歴史の勉強

前橋藩

藩主 在任 石高(万石) 特記
平岩親吉 天正18.8〜慶長6.2
1590〜1601
3.3 甲斐府中へ
酒井重忠 慶長6.3〜元和3.7
1601〜1617
3.3 武蔵川越より
酒井忠世 元和3.7〜寛永13.3
1617〜1636
12.2  
酒井忠行 寛永13.5〜寛永13.11
1636〜1636
15.2  
酒井忠清 寛永14.1〜延宝9.2
1637〜1681
10.0  
酒井忠挙 延宝9.2〜宝永4.11
1681〜1707
15.0  
酒井忠相 宝永4.11〜宝永5.1
1707〜1708
15.0  
酒井親愛 宝永5.2〜享保5.4
1708〜1720
15.0  
酒井親本 享保5.4〜享保16.9
1720〜1731
15.0  
酒井忠恭 享保16.10〜寛延2.1
1731〜1749
15.0  播磨姫路へ
松平(越前)朝矩 寛延2.1〜明和4.閏9
1749〜1767
15.0 播磨姫路より
武蔵川越へ
松平(越前)直克 慶応3.1〜明治2.8
1867〜1869
17.0 武蔵川越より
松平(越前)直方 明治2.8〜
1869〜
17.0  

前橋はもとは厩橋と言い、その地名は東山道の駅家(うまや)に由来するという。前橋と改めたのは元禄年間(1688〜1703年)の酒井氏の時代のことであるというが、それ以前にも前橋と表記された文書が残る。
また厩橋も「うまやばし」ではなく「まやばし」と言っていたらしく、口語では早くから使われていたと思われる。
その前橋は戦国前期には山内上杉氏が支配していたが、小田原の後北条氏の勢力が伸びてくると、後北条、上杉(越後)、武田の強豪各氏が争う地となった。

やがて織田信長が甲斐の武田氏を滅ぼすと、織田の勢力は甲斐や信濃からが関東に及んできた。その侵攻口は上野で、織田の武将滝川一益が関東方面の司令官であった。
だが侵攻が本格化する前に信長は本能寺に斃れ、上野からその勢力は一掃された。代って後北条氏の支配地となるが、後北条氏は秀吉により滅亡せられ、上野は徳川家康の支配地となった。
家康は関東に入ると前橋を三河譜代の平岩親吉(3万3千石)に与えた。平岩氏は治世11年後の慶長6年(1601年)で甲斐に転封となり、代って武蔵川越から酒井重忠が入る。酒井氏は寛延2年(1749年)に姫路に転封となるまで150年間に渡り前橋を治めた。

酒井氏と入れ替わりに姫路から松平越前家の分家、松平朝矩が15万石で前橋藩主となった。しかし朝矩は19年後の明和4年(1867年)に武蔵川越に居城を移す。
理由は前橋城本丸が、城の西側を流れる利根川によって侵食破壊されて、城の機能が保てなくなったためである。
利根川による前橋城の侵食は、酒井氏時代から始まっていて、寛延元年(1748年)には既に本丸を放棄し本丸機能を三の丸に移転していた。
朝矩の川越移転によって前橋城は廃城、城付きの封地は陣屋支配を受けたが、城下は寂れていった。
その後、松平氏は城の再築城を願い、慶応3年(1867年)に再築がなって帰城したがすぐに版籍奉還、そして廃藩置県を迎えた。

平岩親吉と酒井重忠

前橋の地に酒井重忠が入封したのは、関ヶ原役の翌年にあたる慶長6年(1601年)3月のことである。
それまで前橋の地を領していた平岩親吉治下の前橋藩政については、実態がわかっていないという。
親吉の封地3万3千石についても、具体的な封地はわかっておらず、城の周辺と推測されているだけである。
平岩氏の治世が短いうえに、文禄・慶長の役や関ヶ原役などでほとんど前橋にいる暇がなく、藩政も重臣に任せきりだったと考えられる。

平岩氏は慶長6年に甲斐に転じ、酒井氏が川越より転封となってきた。酒井氏は松平氏と同祖といわれる譜代名門中の名門の家であった。
松平家初代とされる松平親氏の3人の子のうち、二男泰親が松平を継承し、この系統の九代目が家康で徳川と改姓した。
親氏の三男広親は酒井氏を継ぎ、この広親が酒井氏祖とされている。酒井氏が松平氏と同祖といわれるのは以上のような伝承によっている。
あくまで伝承であり証明はできないが、酒井氏が松平氏と極めて近く、また譜代の古参であることは間違いない。

酒井氏の祖の広親の子が二流に分かれる。氏忠の系統を左衛門尉家、家忠の系統を雅楽頭家という。
左衛門尉家からは徳川四天王の一人酒井忠次が出たが、家康の長男信康の切腹事件で家康に嫌われて、徳川家とは微妙に距離を置く関係になってしまい、その後幕政にもほとんど関与しなかった。
一方、それに入れ替わるように雅楽頭家は酒井氏の主流になり、のちに幕政にも多く参画している。前橋藩主の重忠は、この雅楽頭家の嫡流であった。
重忠は元和3年(1617年)7月に69歳で死去するまでの約17年間前橋藩主であったが、具体的な治績は明らかでない。
石高も3万3千石と平岩時代と変わらず、酒井氏が譜代の名門としての地歩をしっかりと固めるのは、重忠の跡を継いだ忠世の時代からである。

酒井氏の初政

前橋藩酒井氏二代の忠世は、重忠の嫡男として三河国西尾で生まれる。天正18年(1590年)に秀忠付きとなり、同年の家康関東入国の際には父重忠とは別に5千石が与えられた。
慶長5年(1600年)の関ヶ原役では秀忠の軍に従軍したために関ヶ原合戦には間に合わなかったが、戦後上野那波で1万石を得た。
慶長14年(1609年)2月に上野国内で5千石加増、大坂の陣では秀忠の側にあって功を挙げ3万2千石を加増された。

元和3年(1617年)7月に父重忠の死去により家督となり、重忠の遺領を継承して石高は都合8万5千石となり、老中となった。
なお、その後も加増があり、忠世の代の前橋藩の石高は最終的に12万2千石となる。元和9年(1623年)に将軍世子家光付きとなった。
前橋藩の藩政の基礎は忠世の代に築かれている。藩領は重忠の代の3万3千石から4倍近くの12万石にまで短期間で拡大し、そのために在地の有力者を代官に取り立て、譜代の家臣も合せて代官として新田開発や農政にあたらせている。
治安の維持にも力を注ぎ、前橋で開かれる市でも押買狼藉の禁止を布れ、楽市を許している。

寛永9年(1632年)西の丸留守居となるが、同年に中風により倒れて静養し、のちに幕閣には復帰した。
寛永11年(1634年)11月に家光が上洛した際にその留守を預ったが、西の丸から出火してて全焼、寛永寺に移り謹慎した。家光から城を無断退いて謹慎したことを咎められて失脚した。
その後、同年12月には登城が許され、翌寛永12年2月に老中に復帰し西の丸勤番となが、寛永13年(1636年)3月に病に倒れ65歳で死去した。

忠世の跡を嫡男の忠行が継いだ。忠行は、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣、翌元和元年(1615年)の大坂夏の陣に出陣し功を挙げ、元和9年に部屋住みの身であるが奏者番となる。
寛永2年(1625年)上野板鼻で2万石を与えられ、寛永10年(1633年)には父忠世とともに西の丸に移り、このとき上野国内で1万石を加増される。
寛永13年(1636年)3月に忠世が病死したために、その遺領を継ぎ、自領と合せ15万2千石となった。藩主として藩の職制を定めたほか、地方知行を名目化して実質的には俸禄制にしたという。襲封半年後の寛永13年(1636年)11月に38歳の若さで死去した。

下馬将軍

短命であった忠行の跡を継いだのが、のちに下馬将軍といわれた忠清であった。忠行の時代、前橋藩は15万2千石余りであったが、忠清が継いだのは10万石で、2万2千5百石は忠清の弟忠能に分与され、残りの3万石は返上した。
忠清は寛永15年(1638年)11月に奏者番、承応2年(1653年)閏6月には老中に就任した。老中は忠清のほか松平信綱、松平乗寿、阿部忠秋であったが忠清は就任と同時に老中首座となった。
翌承応3年に松平乗寿が死去し、さらに松平信綱や阿部忠秋が没すると権力は忠清に集中した。寛文3年(1663年)に3万石を加増され、寛文5年(1665年)に家康五十回忌総奉行、さらに寛文6年(1666年)には大老職についた。

大老となった酒井忠清の権勢はたいへんなもので、「天下のこと皆雅楽頭の指南に漏るものなし」といわれ、酒井家の上屋敷が江戸城大手前の下馬札の傍らにあったことから世に下馬将軍と呼ばれるようになる。
これは城外の将軍の意味で、その並びなき権勢に対して、貢物をもって伺候する諸侯が屋敷の門前に満ちたと伝えられる。
延宝8年(1680年)正月に上総国望陀、市原両郡内で2万石を加増され都合15万石となる。同年5月に将軍家綱が死去し、綱吉が五代将軍となると忠清は病気療養を命じられる。事実上の解任であった。

忠清の専横を批判するものも多く、阿部忠秋は忠清の驕りを叱り、また岡山藩主で名君とされる池田光政も諫言したとされている。
四代将軍家綱には子がなく、家綱危篤の際に忠清は鎌倉時代の先例に倣い京都から有栖川宮幸仁親王を招き宮将軍として擁立しようとしたが、徳川光圀や堀田正俊の反対で実現せず、家綱弟の綱吉が将軍となった。
綱吉は将軍になると自分を差し置いて宮将軍を迎えようとした忠清を実質的に解任し、さらに忠清が裁決した越後騒動を再吟味して忠清を否定したとされている。

藩政では寛文3年から10年にかけて領内総検地を行い、農民と土地の把握し藩体制の確立に努めた。また民政への指示を多く出しており、職制分化を進めて支配力を強化しようとした。
また代官や奉行に対しての法令も多く出され、支配機構の整備や家臣への統制権の確立に意を尽くしたとされる。
忠清は失脚後の翌年、延宝9年(1681年)2月27日に隠居して嫡男忠挙に家督を譲り、同年5月19日に58歳で没した。

名君忠挙

名君とされる忠挙は、慶安元年(1648年)に忠清の嫡男として江戸に生まれた。明暦2年(1656年)に奏者番となり、延宝9年(1681年)に忠清の隠居により襲封した。
初名を忠明(ただあき)といい、忠挙に改名したのは元禄3年(1690年)11月のことである。また、厩橋から前橋に名を改めたのも忠挙の代である。
襲封のとき弟忠寛に2万石を分与して伊勢崎藩を立藩した。宝永4年(1707年)に2万石の加増があり、前橋藩は15万石に復している。

酒井家は忠世、忠清が幕閣で重きをなし、忠清のときに酒井家の格式は頂点に達した。反面、幕閣での活動に専念せざるを得ず、そのために藩政を顧みる余裕はほとんどなかったといえる。
忠清の失脚によって酒井家の威光は急速に地に落ち、忠挙は幕閣入りすることもなく、そのために藩政に集中できた。
忠挙は生来学問を好み、儒教を政治の理想とし、綱紀粛正や諸制度の整備を行うことによって藩政を引き締めようとした。早くも襲封の翌年の天和2年(1682年)には新たに領奉行を設けて代官の監督を強化し、また家臣に対しても五ヶ条の戒告を発している。

また職人の帯刀を禁じ、農民や町人には士分に対する礼節を強調し、足軽以下の服装を定め、家臣には学問、武芸、倹約を要請している。
法令違反者は容赦なく罰したとされ、貞享4年(1687年)には分不相応な華美な婚礼をした家臣の知行を召し上げて、嫁方及び仲人を閉門にしている。
元禄2年(1689年)には検地を実施しているが、忠挙は農民の保護にも積極的に取り組んでおり、農繁期に人足を徴用することを禁止したり、赤城山大沼からの灌漑用水工事を企て、既存の広瀬、桃木両用水を改修して新田開発を行っている。

貞享2年(1685年)には社倉法をはじめたほか、前橋城下には町奉行を置き、市日も設定した。元禄年間からは玉村宿で馬市を開設している。
元禄4年(1691年)には城内三の丸に藩校好古堂を設け、元禄13年(1700年)には領内大胡に求知堂を建てて、学問や武芸を奨励している。
忠挙は宝永4年(1707年)11月に隠居するが、その後の藩主忠相、親愛を後見し享保5年11月に73歳で没している。

財政悪化と姫路転封

忠挙の隠居によって忠相が藩主となったが2ヶ月あまりで死去し、忠相の長子親愛が襲封した。親愛は襲封時15歳であり、祖父忠挙が後見した。
前橋藩は宝永7年(1710年)に幕府より伊勢長島新田の補修普請、正徳4年(1714年)に利根川と荒川の川浚いを命ぜられる。
一方で、このころには前橋城は城の西側を流れる利根川に浸食されて危険な状態となっていた。
親愛は享保5年(1720年)4月に親愛が隠居し、親本が藩主となった。忠挙の代の後半から財政が悪化の一途を辿り、親本の代には財政破綻はかなり表面化していた。

藩では財政の悪化に対して、数度に渡り倹約令を発布して支出の引き締めをはかり、貞享元年(1684年)には簡略奉行を置き財政救済に対処している。
元禄6年(1693年)には藩士の当主が幼少、病気療養中、無番などの場合は知行100石について1〜2両の役金を拠出させ、翌元禄7年には知行100石につき1分を藩に預託させる除金の制度を設けている。
しかし財政悪化に歯止めはかからず、元禄12年(1699年)8月には大暴風雨に見舞われて、倒壊家屋5千戸以上という被害を出し、藩士から知行高の応じて2〜5割の借上げを実施した。

さらに親愛の代での伊勢長島新田の補修で2万2千両の費用がかかり、借上げは恒常化していった。
藩では倹約令を厳しくしたものの財政の悪化はとまらず、享保20年(1735年)には知行200石以上に対して7割の借上げとなり、借金の才覚は各自で行えという申し渡しとなった。
このとき藩財政の不足は米6万1千表あまりで、借金の元利は3万両以上であったという。藩士への借上げのほかに年貢も増微され、延享2年(1745年)には農民の江戸藩邸への強訴も起きている。

さて、親本は享保16年(1731年)に27歳の若さで死去し、その弟の忠恭が急養子となって封を継いだ。
忠恭は元文5年(1740年)に大坂城代になる。寛保2年(1742年)に大洪水があり、領内の田畑は被害甚大となる。
その直後に上総国の2万石が上地となり、代って上野国群馬、勢多、碓氷各郡、伊豆国田方郡、播磨国加東、加西、多可など4郡、摂津国有馬、川辺ほか3郡などに領地が分散した。上方の領地は大坂城代の賄いのためである。

延享元年(1744年)に忠恭は西の丸老中に就任したため、上方の所領は上地されて上総、相模国内に領地替となる。延享3年(1746年)には老中首座となって再び領地替があった。
これらの領地替えは譜代藩においては珍しいことではなかったが、あまりに短期間に変動したために藩政の弱体化に繋がったことは否定できない。
また前橋城は利根川の浸食によって危険な状態となり、寛延元年(1748年)に本丸を放棄し本丸機能を三の丸に移転することに決した。

ところが翌寛延2年に酒井家は姫路15万石に転封となる。この転封は江戸詰めの家老犬塚又内らの画策といわれ、これは前橋の地が洪水で危機に瀕したことや、財政難からより豊かな地を求めたためとされる。
犬塚は寛延元年に姫路城主松平明矩が中風で倒れ、その世子朝矩が幼少であるために要地である姫路を任せられず、転封となることを聞きつけて家老本多民部左衛門や奉書目付岡田忠蔵とともに幕閣のあいだを奔走して姫路転封を実現させたといわれる。
しかし国家老河合定恒は、前橋は酒井家が家康から与えられた由緒の地であることを理由に転封に反対し、一旦は忠恭の説得で治まったものの、宝暦元年(1751年)7月10日に犬塚らを斬り殺して河合自身も自害した。

松平氏入封と川越移城

酒井氏と入れ替わって姫路から入封した松平氏は、家康の二男秀康を祖とする。即ち秀康の五男直基が寛永3年(1626年)に越前国勝山に3万石で封ぜられたのが初代であった。
以後、直矩‐基知‐明矩と代を継いだが、この家はことのほか転封が多かった。前封地の姫路まで9回、前橋への転封が10回目である。
姫路では9年ほど在封したが、寛延元年(1748年)に明矩が倒れて死去すると、後嗣の朝矩はまだ11歳であり、姫路を守るには幼少に過ぎるとの理由で前橋に移ってきた。

先に述べたように転封が多かった松平氏の財政は既に破綻を来たしていた。姫路時代にも大坂商人からの借金返済ができずに訴えられるほどであった。
前橋への転封費用も各自の才覚とし、才覚ができない場合は引き移りの遅延もやむを得ず、というありさまであった。
前橋入封時での借金は4万両を越えていたと言われているが、前橋領は姫路領より格段に収穫高が劣った。
姫路を100とした場合に前橋は6割程度しか収穫がなく、これが松平氏の財政悪化にさらに拍車をかけた。

もう一つの大きな問題は前橋城の修築であった。城の西側を流れる利根川に浸食され、すでに本丸は放棄せざるを得ず、三の丸への移転が酒井氏の時代に決められていたが、移転工事は未着手であった。
松平氏は入封後の宝暦2年(1752年)に領内に掛金を命じて辛うじて三の丸に移ったが、利根川の浸食は止まらず、やがて三の丸すら危険な状態となった。
さらに城下が数度にわたって大火に見舞われた。このために松平氏は宝暦13年(1763年)に城の状態を幕府に上申、明和4年(1767年)閏9月15日に川越への転封となった。
前橋はこれにより川越藩の分領となる。前橋城は明和6年(1769年)に廃城となって破却され、前橋分領は陣屋支配を受けることとなった。

分領の時代

松平氏の川越移城によって前橋付近の川越藩領は約8万石となった。川越藩の石高は当初15万石、のちに庄内への転封中止騒動によって17万石となったから、4割前後が前橋分領が占めていたことになる。
川越移城により城下商人は大きな打撃を受ける。文化14年(1817年)に前橋の町人は藩に対して帰城嘆願書を提出するが、それによれば最盛期には4700軒あった戸数が、800軒あまりに激減したとある。
さらに宝暦6年(1756年)、明和元年(1764年)、同4年(1767年)、明和7年(1770年)、安永9年(1780年)と大火に見舞われ、天明3年(1783年)7月には浅間山大噴火によって大きな被害を受けた。

これに続くのが天保の飢饉であり、前橋分領でも農村は荒れ人口は激減した。川越藩としても4割近くを占める前橋分領の危機を座視するわけにもいかず、本藩ともども改革を実施した。
文化13年(1816年)に襲封した松平斉典は勧農掛役所を設けて、勢多郡小暮村須田六郎左衛門以下5名を勧農掛付きに任じて、農村の復興を図った。
永続金制度と呼ばれる興農貸付、分家取立、他領からの農民勧誘などを積極的に行った結果、農村の荒廃は天保年間の終わり頃には解消し、人口も回復に向った。
また、寛政2年(1790年)には社倉制度を創設したほか、藩士救済の一環と藩財政補填のために藩営による無尽も行っている。さらに前橋分領で発展しつつあった、養蚕業にも力を入れている。

天保11年(1840年)に幕府は出羽庄内の酒井忠器を越後長岡へ、越後長岡の牧野忠雅を武蔵川越へ、武蔵川越の松平斉典を出羽庄内へそれぞれ転封することとした。これを三方所替えと称する。
この領地替は財政難に苦しむ川越藩主松平斉典が豊かな庄内への転封を願って画策したものされ、斉典はそのために将軍家斉の子を養子として迎え入れて、将軍家や幕閣と密接な関係を築いていった。
転封の命に驚いたのは酒井家で、庄内藩では準備を実施する一方で、忠器の嫡子忠発を中心にして江戸で裏面工作を開始した。

一方庄内では、新領主松平氏の誅求を恐れて財産保全策を図る一方で、百姓一揆を起こさせる奇策に出た。
藩の重役や庄内藩領酒田の豪商本間光暉らが動き、また庄内藩の富農も松平氏による苛政を恐れて協力的であった。秘密裏に組織された百姓代表一行は江戸に上り老中へ駕籠訴した。
このころ幕府内でも大御所となった家斉による閨閥政治に対して批判が高まり、また大広間詰めの外様大名や国主大名も酒井氏に対して同情的であった。
庄内の百姓の転封阻止運動はこれらに力を得て盛り上がり、ついに天保12年(1841年)7月12日に転封命令は撤回され、松平氏の思惑は実らなかったが、転封の中止により松平氏には2万石が加増された。

幕末の前橋

安政6年(1859年)の横浜開港は幕末期の前橋に、空前の活況をもたらすことになった。前橋分領では、このころ養蚕・製糸業が発展し、それが開港によって主要輸出品となり前橋に巨利を落とした。
これは幕末期の軍制改革と沿岸警備の負担に悩む藩の財政にも大きく寄与することとなった。このことは、やがて前橋城再築につながってくる。
もともと前橋から川越への移城は利根川の浸食が原因であり、原因さえ除去されれば前橋に居城するのが本来であると代々の藩主は考えていた。
すでに天保年間に郡奉行安井与左衛門によって、利根川の流路を変える大工事が成り、根本原因は取り除かれていた。

あとは再築資金であったが、ここに来ての前橋の好況である。前橋町民が好況を背景にして帰城運動をしたことは間違いないだろう。
加えて参勤交代制が緩和されたことも前橋城再築の動機になり、文久2年(1862年)12月に藩主松平直克は前橋城再築内願書を幕府に提出した。
このときは受理されなかったが、翌文久3年正月、同年7月と再三にわたり内願が出され、同年12月に再築移城が許された。
文久4年(1864年)正月に着工され、3年3ヶ月余りを費やして、慶応3年(1867年)に一応の竣工を見る。しかし半年後には版籍奉還を迎えるのである。

一方、松平氏は家康二男の流れを汲む譜代の名門であり、直克は佐幕であったといわれる。文久3年(1863年)9月に幕府用談所への出仕を命ぜられ、10月には政事総裁となり、元治元年(1864年)には将軍家茂とともに京に上っている。
この頃の直克の考えは、開港場を長崎、箱館の2港として横浜は鎖港とし、攘夷派を押えつつ朝廷に対して幕府の立場を守るというものであった。
しかし水戸斉昭や幕閣は直克の案に反対し、直克は免職とされ、その後は幕府とは距離を置くようになった。
ただ、江戸湾内台場警備や水戸浪士討伐への出兵など幕命には素直にしたがっている。

慶応4年(1868年)将軍慶喜が江戸に戻ると、直克は将軍家の善後処理について建言し、上京して朝廷に対して徳川家の相続について寛大な処置を願っている。
同年閏4月に前橋に帰城、東山道総督に恭順し上野一円の鎮撫を命ぜら、三国峠や会津国境で会津軍と戦火を交えている。
明治元年10月に江戸市中の会津軍残党の取締りを命じられる。一方、戊辰戦争が終結をみた前橋では養蚕や製糸業の近代化が急速に進み、これが明治初頭の前橋を支えることになるが藩はまだ新しい前橋城とともに廃藩置県により消え去った。

参考文献:江戸三百藩主人名事典(新人物往来社)、新編物語藩史(新人物往来社)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ
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