歴史の勉強

郡上藩

藩主 在任 石高(万石) 特記
稲葉貞通 天正18~慶長5.11
1590~1600
4.0 豊後臼杵へ
遠藤慶隆 慶長5.11~寛永9.3
1600~1632
2.7  
遠藤慶利 寛永9.8~正保3.6
1632~1646
2.7  
遠藤常友 正保3.11~延宝4.5
1646~1676
2.4  
遠藤常春 延宝4.6~元禄2.3
1676~1689
2.4  
遠藤常久 元禄2.6~元禄5.3
1689~1692
2.4  
遠藤胤親 元禄5.5~元禄5.5
1692~1692
2.4 近江三上へ
井上正任 元禄5.11~元禄6.9
1692~1693
5.0 常陸笠間より
井上正岑 元禄6.9~元禄10.6
1693~1697
4.7 丹波亀山へ
金森頼時 元禄10.6~元文元.5
1697~1736
3.9  出羽上山より
金森頼錦 元文元.7~宝暦8.12
1736~1758
3.9 改易
青山幸道 宝暦8.12~安永4.12
1758~1775
4.8  丹後宮津より
青山幸完 安永4.12~文化5.11
1775~1808
4.8  
青山幸孝 文化5.12~文化12.11
1808~1815
4.8  
青山幸寛 文化12.12~天保3.6
1815~1832
4.8  
青山幸礼 天保3.8~天保9.8
1832~1838
4.8  
青山幸哉 天保9.10~文久3.7
1838~1863
4.8  
青山幸宜 文久3.8~
1863~
4.8  

遠藤氏の入封

郡上藩は八幡藩ともいい、美濃国郡上郡を中心に江戸期を通じて存在した中小藩。郡上郡は戦国期には豪族の遠藤氏の勢力下にあった。遠藤氏は美濃の戦国大名斎藤氏に属し、斎藤氏滅亡後は織田信長に仕えた。
天正10年(1582年)の本能寺の変により信長が斃れると織田信孝に属したが、信孝は秀吉と対立して挙兵する。しかし秀吉に敗れて自害させられてしまう。
遠藤氏の当主慶隆は秀吉に属することとなったが、天正15年(1587年)に所領を減らされて美濃小原で7千5百石となった。

天正18年(1590年)に稲葉貞通が美濃国曾根から郡上に移されて八幡城主となった。貞通は関ヶ原役で岐阜城主織田秀信に通じて西軍に属し八幡城に籠ったが、遠藤慶隆や金森可重に攻められて落城した。
福島正則の勧めもあって貞通は東軍に寝返り、その後は加藤貞泰郡に属して関ヶ原本戦に参じ、戦後豊後臼杵に転封となった。
郡上には遠藤慶隆が郡上落城の功によって復帰した。その後、郡上藩は遠藤氏六代、井上氏二代、金森氏二代、青山氏七代と継承され明治に至る。

郡上に復した遠藤慶隆は、彦根、駿府、名古屋の諸城修築手伝い、大坂の陣参陣などに活躍する一方で、一方内政では八幡城修築や長尾銅山開発、寺社の保護などを行った。
藩政の基礎を固めた慶隆は寛永9年(1632年)3月死去し、二代慶利を経て三代常友が継承する。このとき弟常昭に2千石、弟常紀に千石を分与し両家は旗本に列した。
常友は溜池や治水工事を起こし新田開発に努めたほか、長尾山銅山や畑佐銅山の拡充、城下町の整備、八幡城の修築、歌集常縁集編纂などを行い、延宝4年(1676年)に死去した。

延宝騒動

常友の跡を常春が継ぐ。常春は襲封時10歳と幼少であったために、常春の伯父にあたる美濃大垣藩主戸田氏西をはじめ、板倉周防守、常友の弟で分家して旗本となった常昭(乙原遠藤氏)、常紀(和良遠藤氏)が常春の後見となった。
郡上藩の財政は当初より苦しかったが、このころにはかなり逼迫していた。重臣たちは逼迫した藩財政を立て直すために、年貢の増微か支出の削減かを迫られていたが、延宝5年(1677年)に評議の末に年貢増微の方針を決定して領内に布れた。

たちまち農民の反発を呼び、農民は増税中止を藩に訴え、8月には大島村の十左衛門、川辺村の喜兵衛ら農民代表20名が江戸藩邸に出訴をした。
農民の訴えは年貢や諸税、諸役を慶隆の代に戻し、人足徴発の軽減、昨延宝4年未進の借米・借金の返済を十年賦とすること、新田開発を中止することなどであった。
藩側も増税一色というわけではなく、増税派と反対派があった。増税派は農民の出訴を知ると遠藤七郎右衛門を江戸に上らせて、増税の意見具申を行う。

この動きに対して、反対派の国家老遠藤杢助は半ば強引に江戸に出府して、常春や後見役に農民の窮状を述べ、増税を強行すれば御家の一大事を招く恐れがあると説いた。
対案として家臣の俸禄六分の一を減じて財政を財政を補填すべきて訴えた。杢助の進言は常春はじめ後見役の入れるところとなり、増税は中止され家臣の俸禄削減が決定された。
また年貢は7%免除され、口米は一石につき3升、雑税も引き下げられ、借米・借金の十年賦も認められた。農民は喜び杢助に深く感謝した。

しかし俸禄を削減された家臣の不満は大きく、同志を集めて杢助を糾弾した。即ち百石以上の藩士が連判して杢助の罪状を挙げた訴状を野田九右衛門が江戸藩邸に提出した。
藩邸では後見役戸田氏西らが協議し、紛争を鎮めるために杢助に切腹させることにしたが、それを知った杢助は反訴状を江戸藩邸に提出した。
一方、郡上では延宝6年(1678年)正月2日の歌初めに増税派を中心に、杢助暗殺が計画される。だが、この計画は事前に洩れ、杢助を慕う農民が城下に結集して暗殺計画は失敗した。
これにより増税派と杢助一派の対立はますます激しくなり、事態は悪化していった。

延宝6年2月に江戸から郡上に使者が出されて、杢助と増税派の国家老遠藤新左衛門が事態紛糾の責を負って隠居した。その後も家中一同や農民に対して説諭が続けられたが事態は好転せず、延宝8年(1680年)2月には家中不和による農民の困惑を農民5人が江戸藩邸に出訴する騒ぎとなった。
ようやく天和2年(1682年)3月になって家臣一同から和合の誓詞が出され、翌天和3年杢助、新左衛門ら48人に御暇など関係者が処罰されて、騒動は終結した。

遠藤氏移封と井上氏二代

常春は元禄2年(1689年)に死去し、常久がわずか4歳で家督を継いだ。しかし3年後の元禄5年(1692年)3月晦日に7歳で没した。
この死には陰謀説がある。元禄5年に常久が種痘に罹ると重臣池田主馬が常久を毒殺して自分の子を身代わりしようとしたが、重臣の中に反対派があって、仕方なく常久の死を幕府に届けたという。
常久には子がなく美濃郡上2万4千石は無嗣によって収公されることになったが、祖先の功により親戚の大垣藩主戸田氏成の養子胤親に遠藤氏の家督を継がせた。

胤親は元禄5年(1692年)5月に常陸・下野両国内で1万石を与えられ、さらに元禄11年(1698年)近江三上に移封される。
代って常陸笠間から井上正任が5万石で入る。正任は翌元禄6年(1693年)9月に嫡子正岑に封を譲り隠居した。
正岑は元禄8年(1695年)12月に奏者番、翌元禄9年10月に寺社奉行兼帯となり、元禄10年(1697年)6月10日に丹波亀山に転封となる。
井上氏の郡上在藩は5年ほどであったが、この間に年貢を定免法から検見法に改めている。

金森氏の入封

井上氏に代って出羽上山から金森頼時が3万8千9百石で郡上に入封した。金森氏は一世紀近く飛騨高山藩主を継承したが、頼時の代に飛騨高山から出羽上山に移された。
転封については幕府が飛騨の森林と鉱山の直轄化を図ったものとされる。上山では飛騨と同じ石高が与えられたが、上山城は前藩主土岐氏の転封の際に破却されたままであり、家臣の屋敷にも困窮した。
さらに実質的には減収であり、また不作が続いたために財政は悪化したほか、入封直後には年貢を巡る農民の強訴事件も起きている。

頼時の上山在封は5年ほどで、元禄10年(1697年)には美濃郡上に再度転封された。領地は美濃郡上周辺で2万3千8百石余り、越前大野郡内に1万4千9百石余りであった。
元禄12年(1699年)に農民からの訴えにより前藩主井上氏時代からの検見法を定免法に改めるが、これが次代頼錦のときの騒動の遠因となる。
郡上では財政難に苦しんだが、治世は安定していたが、頼時は元文元年(1736年)5月に死去し頼錦が家督を継いだ。

財政難と検見法強行

頼時は学問や文化を好む典型的な文人型の藩主であり、金森家累代の遺跡顕彰のための碑を建立した。また、目安箱を設置したり、天守台に天文台を設けたりした。
頼時は延享4年(1747年)5月に奏者番となり出世の糸口を掴んだが、転封や江戸屋敷再建、さらに奏者番としての役儀上の出費などで藩の財政は困窮の一途を辿った。
そこで頼錦は重臣たちと図り、宝暦4年(1754年)に定免法を取りやめて検見法により年貢を取り立てることとした。増収を目指したのだ。
財政に詳しい黒崎佐市右衛門を200石で召抱え、農民に対して検見法への変更を布れた。これに反対する農民は城下に集結し強訴を繰り返した。

藩では農民の勢いに押されて願書を受取ったが、報せを受けた江戸藩邸では幕閣に働きかけて美濃郡代青木安清を農民の説得にあたらせた。
翌宝暦5年に青木は庄屋を役所に呼んで検見法実施を強制し、これを知った農民が再び集結を始めると藩庁では厳しい態度で望んだ。
当時、各地で起きていた百姓一揆に対して、幕府の方針は対決一色であり、その姿勢の現れでもあった。

藩側の検見法強行に対して、農民側は再び蜂起しようとしたが、藩兵が城下入口を固めたために城下に入れず、小駄良の雨宮神社や穀見野に集結した。
そのうち有志50名余りが那留ヶ野に集まり傘連判状を作り江戸への出訴を決めた。農民有志は宝暦5年(1755年)8月江戸藩邸に前の十六条の願書に十七か条の嘆願書を添えて提出した。江戸藩邸では農民たちを牛込御箪笥町の屋敷に監禁してしまう。
藩では農民の取締りを厳しくし、役人が農村を巡回して農民を懐柔したり威嚇したりして、一揆の分裂を図った。このために寝者(ねもの)と呼ばれる一揆脱落者が多くなり、立者(たてもの)と呼ばれる一揆参加者は当初の四分の一の500人程度まで減少してしまう。

騒動の激化

村対村の対立や村人間での対立が起き、一揆は拠点を移さざるを得なくなった。
その後、一揆側の勝原村幸助、小野村半十郎、剣村三郎右衛門、同四郎左衛門、気良村小市右衛門、などが相次いで投獄された。
これに対抗して東気良村善右衛門、同長助、切立村喜四郎、前谷村定治郎、那比村藤吉の5名は同年11月26日江戸城大手前で老中酒井忠寿の行列に駕籠訴を決行した。
5人は取調べを受けた後、郡上藩邸に移され、さらに郡上に戻され庄屋預けとなった。駕籠訴による咎めは軽かったものの、効果もまたなかったのである。

宝暦6年(1756年)9月藩主頼錦は郡上に帰国して、農民の願いを聞き入れ入牢者を放免する懐柔策に出たが、これは逆に立者を勢いづかせ寝者への襲撃を誘発し、暴動は激化していくばかりだった。
立者はさらに江戸訴願の落着まで年貢の上納延期を求めて、城下に集結して強訴に及ぶ。藩側では上納延期を許したが、12月に入り暴動の首謀者として気良村甚助を捕らえ、吟味もなく打首とした。
宝暦8年(1758年)に入ると歩岐島村の四郎右衛門が立者の連名帳を所持していることを知った藩側は、藩兵を派して連名帳を奪いとり、これをきっかけに藩兵と農民の乱闘となった。これを歩岐島騒動というが、この騒動にまぎれて庄屋預けとなっていた前谷村定治郎、切立村喜四郎は脱走する。

同年3月に立者有志は再び江戸に出て町奉行依田和泉守に訴状を提出するが取り上げられず、最後の手段として箱訴を決行することにした。
4月2日に剣村藤次郎、東俣村太郎右衛門、西俣村孫兵衛、二日町村伝兵衛、歩岐島村治右衛門、向鷲見村弥十郎の6名が目安箱に訴状を入れた。

石徹白騒動

郡上での農民一揆と前後して、郡上藩領である越前国大野郡石徹白村で紛争が生じた。石徹白村には白山中居神社があり、白山信仰の村として栄えていた。村人は白山中居神社の社人となり、無税で帯刀も許されていた。
神頭職杉本左近が代々支配して京都白川家に属していたが、神主上村豊前が京都吉田家と結んで、杉本家から支配力を奪おうと画策を始めた。
上村豊前は郡上藩寺社奉行根尾甚左衛門に贈賄して、藩への工作を進めた。宝暦4年(1754年)に根尾は手代の片重半助を石徹白村に派遣して、杉本左近ら主だった社人に対し、今後は吉田家に属し上村豊前に従うよう命じた。

しかし上村豊前がもともと傲慢であったこともあり、左近らは一向に命令に従わなかった。根尾は左近らを郡上に召喚して命令服従を強要するが、左近らは断固拒絶して失敗した。
業を煮やした上村豊前は、左近派の上村次郎兵衛を片重と謀って追放処分とし、さらに根尾ら藩の後ろ盾を得て神社の山林や神木を伐採し始めた。
左近らは次郎兵衛追放処分の取消や山林伐採中止を郡上藩に訴え出るが聞き入れられず、宝暦4年(1754年)8月に左近と上村十郎兵衛、桜井吉兵衛の名で幕府寺社奉行本多長門守忠央に訴状を提出した。

しかし忠央は郡上藩主頼錦と親しく、訴状は取り上げられず、逆に金森家に通報されてしまう。左近らは郡上に送還されて、左近は投獄され十郎兵衛と吉兵衛は上村豊前に預けられた。
翌宝暦5年5月には左近、十郎兵衛、吉兵衛のほか左近派の3名を合せた6名が領外に追放された。
さらに12月に入ると左近派の503名を領外追放した。この時は美濃口を遮断して雪深い飛騨側に追放したために、途中72名の凍死者、餓死者を出した。

追放された杉本左近は美濃国厚見郡芥見村の篠田源兵衛宅で援助を受けて運動を続けていたが、宝暦6年(1756年)8月江戸に上り、老中松平右近将監武元の行列に社人82名の連判をもって駕籠訴を決行した。
しかし、これは寺社奉行の管轄であるとして本多長門守忠央に戻されてしまい、左近は最終手段として宝暦8年(1758年)4月11日、21日、7月2日と箱訴をした。しかし沙汰がなく7月21日に四度目となる箱訴を行った。

金森氏改易

杉本左近の訴状には上村豊前の行状のほかに、追放されて凍死したり餓死した社人や農民の悲惨さ、郡上藩や幕府の訴状の不受理などが綴られていた。
それが、四度も提出されたうえに、4月には郡上の農民の箱訴もあり、こうも重なっては幕府も訴状を取り上げないわけにいかなかった。
杉本左近の四度目の箱訴の前日から、郡上の農民騒擾と石徹白騒動を評定所で取り上げて始めた。勘定奉行大橋近江守の召喚と訊問から始まり、幕府関係者、藩主頼錦ほか郡上藩関係者、郡上農民、石徹白村社人らの調べが行なわれ、宝暦8年10月には裁決が出た。

藩主頼錦は閉門のうえ謹慎していたが、10月2日に失政の責任を問われ領地を召し上げられて、陸奥盛岡の南部家に永預けとされた。
嫡子出雲守、三男伊織も改易、五男熊蔵・六男武九郎・七男満吉は15歳まで親類に預けられた。
幕府関係者でも老中本多伯耆守正珍や若年寄本多長門守忠央、勘定奉行大橋近江守など多くの処分者を出したほか、農民側も16人が獄門や死罪、遠島1名、追放20名など多くが罰せられている。

青山氏時代

金森氏の失政の後を受けて丹後宮津から青山幸道が4万8千石で郡上藩主となった。幸道は入封後法制の整備を手がけ、領民や家中の生活を規制し綱紀を正すように努めた。
具体的には入封の際に町人への土産に大判を用意し、金森氏の旧家臣を受け入れ、家中に倹約を奨励した。
特に法令では徒党・強訴の禁止、しきたりの順守、賭博・喧嘩口論は死罪など過去に多発した一揆を意識したものであった。
しかし藩主が代っても郡上藩の財政難は相変わらずであった。
ことに幕末近くになると出費も多く、安政3年(1856年)には借金は5万1千両余りに達し、藩主であった幸哉は、諸経費を三分の一に切り詰め、藩士をはじめ農民、町人、寺社などから5千両を13年賦返済で借り入れて資金を調達した。

さらに万延元年(1860年)には領内の富裕層から10年賦で5万両の調達を計画した。しかし調達は上手く行かず、藩では財政確保のために、生糸の専売を行うこととした。
領内から生糸を藩札で買い上げて、江戸の生糸相場で利益を上げ、利益の半分を藩札の引換え準備に充て、残り半分を借金の返済に充てようとするものであった。
しかし、この生糸専売は農民の収益の減少をもたらし、藩札の下落と物価高騰を招き、万延元年7月に農民一揆が起きて、わずか2年後の文久2年(1862年)には中止された。

慶応3年(1867年)に将軍慶喜による大政奉還が行われたとき、藩主幸宜は幼少であり、藩論は国元では勤皇、江戸では佐幕と統一をみなかったが、翌慶応4年に美濃の雄藩大垣藩が朝廷に帰順したために、ようやく郡上藩も朝廷側となった。
郡上藩では在京の家老鈴木兵左衛門から朝命を奉ずる旨上奏し、飛騨国警備を請願した。これは東征軍に加われば莫大な費用がかかるが、飛騨警備であれば経費も少なく、様子見も出来るという多分に日和見的な理由であった。

この願いを入れて朝廷では飛騨鎮撫使竹沢寛三郎に協力するよう郡上藩に命じ、これを受けて藩では益田街道から100余名、郡上街道から200余名を飛騨高山に向わせた。
飛騨では竹沢寛三郎並びに郡上藩兵に対する排斥の念が強く、東山道鎮撫総督岩倉具定に対して、両者への排斥運動が展開されるほどであった。
これは安永2年(1773年)に飛騨で一揆が起きた際に、代官大原紹正の要請で郡上藩兵が鎮圧にあたり、そのことを飛騨の領民が恨んでいたためである。
このため一時郡上藩兵は総督の命によって飛騨から引き揚げたが、そののち再び飛騨防備に復帰している。

慶応4年(1868年)に江戸城が開城され、将軍慶喜は水戸に退いた。これを不満とする幕府の将士のほか、佐幕派の譜代諸藩の兵も多く江戸を去った。
郡上藩でも江戸家老朝比奈藤兵衛の子茂吉を隊長に45名が脱走し、凌霜隊と名乗り会津藩の援護に向った。表面上は脱走であるが、実際は佐幕派の朝比奈藤兵衛によって命じられたものだという。
佐幕派の他藩の諸隊とともに結城や小山で新政府軍と戦って勝利を得たが、続く宇都宮では戦に敗れた。
3ヶ月ほど塩原に留まった後に、日光から会津若松に入り、白虎隊とともに西ノ丸を守備した。しかし新政府軍の総攻撃の前に白虎隊の悲劇を生み、会津若松城は降伏し、凌霜隊は8名が戦死し1名が逃亡、負傷して病院に残るものを除く26名が郡上に護送され獄舎に繋がれた。
明治3年(1871年)に至り釈放されたが、反逆者とされて冷ややかな目で見られた。

一方、郡上では明治2年(1869年)版籍奉還により幸宜は郡上藩知事となる。この年は凶作であり、年貢軽減と救助米を求めて領内の村の有力者から嘆願があった。
その交渉の過程で生まれた誤解から那留ヶ野に農民3千人以上が集結する騒ぎが起きた。やがて誤解が解けて農民は解散したが、藩では首謀者を探索し68名を捕縛した。
だが捕縛した68名は取り調べを受けることなく釈放された。明治初混乱期における出来事である。
そして明治4年(1871年)7月廃藩置県が行われ、郡上藩は郡上県となり11月には岐阜県に統合された。

参考文献:江戸三百藩主人名事典(新人物往来社)、新編物語藩史(新人物往来社)、藩と城下町の事典(東京堂出版)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ
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