の兵を派遣している。
さらに寛政9年(1797年)になると再び幕府は蝦夷地への出兵を命じてきた。度重なる異国船の蝦夷地接近により箱館警備を命ぜられたのだ。
山田勝承を大将として295人が蝦夷地に渡り、寛政10年には棟方貞豊の軍勢と交替、翌寛政11年には三番手の軍勢と交替している。
その後は蝦夷地が幕府の直轄地となるが弘前藩は盛岡藩や松前藩とともに蝦夷地警備の公役が課され、これが幕末まで続くことになる。

これら蝦夷地警備の功績により文化2年(1805年)7万石に高直り、さらに文化5年(1808年)には10万石となった。10万石なったことにより寧親は従四位下に昇叙した。
四位となると江戸城の詰の間も大広間となり、待遇は大きく変わる。
藩主や重臣にとっては大いに満足したが、封地はそのままであり、従って収入は変わらないのに軍役などの負担だけが倍になり実益はまったくなかった。
また、文化6年(1809年)には寧親の強力な運動により分家であった黒石津軽家が4千石から1万石に高直しされて大名に昇格した。
これは大名にすれば蝦夷地警備にも役立つと考えられるとの主旨であったが、幕府の加増を受けたわけではなく、宗家から6千石を新たに給与したものであった。

これらがやがて盛岡藩士による寧親襲撃事件を生む。相馬大作事件である。文政3年(1820年)盛岡藩主南部利敬が39歳で死去し、跡を継いだ利用はまだ14歳で無位無官であった。
南部家と仲が悪い寧親は従四位下で侍従であった。これに憤った南部家家臣下斗米秀之進らは寧親に隠居を進める手紙を送り、無視されると参勤交代の途中を襲い寧親を暗殺しようとした。
秋田領白沢(大館付近)で狙撃しようと待ち伏せたが、密告されて失敗に終わる。密告を受けた寧親の行列は白沢を経由せず、大回りして大間越経由で帰国したのである。
暗殺に失敗した秀之進は相馬大作と名を変えて江戸に出て道場を開いたが、幕吏に捕縛され獄門に処せられた。

また、文化10年(1813年)は冷害による凶作となり、農民を中心に領民約2千名が弘前城亀甲門に押し寄せて強訴に及んだ。
藩では一揆の徴候を察知していたために対応が早く大きな騒動にはならなかったが、背景には農民や領民の鬱積した不満があったことは間違いない。
この一揆を首謀者から民次郎一揆と呼ぶが、民次郎はのちのちまで義民として人々の尊敬を集めた。
滑り出しは順調であったが、晩年になって失政が多かった寧親は、文政8年(1825年)4月に隠居し、子の信順が跡を継いだ。

信順の時代

信順は遊び好きであり、父寧親の影響もあってか派手好みであった。信順は家督を継いだ翌文政9年に御三卿筆頭の田安斉匡の女欽姫との婚礼を行った。
隠居した先代寧親の意向もあって江戸の藩邸を大増築し、婚礼も豪華であり、その費用は30万両に及んだという。
30万両とは藩内の1年間の総生産額に匹敵するとされ、そのために藩の財政はますます悪化していった。

さらにその翌年の文政10年(1827年)に十一代大将軍家斉の太政大臣宣下と世子家慶の従一位叙任の勅使を迎える大礼が江戸城で行われた。
その際に信順は轅輿に乗って登城した。轅輿の使用は四位以上の大広間詰め国持大名にのみ許される特権であり、国持大名でもない津軽家にはその資格はなかった。
事前に幕府に対し伺いを立て、否定的な回答を得ていたにもかかわらず、派手好みの隠居寧親のたっての希望で強行したのである。さすがに幕府も放っておけず逼塞処分が下され、70日間のの謹慎となった。

このような信順であったから、政治にもおよそ無関心であり、天保6年(1835年)から続いた連年の凶作で領内が困窮しても、ほとんど対策を打たず領民は疲弊した。
幕府も看過できず隠密を潜入させて領内の様子を探り、弘前藩の処分を検討し始めるが、これを知った重臣の奔走により田安斉匡が動き、信順を説得して天保10年(1839年)5月に隠居させた。

信順には女子しか子がなかったために、後嗣は分家黒石藩から順徳が入り家督を継ぎ、のちに順承と名を改めている。
順承が家督をついで3年後の天保13年(1842年)に信順は順承の廃立と自らの復権を企む。
表向きは津軽宗家の血を引かない順承を廃して血統を復活するというものであったが、裏には信順とその取巻きたちの忘れられぬ浪費生活への復帰であった。
順承のところに近衛家から信順らの動きを知らせる密書があり、謀議が発覚した。この事件でさすがに信順が処罰を受けることはなかったが、取巻きの家臣らは処分された。

幕末期の藩政

順承のころの弘前藩は、天保6年(1835年)から続いた連年の凶作で領内は荒廃し、領民は困窮していた。また先々代寧親、先代信順が派手好きであり、その浪費から莫大な借金を背負っていた。
順承は先代信順時代の重臣を更迭して人事を刷新し、風俗の矯正と質素倹約を勧めた。自らも率先して倹約に努めたほか、儀式を簡略化し藩士の減俸を実施した。
順承は津軽歴代の中でも名君の一人であり、蝦夷地への出兵沿岸警備、軍備の再構築などの軍事負担が増すなかで節約を旨とし文武を奨励し、領内の開発を行なった。

十三湖周辺の千貫崎に新田を開拓し、漆の栽培や矢竹の栽培、陶器作りなどの殖産振興にも熱心であった。
順承のこれら政策により備荒蔵には順調に米が蓄えられ、その後の凶作にもかかわらず借金は返済し備蓄金を設けるまでになった。
嘉永6年(1853年)ごろから健康を害し、安政6年(1859年)2月隠居し、弘前藩最後の藩主となる十二代承昭が襲封する。

弘前藩最後の藩主となる十二代承昭は、肥後熊本藩主細川斉護の四男として江戸で生まれ、初め護明と名乗り安政4年(1857年)に先代順承の四女常姫の娘婿となり承烈(つぐてる)と称し、のちに承昭を名乗った。
従って先代順承同様、津軽氏の血は入っていない。承昭が家督を継いだ安政6年(1859年)は幕末であり、承昭は新時代の到来を見越していたようである。

蘭学堂を城内に設け、西洋文明を吸収するように勧め、江戸藩邸内にも学問所を再建した。新田開発を先代に引き続き行い、漆や楮の栽培を督励した。
さらに承昭は工業化も勧め、西洋の技術を持って石炭や鉄鉱石の探査を行い、コークスを製造して砲台や帆船の防腐剤に利用したり、領内今泉から産した鉄鉱石で大砲や鉄砲を製造している。
軍備の近代化にも取り組み、鉄砲を中心とした軍隊に再編したほか、新式銃の購入や鉄砲の国産化も行なった。

弘前藩の終焉

幕末の弘前藩は藩論がなかなか統一できなかったが、近衛家の警備の為に文久3年(1863年)に藩士を上洛させた。元治2年(1865年)正月には承昭自ら上洛して京都御所の警備にあたっている。
慶応4年(1868年)奥羽列藩同盟に加わり、のちに奥羽越列藩同盟にも引き続き参加する。
やがて十五代将軍慶喜が謹慎し、近衛家から勤皇に決すべしとの親書が来ると、勤皇に藩論を統一し、奥羽越列藩同盟から脱退する。

明治元年(1868年)11月に朝廷から奥羽触頭に任命されて、仙台藩や盛岡藩を支配下に置き、翌明治2年5月には軍勢を松前に派遣して幕府残党を討伐している。
箱館戦争の際には青森が兵站基地となり、戦功も挙げた承昭はその功によって3年間1万石を受けた。明治2年(1869年)の版籍奉還、明治4年(1871年)の廃藩置県によって弘前藩の幕も閉じる。

見てきたように弘前藩は未開発地が多く新田開発によって表高の4倍以上の内高をあげ得たが、寒冷地のために災害に弱く、また浪費家の藩主が多かったために藩財政は常に苦しかった。
また北辺の地であるが故に蝦夷地警備の負担を負わされ、これが財政悪化に拍車を掛けた。
そのような歴史の中で四代信政、八代信明、十一代順承と要所要所に名君を輩出したことで領民が救われた感がある。

参考文献:奥羽津軽一族(新人物往来社)、日本歴史叢書・弘前藩(吉川弘文館)、新編物語藩史(新人物往来社)、東北の名族興亡史(新人物往来社)、江戸三百藩主人名事典(新人物往来社)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ
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