歴史の勉強

田原藩

藩主 在任 石高(万石) 特記
戸田尊次 慶長6.3~元和元.7
1601~1621
1.0  
戸田忠能 元和元.7~正保4.1
1621~1647
1.0  
戸田忠昌 正保4.8~寛文4.5
1647~1664
1.0 肥後富岡へ
三宅康勝 寛文4.5~貞享4.8
1664~1687
1.2 三河挙母より
三宅康雄 貞享4.10~享保11.10
1687~1726
1.2  
三宅康徳 享保11.11~延享2.8
1726~1745
1.2  
三宅康高 延享2.8~宝暦5.8
1745~1755
1.2  
三宅康之 宝暦5.8~安永9.11
1755~1780
1.2  
三宅康武 安永9.11~天明5.9
1780~1785
1.2  
三宅康邦 天明5.11~寛政4.2
1785~1792
1.2  
三宅康友 寛政4.4~文化6.3
1792~1809
1.2  
三宅康和 文化6.7~文政6.2
1809~1823
1.2  
三宅康明 文政6.7~文政10.7
1823~1827
1.2  
三宅康直 文政11.1~嘉永3.11
1828~1850
1.2  
三宅康保 嘉永3.11~
1850~
1.2  

近世初頭、渥美半島田原周辺は三河吉田城主池田輝政が領有していたが、慶長5年(1600年)に輝政が姫路に転封後、戸田氏が1万石で入封、ここに田原藩が成立した。
戸田氏は三代63年間に渡り在封したあと、寛文4年(1664年)に肥後富岡に移された。入れ替わりに同じ三河国挙母から三宅康勝が1万3千石で入封、以後明治まで三宅氏が支配した。
三宅氏は譜代の名門であり、石高は1万石余りであるが格式が高く、城持ち大名であった。そのために藩士の数が多く、それが財政窮乏の大きな原因となった。

初期の田原藩

田原藩初代藩主戸田尊次は三河戸田家の支流で、尊次が田原藩主となったことから田原戸田家と呼ばれるようになる。
尊次は田原戸田家三代目にあたり、一向一揆では家康に叛いたがのちにl帰参し、以来一貫して家康の家臣であった。
関ヶ原役の際に、越前丸岡城攻略に功があり、恩賞として5千石を加増されて都合1万石となり三河国田原に封ぜられた。
尊次は長男でのちに二代藩主となる忠能とともに大阪の陣にも出陣したが、尊次は大阪夏の陣の陣中において病に倒れて病死し、跡を忠能が継いだ。

領内検地を行い、藩政の実質的な基礎を固めたのは二代忠能であった。
しかし田原藩領は痩せ地が多く、また1万石の小藩では財政基盤は弱く、寛永19年(1642年)からの飢饉や正保3年(1848年)の台風などによる風水害がたちまち藩財政に大きく影響し、忠能の晩年には財政難に陥っていたようだ。
正保4年(1647年)に忠能が死去し、三代藩主の座を忠昌が襲った。忠昌は弱年より物事を正しく行い、襲封2年後には大老職にあった酒井忠清もその姿勢に感じ入ったという。
のちに老中に列するほどの人物であるが、寛文4年(1664年)に1万石を加増され、肥後富岡(天草)に転封となった

戸田氏に代わって田原藩主となったのは三宅氏で、三河挙母から三宅康勝が1万2千石で入封した。
三宅氏は三河時代から徳川家に仕えた譜代の名門で、小禄ながら城主であり、格式が高く家臣の数も多かった。
そのためにただでさえ出費が多かったが、痩せ地の田原ではその出費を賄えず、たちまち財政難に陥ってしまう。この財政難は幕末まで藩を苦しめることとなる。
康勝は転封4年後の寛文8年(1868年)に「庄屋惣百姓心得」を領内に布れ農政の基本としたが、延宝2年(1674年)に領内野田村と赤羽根村の間に、比留輪山の下草刈を巡って村同士の論争が発生する。

比留輪山論争

三宅氏入封までは比留輪山一帯は天領で、下草刈は野田村に許されていた。田原藩領は痩せ地が多く、肥料とするために下草は農民にとって重要な資源であった。
野田村は肥料とする下草にも恵まれており、藩内随一の農村となっていた。実に藩内の四分の一の収穫を野田村一村であげていたという。
一方、赤羽根村は遠州灘に面した断崖上の寒村で、土壌は悪く漁業も不振であった。この赤羽根村にとって比留輪山の下草刈は、喉から手が出るほど欲しい利権であった。そのため赤羽根村では、ことあるごとに比留輪山の利権を得ようと運動したいた。

寛文10年(1670年)の夏は旱魃であった。藩では赤羽根村からの要請を入れて、比留輪山の下草刈の利権を野田、赤羽根両村で分けるよう指示を出した。
これに猛反発した野田村は、家康のお墨付まで持ち出して比留輪山の利権独占を出張した。一方の赤羽根村もこれに対抗して故事を持ち出し、寛文12年(1672年)3月には両村の間に流血の騒動の発生を見る。
さらに野田村では代表を江戸藩邸へ送り出訴を行うが、江戸藩邸ではこれを取り上げず、代表一行は田原に帰された。
この間、野田村では出訴した者の家族が捕らえられて入牢させられていた。

この事態に野田村では幕府に訴えることとして代表10名が再び出府、寺社奉行に訴状を提出したが、奉行からは三宅家に再調査を指示するから藩主に再度訴えるよう告げられた。
代表は再度藩邸に訴えるが聞き入れられず、またまた寺社奉行に再訴。一方田原藩にも老中より再調査するよう指示が出されたが、藩でもいまさら野田村の訴えを聞くわけにもいかなかった。
こうなると野田村も藩の意地である。野田村では仕事を半ば放棄して訴えを通そうとするし、藩側も絶対に訴えを聞き入れない方針でのぞむ。
延宝元年(1673年)8月25日、田原城内に野田村代表が呼ばれ藩側から最終回答が示された。「比留輪山は浮き山とし、松葉下草は野田村、新畑開拓は赤羽根村」というのが裁決であった。
野田村では当然拒否し、その結果庄屋四郎兵衛以下代表6名はその場で追放、家屋敷も闕所とされた。

この仕打ちに野田村では江戸への強訴を決め、代表の清右衛門、金兵衛、長久郎ら50名余を選び、一行は江戸に向った。
江戸では老中や寺社奉行から門前払いを喰わされたために老中の登城を狙って駕籠訴し、延宝2年(1674年)2月評定所で赤羽根村と対決することとなった。
評定の結果、比留輪山もとのごとく野田村に属すとされ、その利権は守られた。ただし野田村代表清右衛門は牢奉行預けとなりのちに田原藩に送られて野田村札木において斬首される。
野田村の利権は守られたが、多くの農民の指導層は追放され、田畑は荒廃し、この後数年間は困窮を味わうこととなった。
一方、田原藩の取り潰しも論じられたようであるが、三宅家が譜代の名家であり、田原に入って日が浅かったこともあり不問とされた。

康直を巡る騒動

康勝の次の藩主康雄の代から田原藩の財政は困窮度を増し、宝永3年(1706年)から家臣の減俸が始まった。
その後も諸門番や朝鮮通信使接待役やどの公役負担や田原城の修築などで出費も多く、さらに四代藩主康高の代には城下の大火もあって財政状態はますます厳しさを増した。
五代康之は参勤費用にも困り、七代康邦の代の寛政元年(1789年)に宝飯郡の竹本長三郎より借りた7千百両あまりの金は返済できずに明治5年まで残った。
康邦の跡を康友、康和、康明と継いだが財政難に苦しんだのか短命であった。康明が文政10年(1827年)7月に28歳で急死すると、相続を巡って騒動が起きた。

康明には異母弟の友信がおり、原則であればこの友信が康明の跡を継ぐことになるのだが、藩の重役は持参金付きの養子を迎えるほうが良いと考えた。
その養子とは姫路藩主酒井雅楽頭忠実の六男稲若である。
これに反対する一派、すなわち正論を通す藩士もいて、その代表が取次格の渡辺崋山であった。崋山の名で通っているが、崋山は雅号であり名は登という。
崋山は真木定前ら同志とともに稲若養子に抗するが、重役達に押し切られる。友信は病気により廃嫡し、康明重病につき酒井忠実六男稲若を急養子とする申し入れを藩では正式に幕府に行い、即日許可された。

この時点まで康明の死は秘されていたが、これをもって康明の喪を公にした。田原藩には稲若が迎えられて、十一代三宅康直となった。
友信はまだ23歳であったが、隠居格とされ江戸巣鴨の邸を与えられた。
崋山は新藩主康直に対して、世子を友信の子とするよう願い出る。康直はこれを許したほか、崋山を側用人としたうえで友信の附役も兼ねさせた。反対派への懐柔策であった。
康直襲封一年後の文政11年(1828年)田原城下大火、翌文政12年に巣鴨藩邸焼失、さらに田原城下大火と災害が重なる。
康直は持参金を使って罹災者へ成木や米、稗などを贈り、自ら食事も減じて倹約に励んだ。このころの康直は名君であった。

やがて康直は幕府の奏者番への就任を望むようになる。奏者番とは江戸城中で大名や旗本が将軍に謁見する際に、奏上や進物の披露をしたり将軍家からの下賜品を伝達する役職であり、出世の登竜門であった。
一方で交際範囲は広くなり、それだけ金がかかる。このころ家老に就いていた崋山は猛反対して康直に意見をし、康直もこのときは引いた。が、奏者番への就任をあきらめたわけではなかった。
一方、天保12年(1831年)友信の側室於磯に男児が生まれ、しん(人偏に口)太郎と命名された。翌天保13年には藩主康直に女児が生まれた。
崋山はしん太郎を康直の女と結婚させ婿養子とするよう図る。これは藩士たちの賛同を得て、康直も確約をする。これによって他家に移った名門三宅氏の嗣も再び戻ることになる。

ところが天保10年(1840年)5月幕府大目付鳥居耀蔵が画した洋学者弾圧事件「蛮社の獄」に崋山が引っかかってしまう。崋山は投獄された後に田原で蟄居となった。
崋山の蟄居を聞いて画弟子の福田半吾らが見舞いに訪れ、崋山の窮状を見て崋山の絵を江戸で売り生活の資とすることにした。これが不謹慎とされた。
康直も望んでいる奏者番になれないのは、この崋山の行動が妨げになっているとし、ほかの重役たちも崋山を批難した。崋山は蟄居後1年9ヶ月、天保12年(1842年)10月11日に累が康直に及ぶことを恐れて自刃した。

この間天保11年、康直の側室に男児が生まれ屯と名付けられた。名家老崋山の死と屯の誕生は、先に約束されたしん太郎継嗣を白紙に戻しかねなかった。事実、康直の気持ちも屯を世子にと変わっていった。
ここに崋山の遺志を継いだ側用人真木定前は康直に諫言した。が、康直は定前を避け続け、ついには目通りも許されなくなった。
弘化元年(1844年)9月、参勤を終えて田原に帰国する康直の行列に加わった定前は、遠江国金谷で諫書をしたためたうえ切腹。死を持って康直を諌めた。
康直も衝撃をうけたが、藩士たちもしん太郎家督、三宅氏血筋復活に大きく動き出し、崋山の薫陶を受けた村上範致らが、その運動の中心となった。
嘉永3年(1850年)11月11日、しん太郎は康直の養子となり、田原藩最後の藩主康保となり、崋山の志は達せられた。

渡辺崋山

渡辺崋山は、寛政5年(1593年)9月16日、田原藩定府仮取次役渡辺定通の長男として江戸で生まれた。
8歳で出仕し世子亀吉(のちの康友)のお伽役となった。12歳で家老鷹見星皐の教えを受け、その後佐藤一斎らに師事した。
さらに家の貧窮を救うために絵を内職とし、谷文晁にも師事し、その斡旋によって団扇や凧、灯篭に絵を描いて家系の助けにしている。

文政7年(1824年)に父の死去により家督を継ぎ、文政9年(1826年)に34歳で取次役となった。このころから深く西洋の事情研究に心を傾けた。
藩主康明が死去し、その跡に姫路藩から養子康直を入れる話が出たのはこの翌年の文政10年のことである。
崋山は康直養子には反対の立場であったが、取次役のような身分では意見が取り上げられるはずもなく、文政11年(1828年)は康直が藩主となった。
崋山は康直のもとで側用人となったが、これは崋山への懐柔策であった。同時に康明の弟で隠居させられた友信の附役も兼ねた。

天保3年(1832年)5月、崋山は家老に進んだ。家老になった崋山は難破船貨物横領事件(田原藩の領民が難破した破船から荷物を掠め取り、荷主との間で紛争となり、荷主が補償を巡って公儀に訴え出た事件)の解決に奔走した。
さらに幕命による二川宿・白須賀宿の助郷を延期させたり、義倉である報民倉を建設したりした。
その間、藩主康直は奏者番への就任を望むようになる。これに崋山が猛反対し、以後康直との関係が悪化していく。
やがて蛮社の獄に引っかかり、蟄居の後に自刃したのは先に書いたとおりである。日本人的人物として有名な渡辺崋山であるが、自刃後も赦されず、赦免されたのは明治元年(1868年)になってからである。

幕末の田原藩

安政2年(1855年)10月、幕府は諸大名に蝦夷地開拓指令を出した。前年12月に日露和親条約が結ばれて、北方における境界線が確定されたことで、蝦夷におけるロシアの脅威がなくなったためである。
田原藩でも交易における利潤を当て込んで開拓事業に参加することにし、村上範致ら4名が蝦夷地御用掛に任命された。
安政5年(1858年)3月には石川恕輔に実地調査の命が降り石川は蝦夷地に向け出発するが、病気や石川の怠慢などにより、蝦夷地にも渡れぬうちに蝦夷地は会津、仙台、弘前など6藩に貸与されることに決まってしまった。
結局、小藩ゆえの人材難、資金難と蝦夷地までの航海に無理があったことから、蝦夷地開拓は夢で終わってしまった。

この蝦夷地開拓や交易を見越して田原藩では大型帆船を建造した。領内波瀬村の海岸に造船場を作り、安政4年(1857年)4月に幕府に造船伺い書を提出、船大工を集めた。
同年5月に幕府から許可が下りたころには、すでに造船は着々と進行していた。藩主康保も度々視察に訪れた。
同年9月に進水、順応丸と名付けられる。蝦夷地開拓は頓挫したが、順応丸は国内交易に活躍したが、慶応元年(1865年)に老朽化により解体された。

戊辰戦争時、藩主康保は江戸にあって官軍への徹底抗戦を主張したが、田原では家老渡辺諧が藩論を勤皇に統一し、慶応4年(1868年)2月の康保の説得に伊藤鳳山が江戸に向った。康保はその説得を受けてその後に帰国し官軍に加わった。
その後、版籍奉還から廃藩置県となり田原県、額田県を経て愛知県になるが、幕末期の田原藩は小藩ながら蝦夷地開拓や順応丸建造など、海藩としての意地を見せた。

参考文献:江戸三百藩主人名事典(新人物往来社)、新編物語藩史(新人物往来社)、藩と城下町の事典(東京堂出版)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ
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