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![]() 西大平藩 |
藩主 | 在任 | 石高(万石) | 特記 |
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大岡忠相 | 寛延元.閏10〜宝暦元.12 1748〜1751 |
1.0 | |
大岡忠宜 | 宝暦2.2〜明和3.8 1752〜1766 |
1.0 | |
大岡忠恒 | 明和3.10〜天明4.5 1766〜1784 |
1.0 | |
大岡忠與 | 天明4.5〜天明6.10 1784〜1786 |
1.0 | |
大岡忠移 | 天明6.11〜文政11.11 1786〜1828 |
1.0 | |
大岡忠愛 | 文政11.11〜安政4.10 1828〜1857 |
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大岡忠敬 | 安政4.11〜 1857〜 |
1.0 |
江戸町奉行大岡越前守忠相といえば、知らぬ人はいないほどだが、三河国西大平藩はその忠相が立藩した藩である。 忠相は旗本大岡忠高の四男として生まれ、貞享3年(1686年)に同族の大岡忠真の養子となり、元禄13年(1700年)7月に家督を継いで1920石の旗本となる。 元禄15年(1702年)御書院番、宝永元年(1704年)徒士頭、宝永4年(1707年)御使番、翌宝永5年目付、正徳2年(1712年)山田奉行、享保元年(1716年)普請奉行、翌享保2年江戸町奉行となり越前守に改める。 忠相は江戸町奉行を19年に渡り勤め、すぐれた能力を発揮して後年にも名奉行として知られている。また地方御用掛を兼務した。元文元年(1736年)に寺社奉行となり、寛延元年(1748年)には奏者番を兼ねた。 この間、享保10年(1725年)武蔵、上総両国内で2千石、元文元年(1736年)上野、下野両国内で2千石をそれぞれ加増され官棒と合わせ1万石格となり、寛延元年(1748年)に官棒に代えて三河国内で4千80石を加増されて都合1万石となり陣屋を額田郡西大平に構えて西大平藩を立藩した。 忠相は西大平の地には入ることなく、3年後の宝暦元年(1751年)12月に死去し、その跡を二男忠宜が継ぎ、その後忠恒-忠與-忠移-忠愛-忠敬と継承して廃藩置県を迎えた。 幕末期、最後の藩主忠敬は当初佐幕であったが鳥羽伏見の戦い後は、小藩故に大勢に順応せざるを得ず官軍に従い、挙母藩や田原藩とともに官軍の輸送の任にあたった。 なお、西大平藩大岡氏は参勤交代を行わない定府大名であった。 |
参考文献:江戸三百藩主人名事典(新人物往来社)、新編物語藩史(新人物往来社)、藩と城下町の事典(東京堂出版)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ |
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