歴史の勉強

館林藩

藩主 在任 石高(万石) 特記
榊原康政 天正18.8〜慶長11.5
1590〜1601
10.0  
榊原康勝 慶長11.5〜元和元.5
1601〜1615
10.0  
榊原忠次 元和元.12〜寛永20.7
1615〜1643
10.0  陸奥白河へ
松平(大給)乗寿 正保元.2〜承応3.1
1644〜1654
6.0  遠江浜松より
松平(大給)乗久 承応3.3〜寛文元.閏8
1654〜1661
5.5  下総佐倉へ
徳川綱吉 寛文元.閏8〜延宝8.8
1661〜1680
25.0  
徳川徳松 延宝8.8〜天和3.閏5
1680〜1683
25.0  無嗣除封
松平(越智)清武 宝永4.1〜享保9.9
1707〜1724
2.4  
松平(越智)武雅 享保9.10〜享保13.7
1724〜1728
5.4  陸奥棚倉へ
太田資晴 享保13.9〜享保19.9
1728〜1734
5.0  陸奥棚倉より
摂津へ
太田資俊 元文5.5〜延享3.9
1740〜1746
5.0 摂津より
遠江掛川へ
松平(越智)武元 延享3.9〜安永8.7
1746〜1779
6.1 陸奥棚倉より
松平(越智)武寛 安永8.9〜天明4.3
1779〜1784
6.1  
松平(越智)武厚 天明4.5〜天保7.3
1784〜1836
6.1 石見浜田へ
井上正春 天保7.3〜弘化2.11
1836〜1845
6.0 陸奥棚倉より
遠江浜松へ
秋元志朝 弘化2.11〜元治元.10
1845〜1864
6.0  出羽山形より
秋元礼朝 元治元.10〜
1864〜
6.0  

時代は徳川へ

鶴が羽を広げた姿に形容される群馬県の、鶴の嘴にあたる部分が館林である。この地に城が築かれたのは、天文元年(1532年)に土豪赤井照光によってとされているが、その60年前の文明4年(1472年)に館林城があったとする文書もあって、はっきりしない。
赤井氏のころに鉄砲が戦闘の主要兵器となり、赤井氏はその脅威を取り除くために、館林城を大修築した。
もともと館林城は湿地帯にあり、城地の南から東にかけては城沼という天然の濠があり、沼から城の西側には、巾40〜50メートルという河川が流れていた。
しかし沼地に突き出した半島部と本丸との距離が近く、鉄砲の射程範囲となるために大修築を行い、これが近世館林城の骨格を成している。

赤井氏の跡は足利城主長尾顕長が一時城を治めたが小田原北条氏に追われ、北条氏の一族北条氏矩が城主となった。
天正18年(1590年)の秀吉の北条攻めに際して、館林城は2万の軍勢に包囲されたが落ちず、最後は和議によって開城したという。
北条氏は豊臣秀吉によって滅ぼされ、関東には徳川家康が入った。家康は江戸を関東支配の中心と定め、榊原康政を総奉行にして家臣団の知行割を、迅速かつ慎重に行わせた。

これによって館林城主となったのが、知行割総奉行であった康政で、石高は10万石、領地は上野国邑楽、勢多両郡と下野国梁田郡のうちであった。
康政は本多忠勝・酒井忠次・井伊直政とともに徳川四天王の一人であり、多くの合戦で活躍し、徳川家の天下取りに多大な功績を残した。
館林10万石もその功績に対しての論功で、これは重臣中でも井伊直政の12万石に次ぐものであった。

榊原時代

康政は館林では城郭を拡張し、城下町の整備に努めた。とくに城下を走る道路の整備に意を注いだ。
これは当時関東には常陸の佐竹氏がいて、有事の際に佐竹領への進撃路とするための軍用道路としての意味合いがあったとされる。
また湿地帯であった邑楽郡は河川が集まり、利根・渡良瀬の両川に注ぐところで古くから水害多発地帯であった。そのために利根川・渡良瀬川の築堤工事を行い、文禄4年(1595年)に完成させ水害から領地を守った。

慶長5年(1600年)の関ヶ原役で秀忠を大将とする中山道軍に属して出陣したが、途中の上田城攻撃に手間取り本戦には間に合わなかった。
この遅参は家康の不興を買い、家康は秀忠との面会を拒否した。これに対して康政が幾重にも詫びを入れ、家康も忠功厚い康政の取り成しに折れて秀忠と面会した。秀忠はこのことを終生恩義に感じていたという。
また関ヶ原役後は水戸への加増転封の話があったが、水戸では1日で江戸まで駆けつけられないとしてそれを断り、館林10万石のままであった。

関ヶ原役を境にして康政は表舞台から退き、館林に籠る。既に康政ら武功派の時代ではなく、世の中は官僚の時代になっていた。
その代表が本多正信・正純父子であり、康政は本多父子とは対立したが、康政は時勢の変化には抗せずにひっそりと隠棲、慶長11年(1606年)に59歳で館林城内において死去した。
榊原氏二代は三男康勝が継ぎ大坂の陣でも活躍するが、元和元年(1615年)京都において病死する。
康勝には正式な子がなく断絶となるところ、榊原の名跡がわずか二代で耐えることを惜しんだ家康は、遠江横須賀5万石の大須賀忠次に榊原家を継がせた。

館林に入った忠次は、日光東照宮造営のお手伝い普請を課され、家康の棺の日光遷座の際には領内にこれを迎えた。元和9年(1623年)の将軍家光上洛の際には先駆けとなる。
領内では新田開発などに意を注ぎ、寛永2年(1625年)12月に領内新田1万石を加増されて11万石となり、さらに寛永20年(1643年)3万石を加増され合わせ14万石となり陸奥白河に転封となった。
榊原氏転封のあと遠江浜松から老中松平乗寿が6万石で入り、二代17年余りにわたり在封して寛文元年(1661年)閏8月、下総佐倉へ移った。
なお、松平氏二代の乗久は襲封の際に弟乗政に5千石を分与したので、乗久時代の館林藩領は5万5千石であった。

館林宰相

のちに五代将軍となる徳川綱吉は、正保3年(1646年)に三代将軍家光の第4子として生まれ、慶安4年(1651年)に賄料として15万石を与えられた。
承応2年(1653年)に従四位下右馬頭に任じられ、寛文元年(1661年)閏8月館林城主となった。このとき10万石を加えられたので、館林藩領は25万石であった。
さらに同年10月には参議となり、世に館林宰相といわれるようになる。将軍の弟であり、25万石の城主に相応しい城郭を築くべしとの幕府の考えで、寛文4年(1664年)に館林城修築のために2万料が下付された。

これにより館林城は堂々たる城となり、また城下も繁栄を極めた。城下には「午ならば いかほどはねん 丑の年 さてもはねたり 寛文五年」との落首もあらわれ、領民の喜びと城下の賑わいが伝わる。
しかし綱吉は江戸の館に居住していて館林に住したことはなく、寛文5年(1665年)の家康50回忌のときの日光大法要の帰途、館林に立ち寄り5日間滞在したのが唯一の帰国であった。
5日間の滞在といっても将軍の直弟であるから、通過沿道の家屋は藩費をもって修築が加えられるなど、藩を挙げての騒ぎとなった。

このように藩主が江戸に定府したために、館林城には城代を置いて実効支配がされた。初代の城代は金田正辰で綱吉の藩主就任と同時に任命され、寛文3年(1663年)8月に死去するまで2年間城代を勤めた。
後任には旗本大久保忠辰が就いたが、寛文5年(1665年)に綱吉に意見書を提出し、これが綱吉の不興をかって罷免の上、讃岐高松の松平頼重に預けられた。
大久保忠辰の後は初代城代であった金田正辰の二男正勝が任じられ、正勝は綱吉が将軍になるまで館林城代を勤めた。

正勝城代の時代の延宝4年(1676年)に領内の農民が、役人の横領を直訴して、首謀者の山田郡台野郷村名主小沼庄左衛門以下18名の名主が磔にされた。
綱吉時代は一見華やかのようであるが、このように悲惨な事実もあったようだ。
さて延宝8年(1680年)に入ると、もともと病弱であった四代将軍家綱の病状が悪化して、後継問題が急浮上した。
やがて家綱が重態となり後嗣問題も予断を許さぬ事態となった。大老酒井忠清は鎌倉時代にならい京都から有栖川宮幸仁親王を迎えて将軍にしようとしたが、老中堀田正俊は綱吉擁立を主張した。
これが水戸光圀の賛同を得て綱吉が五代将軍となり、これによって館林藩は綱吉の子の徳松が相続した。

徳松は将軍の子とはいえまだ2歳であったから、綱吉時代同様に代官による支配が行われたはずである。
しかし徳松は、天和3年(1683年)閏5月28日に5歳で病没してしまう。綱吉にはほかに子がなく、館林藩主を継ぐものもおらず館林藩は廃藩となった。
威容を誇った館林城は破却された。その破却は徹底しており、約1ヶ月かけて周囲の石垣まで取り壊した。
綱吉は徳松の死にかなりショックを受けたとされており、館林城の徹底した破却もそのショックからなされたのかもしれない。

中期藩政

徳松の死で廃藩となった館林藩は、宝永4年(1707年)まで天領となり幕府代官の支配を受ける。諸星伝左衛門、稲葉平右衛門、深谷忠兵衛、池田新兵衛、比企長兵衛が順次代官となった。
宝永4年正月2日に将軍世子家宣の弟松平清武が2万4千石で、館林に封ぜられた。清武は父徳川綱重の家臣越智与右衛門の跡を継ぎ、後に松平姓に改めたので越智松平氏と呼ばれる。
清武が入封したころの館林城址は一面の田畑になっていたといい、松平(大給)和泉守から城絵図を借りて、城の再築を行った。

宝永5年(1708年)6月には幕府から城の再築費用として5千両を授けられた。しかし再築費用の見積もりは3万両を越えていて、このために農民に対して重税を課した。
享保3年(1718年)には米価の暴落も重なって農民が困窮し、年貢の減免を要求して一揆を起こし、代表は江戸藩邸に強訴した。
外聞を憚った藩では農民の要求をいれ年貢を半減したが、中野村、中谷村、田谷村の名主3名が斬首された。これを館林騒動という。

一方、城の再築は正徳5年(1715年)に外郭が、享保4年(1719年)には内郭がほぼ完成したために、翌享保5年8月に清武が初入部した。
清武は宝永6年(1709年)に1万石、正徳2年(1712年)に2万石をそれぞれ加増され5万4千石となる。
この間の正徳2年10月に兄で六代将軍を継いでいた家宣が死去し、さらに七代将軍家継も正徳6年(1716年)4月に8歳で世を去る。
将軍家近親であった清武も八代将軍候補となるが、越智氏を継いでいることや比較的高齢であったこと、また何よりも本人に将軍になり意志がなかったことなどから、将軍位は紀州家の吉宗が継いだ。

清武の子の清方は早世していたために清武自身にも世子はなく、尾張高須藩から武雅を養子に迎えていた。清武は享保9年(1724年)に没して武雅が継いだが、武雅も享保13年(1728年)7月に27歳の若さで死去した。
武雅が死去すると水戸藩の支藩から養子に入っていた武元が封を継ぐが、同時に陸奥棚倉に転封となった。
転封については「日光社参に過失あり」とされているが、詳細は不明である。いずれにしても棚倉転封は左遷であった。

入替わりに棚倉から太田資晴が5万石で館林藩主となる。資晴は享保19年(1734年)9月に大坂城代となり、封地を摂津に移されこれにより館林は再び天領になった。
元文5年(1740年)5月に資晴の子の資俊が館林に再封されるまでの6年間、鳥居丹波守、永井伊賀守など4名が城番となった。
資俊は在封6年後延享3年(1746年)9月に遠江掛川に転封となり、棚倉に左遷されていた越智松平氏三代の武元が再び館林藩主となった。
短期間に目まぐるしく支配者が代り不安定であったが、武元復帰後は武寛、武厚と相続されて天保7年(1836年)3月に石見浜田に転封となるまで90年間越智松平氏時代が続く。

武元は八代将軍吉宗の補佐役として吉宗の信任厚く、館林への復帰も遠隔地棚倉の不便を思っての吉宗の配慮といわれる。
元文4年(1739年)奏者番、延享元年(1744年)寺社奉行兼任、延享3年(1746年)に老中となり、吉宗の死後も九代将軍家重に仕えて信頼された。謹厳実直で好学であったという。
武元の跡を継いだ武寛は在封6年であったが、天明の飢饉の際には領民に藩飯米を支給し救済したという。
武寛の跡の武厚は、藩校道学館を設置した。文政5年(1822年)に将軍家斉の子の徳之進を養子とした。天保7年(1836年)3月に浜田に転封となるが、将軍家との縁で転封を阻止しようと運動したが、実らなかった。

館林藩の終焉

松平氏の浜田転封のあとには陸奥棚倉から井上正春が6万石で入る。正春は天保9年(1838年)大坂城代、天保11年(1840年)老中となり、天保14年(1843年)に病気のため老中辞任、弘化2年(1845年)に遠江浜松に移る。
正春の時代は財政難に対処するために苛酷な増税を行ったために、農民の逃散が多く発生した。このことが幕府の耳に達したために転封となったらしい。
井上氏転封のあとを受けて出羽山形から秋元志朝が入封する。石高は井上氏と同じく6万石であった。
もっとも出羽村山郡内に4万6千石余りの封地を残しての転封であり、そのために出羽国村山郡漆山に代官所を置いて出羽の封地を管理した。

安政2年(1855年)に江戸に大地震が発生すると、志朝はその機に藩政改革を実施した。藩学求道館(のち造士書院と改名)を設置し文武を奨励するなどした。
優秀な藩士を選抜して江戸や水戸に遊学をさせる。さらに歴代の天皇陵の荒廃を知ると、たいへんに憂いて陵墓修補実施の必要を強く感じた。
秋元氏は河内にも39ヶ村ほど封地を持っており、そのなかにある雄略天皇陵から修補に取りかかった。

水戸藩への遊学や陵墓修補などの勤皇の動きは、志朝の出自と関係する。志朝は周防徳山藩主毛利日向守広鎮の二男で、天保2年(1831年)に秋元久朝の養子となった。
天保10年(1839年)久朝の隠居により家督を継いだ。また宇都宮藩主の戸田家とも姻戚関係があった。毛利家、戸田家とも勤皇で知られた家であり、家臣間交流も頻繁であった。
それが勤皇の雄藩水戸藩への遊学につながり、また天皇陵荒廃もその遊学者の一人岡谷繁実の報で知ったという。

一方で幕末の長州征伐では毛利家出身のために座視できずに、自ら上京して朝廷の内旨を受けて、長州藩と幕府の斡旋に奔走した。
しかし一度は上手く行きかけた斡旋も、結局は朝廷が幕府に対毛利方針を一任したために実らず、逆に幕府から通牒を疑われて元治元年(1864年)10月に隠居させられた。
これにより遠江掛川藩主太田資始の五男で、安政6年(1859年)志朝の養子となっていた礼朝が藩主となった。
志朝の隠居強制と礼朝の襲封は勤皇派の退潮を招き、佐幕派が力を得た。礼朝も慶応2年(1866年)奏者番となるなど佐幕よりの態度を示した。

戊辰戦争となると藩論は佐幕、勤皇両派が入り乱れ、収拾がつく状態ではなかったが、藩士塩谷甲介の「将軍といえども、天子が命じて初めて職を得るのであり、今天子がその職を解くのであるから、大儀に拠るべき」との意見を契機として藩論は勤皇に統一をみた。
慶応4年(1868年)には礼朝が奏者番を辞して上京、その途中上野倉賀野で官軍と出会い征東総督岩倉具視に大砲2門と2万両を献じ、砲手12名を出兵した。
これが関東諸藩のおける最初の官軍への出兵であり、館林藩は関東でもっとも早く政府軍に加わったことになる。

館林藩はその後結城周辺での戦闘に参加し、会津攻撃にも加わった。礼朝は明治2年(1869年)に、功によって賞典録1万石を授与された。
藩領は明治4年(1871年)7月の廃藩置県により館林県となるが、同年11月には館林県は廃され栃木県の管轄となる。さらに明治9年(1876年)には群馬県に編入された。
明治7年(1874年)には廃墟となっていた館林城の民間への払い下げが決定したが、その直後の3月3日に城内の屋敷から出火、払い下げを拒むかのように城のほとんどを焼失した。

参考文献:江戸三百藩主人名事典(新人物往来社)、新編物語藩史(新人物往来社)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ
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