歴史の勉強

一宮藩

藩主 在任 石高(万石) 特記
加納久儔 文政9.3〜天保13.10
1826〜1842
1.3 文政9.3に陣屋を伊勢東阿倉川から移す
加納久徴 天保13.10〜元治元.3
1842〜1864
1.3  
加納久恒 元治元.5〜慶応3.7
1864〜1867
1.3  
加納久宜 慶応3.10〜
1867〜
1.3  


上総国一宮藩は江戸後期の文政9年(1826年)3月に成立した。この地は大多喜藩領などを経て伊勢国東阿倉藩(八田藩)が成立すると、その飛領となった。
東阿倉藩であった加納氏はもともと和歌山藩士で、松平頼方(徳川吉宗)の側近であった。吉宗が八代将軍になると、そのまま幕臣となり、二度の加増によって万石に達し諸侯となった。
加納氏は参勤交代をしない定府大名で、久通は吉宗の信頼も厚く、常に吉宗の側にあって享保の改革を推進した。そのために江戸近くに領地を与えられ、それが一宮領であろう。
加納氏の陣屋は五代の久儔のときに上総国長柄郡一宮本郷村に移され、以後一宮が本拠となったために一宮藩が成立し、伊勢の地が飛領となった。

久儔は岩堀市兵衛らを用いて面積2万余坪の洞庭湖という灌漑用水を築くなど農政を重視し、天保9年(1838年)には天保の大飢饉で苦しむ領民を囲米で救った。
次の久徴は若年寄となり、和宮降嫁の際には江戸までの警護役を勤めるなど、幕末期の幕府中枢で活躍した。
また幕府の海防政策により、領地の海岸に武士溜陣屋を設けて訓練を行ない、弘化元年(1844年)には他藩に先駆けて海岸砲台を設けた。
文久3年(1863年)に九十九里地方で真忠組の騒乱が起きると、佐倉藩、多古藩、福島藩とともに出兵してこれを鎮圧した。

久徴の跡を継いだ久恒は上野七日市藩主前田氏から養子であったが、在封わずか3ヶ月で死去し、筑後三池藩主立花種周の五男種道が急養子となって久宜と名乗り最後の藩主となる。
久宜は、戊辰戦争では当初は態度を明確にせず、徳川慶喜の助命嘆願運動に加わる決意をしたが、新政府軍の東進により恭順に転じ、駿府の東征大総督に籾2千俵を献納した。
廃藩置県後久宜は、貴族院議員、鹿児島県知事などを歴任し、産業組合、帝国農会、日本競馬会創設に尽力し、日本農政の父と称される。

参考文献:江戸三百藩主人名事典(新人物往来社)、藩と城下町の事典(東京堂出版)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ
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