歴史の勉強

大垣藩

藩主 在任 石高(万石) 特記
石川康通 慶長6.2~慶長12.7
1601~1607
5.0 上総鳴渡より
石川家成 慶長12.7~慶長14.10
1607~1609
5.0  
石川忠総 慶長14.12~元和2.9
1609~1616
5.0 豊後日田へ
松平(久松)忠良 元和2.9~寛永元.5
1616~1624
5.0 下総関宿より
松平(久松)憲良 寛永元.6~寛永元.9
1624~1624
5.0 信濃小諸へ
岡部直盛 寛永元.9~寛永9.11
1624~1632
5.0 丹波福知山より
岡部宣勝 寛永9.?~寛永10.3
1632~1633
5.0 播磨龍野へ
松平(久松)定綱 寛永10.3~寛永12.7
1633~1635
6.0 山城淀より
伊勢桑名へ
戸田氏鉄 寛永12.7~慶安4.11
1635~1651
10.0 摂津尼崎より
戸田氏信 慶安4.11~寛文11.7
1651~1671
10.0  
戸田氏西 寛文11.7~貞享元.6
1671~1684
10.0  
戸田氏定 貞享元.8~享保8.4
1684~1723
10.0  
戸田氏長 享保8.4~享保20.8
1723~1735
10.0  
戸田氏英 享保20.10~明和5.4
1735~1768
10.0  
戸田氏教 明和5.6~文化3.4
1768~1806
10.0  
戸田氏庸 文化3.6~天保12.3
1806~1841
10.0  
戸田氏正 天保12.5~安政3.10
1841~1856
10.0  
戸田氏彬 安政3.10~慶応元.7
1856~1865
10.0  
戸田氏共 慶応元.10~
1865~
10.0  

美濃国安八郡大垣の地は、関ヶ原役までは織田一族、豊臣一族やその腹心の家臣が入れ替り領主となったが、関ヶ原後は譜代大名が藩主となった。
寛永元年(1624年)の戸田氏鉄が入封するまでは、石川氏三代、久松松平氏二代、岡部氏二代、久松松平氏一代と目まぐるしく藩主が変ったが、氏鉄入部後は明治まで戸田氏が11代235年にわたって在封した。

戸田氏入封までの大垣藩

東大寺領大井庄に属する大垣に城が築かれたのは、天文年間(1532~55年)のことであった。
美濃の守護であった土岐氏の家臣宮川吉左衛門尉安定の築城といわれ、その後織田信長の一族が城主となったあと、豊臣時代には氏家直元、氏家直重、池田信輝、三好(豊臣)秀次、木下秀長、加藤光泰、一柳直末、羽柴秀勝と豊臣氏の一族や腹心の武将達が相次いで城主となった。
このころから大垣城は要の城として城郭を堅固にし、一柳時代の天正16年(1588年)には天守閣も建てられた。
この枢要地大垣に羽柴秀勝の後に入ったのは伊藤祐盛であり、祐盛は天守閣を大修築したと伝えられる。

大垣城が脚光を浴びたのは、関ヶ原役における西軍の拠点となった為である。当時、大垣城主は祐盛の跡を継いだ盛宗の時代であった。
石田三成は大垣城を西軍の拠点としようとするも、最初は盛宗の拒否にあう三成は豊臣秀頼の上意と説得し、西軍の首脳が大垣城に入り決戦前夜を迎えた。
宇喜多秀家はじめ西軍の主だった将は大垣籠城を主張するが、三成は野戦を選び、決戦は大垣西方の関ヶ原で行われ、西軍の敗北となった。

大垣城の守備兵は内応などもあって、結局は開城した。城主伊藤盛宗は西軍に属して戦死したため、大垣城は収公され松平康重が城番となった。
慶長6年(1601年)2月、上総鳴渡より石川康通が、3万石加増され5万石の大垣城主となるが、慶長12年(1607年)に死去、康通の嫡男忠義が幼少であった為に康通の父家成が継ぐが、翌々年の慶長14年(1609年)10月に死没。
その跡は忠義ではなく家成の養子の忠総が継ぐ。忠総は、大久保忠隣の二男で、家康の命で家成の養子になったもので、家督を継いだのも家康の意向によるものであった。

この忠総のときに大垣城は拡張され、八幡部総堀や竹島町南総堀が作られたといわれる。しかし、忠総は慶長19年(1614年)忠隣失脚の際に連座して駿府に蟄居となる。
その後、大阪の陣が始まると赦され、冬の陣、夏の陣ともに手柄を立てて、豊後日田6万石に移封された。
石川氏と入れ替わりに下総関宿から松平(久松)忠良が5万石で入った。寛永3年(1624年)に忠良が死去して、憲良が家督を継ぐが、幼少の由をもって信濃小諸に転封となる。

大垣には丹波福知山から岡部長盛が入り5万石を領する。岡部氏は長盛の跡、宣勝が継いで、寛永10年(1634年)在封10年で播磨龍野に移る。
今度は山城淀から松平(久松)定綱が6万石で入るが、在封わずか2年余りの寛永12年(1636年)7月伊勢桑名に転封となった。この松平定綱は、忠良・憲良の松平氏とは同族で、忠良の従弟にあたる。
定綱の代の寛永11年(1635年)に上洛途中の将軍家光が大垣城を宿とし、そのとき前年の水害救済として5千両を与えたとある。

戸田氏鉄入封と初期の藩政

このように大垣の地は関ヶ原以前から領主が目まぐるしく変り、その為に領地の経営も落ち着かなかったが、寛永12年(1636年)に戸田氏鉄が摂津尼崎から10万石で入封すると、それまでの領主交代がうそのように、明治まで11代235年に渡って戸田氏が支配することとなる。
譜代中藩で、これだけの長期間領主の交代がないのは比較的珍しく、また戸田家は10万石と一貫して得ていたうえ、武功の家柄であり幕閣にも氏教が老中として参与しただけであり、あまり掛りがなかったために、環境面では安定していた。

初代氏鉄は大垣に入封すると、従来の地方知行制を俸禄制に改めた。地方知行制とは家臣の知行地が決められている制度であり、俸禄制とは給与制であるから、家臣は領主的な存在から藩に雇われる存在に変ったわけで、それは領主権が強化されることにほかならなかった。
領主権を強固にした氏鉄は、新田開発によって慶安4年(1651年)までの16年間に1万3千石の新田を得、藩財政の基盤強化に務めた。
また、大垣藩領は洪水多発地帯であり、治水事業にも力を入れた。川除普請をはじめ水門の建設などのほか、洪水防止の為に植林も手がけている。

法令面では、入封翌年の寛永13年(1637年)に「条々」「走百姓法度」「訴人仕候者褒美覚」の三法令を発布して、農業政策の柱を示している。
氏鉄は慶安4年(1651年)に隠居し、氏信が継いだ。この氏信の代に大垣藩の基本法である「定帳」が作られている。
「定帳」は家中の部、江戸の部など10部門494条30法度からなる大部で、譜代藩の法令としては最も整備されたものといわれている。

中期の藩主たち

寛文11年(1671年)氏信が隠居して、三代氏西が藩主となった。「定帳」が作成されるのは、この翌年の寛文12年(1672年)からで、氏信の隠居後の仕事として行なわれたものである。
氏西の代の延宝元年(1673年)に領内を四分して郡奉行4人に分掌させたが、7年後にはこれを多芸、今村、古宮、林、赤坂、柳瀬、池田、長瀬、根尾外山、西北山小島の十筋に区分して、各筋に代官2人づつを置く体制にして領内を支配した。
この頃から大垣藩の財政が目に見えて悪化をし始めている。

貞享元年(1684年)に氏西が没して、氏定が家督を継いだ。氏定は元禄元年(1688年)に弟氏成に新田3千石を分知し、氏成は養父氏利の知行を合わせて万石に達し大名となり、支藩として大垣新田藩が立藩された。
元禄14年(1701年)3月浅野内匠頭長矩が、所謂元禄赤穂事件が起こすと、長矩の従弟であった氏定は出仕を停められたが、5月には赦免されている。
享保8年(1723年)に氏定は隠居し、氏長が跡を継いだ。氏長は、文教の振興に熱心であり、そのほか享保12年(1727年)に釜笛村に焔硝蔵を新設して軍事強化を図った。

享保20年(1735年)に氏長が死去し、六代藩主氏英が襲封する。氏英は延享4年(1747年)に延享の永御暇といわれる、家臣の人員整理を中心とする藩政改革を行い、明和5年(1768年)に没した。
氏英には嗣子がなかった為に、明和3年(1766年)に館林城主松平(越智)武元の二男を養子としていた。これが七代藩主氏教である。
氏教の代の安永2年(1773年)に起きた飛騨騒動に幕命で出兵して、騒動を鎮圧して賞せられている。また天明4年(1784年)には、揖斐川通鵜森伏越樋が完成している。
文化3年(1806年)に氏教が没し、子の氏庸が藩主となった。氏庸は大垣城天守閣を修理し、天保8年(1837年)には藩校致道館(のち敬教堂と改称)を設立して、天保12年(1841年)に死去した。

大垣藩の財政と藩政改革

大垣藩の財政難は、氏鉄入封のころから始まっていたといわれる。氏鉄入封の翌々年の寛永14年(1637年)に島原の乱が起き、氏鉄は老中松平信綱とともに出陣している。
戸田家は武功の家であり幕府の期待も大きく、それに応えるべく氏鉄も活躍をして、乱を鎮圧することはできたが、莫大な軍費を費消した。
さらに慶安3年(1650年)の大洪水が財政難に拍車をかけた。そして三代氏西の代の延宝8年(1680年)に延宝の大暇といわれる家臣の整理を行った。
このときに整理された家臣は、国許、江戸詰合わせて176人にのぼったといわれる。また、この年には藩札が発行され、翌天和元年には半知借上げが行われている。

次の氏定の代の元禄15年(1702年)には、藩政改革が行われて執権役、城代、郡奉行など諸役の大幅な世代交代を図っている。
六代氏英のときの延享4年(1747年)には延享の永御暇といわれる、家臣の人員整理が行われ、この時には177人が整理されている。
しかし財政の悪化は止まらず、明和3年(1766年)には年貢増微に端を発した農民一揆が発生している。

次の七代氏教の代には飛騨騒動の出費や江戸藩邸の焼失、将軍家治の日光社参警備などの臨時出費もあり、財政はさらに悪化した。
氏教は「定帳」を改正して家臣の俸禄を半分にした上、その四分の一の上納を命じた。さらに江戸下り人数を制限し、たびたび倹約令を発し、領民には調達金を命じた。
この結果、財政は一時的に好転し、氏庸襲封のころには37万両の蓄財があったという。ところが、文化・文政期から天保期に入ると財政は再び逼迫した。
しかし天保期には積極的な財政再建策は取られず、借金と調達金の徴収を繰り返すだけであった。

幕末期の大垣藩

天保12年(1841年)に没した氏庸の跡を継いで九代藩主となったのは氏正であった。氏正は、家臣の俸禄削減、倹約令の発布など消極的な策に頼ったため、財政はますます悪化した。
そこで嘉永3年(1850年)に改革派の小原鉄心を登用して、藩政刷新、軍制改革を進めて財政整理を断行した。
行政の簡素化、支出抑制、徹底した倹約、藩士の知行削減、勧農策の実施、余業の奨励等々であったが、幕末期での海防御用や地震、蔵の焼失などで臨時出費も嵩み財政は好転しなかった。
そのため文久年間以降は藩札が乱発されていくことになる。また、軍制改革では西洋流砲術が採用され、大砲も鋳造された。

安政3年(1856年)氏正は隠居して氏彬が襲封した。翌安政4年に揖斐川下流羽根谷の改修工事が完成した。
文久3年(1861年)には和宮降下に伴いその道中を警備、元治元年(1864年)7月の禁門の変では長州藩の福原越後を破り、さらに山崎を警護した。
同年には水戸天狗党の西上を防ぎ、翌元治2年(1865年)には再び上洛して御所を警備した。氏彬は慶応元年(1865年)に将軍家茂に従って大坂にあったときに死去した。

そして最後の藩主となる氏共が襲封するが、氏共は長州再征に出兵して帰国後、軍制改革、藩政改革を断行した。
軍制では銃砲を主体とする装備の近代化、僧侶を軍兵化し農兵隊も組織した。藩政改革では評定局を新設した。
評定局は上下2局に分れ、上局は日々の改革を、下局は生産上昇を司り財政再建を目的としていた。

慶応4年(1868年)の鳥羽伏見の戦いには幕軍として参戦したが、小原鉄心の説得と氏共の決断によって藩論を勤皇に統一した。
氏共は謝罪のために上洛して、東山道鎮撫の先鋒を命じられた。家老戸田三弥のもと藩兵1237名が薩摩藩兵とともに新政府軍として木曽路を進軍し、下野国梁田で旧幕臣らと衝突して撃破した。
この後宇都宮城、白河城、棚倉城、会津若松城などの攻撃に功をあげて、明治2年(1869年)には賞典禄3万石を下賜された。
その後版籍奉還を経て廃藩置県となり大垣県となるが、すぐに美濃国内の諸県は全て廃され岐阜県となった。

参考文献:江戸三百藩主人名事典(新人物往来社)、新編物語藩史(新人物往来社)、藩と城下町の事典(東京堂出版)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ
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