歴史の勉強

谷村藩

藩主 在任 石高(万石) 特記
鳥居成次 慶長6~寛永8.6
1601~1631
3.5 慶長6(1632)新封
鳥居忠房 寛永8.6~寛永9.6
1631~1632
3.5 改易
秋元泰朝 寛永10.2~寛永19.10
1633~1642
1.8 上野総社より
秋元富朝 寛永19.12~明暦3.6
1642~1657
1.8  
秋元喬知 明暦3.10~宝永元.12
1657~1704
1.8 武蔵川越へ

甲斐国は国中3郡(山梨・八代・巨摩)と郡内と呼ばれる都留郡に分かれる。古くから都留郡の中心が勝山城(谷村城)であった。
秀吉時代に加藤光泰が甲斐を領した時代、谷村地方は加藤光吉が城代として治め、文禄2年(1593年)に加藤光泰の死去により浅野氏が甲斐に入ると、谷村は浅野氏重が城代として支配した。
氏重は谷村地方を検地したが、その石高は1万8千4百石余りであったという。関ヶ原役後に浅野氏が紀伊に移ると鳥居成次が谷村に入り1万8千石を領した。
成次は関ヶ原役で伏見城を守り戦死した鳥居元忠の三男で、自身も関ヶ原役で活躍し、その功によって谷村を与えられた。
その後7千石を加増された成次は、元和2年に駿府55万石を領する将軍家光の次弟忠長の付家老となり、さらに1万石の加増を得る。
寛永8年に成次が没し、長男の忠房が跡を継ぎ、同時に忠長の家老職も受け継いだが、翌寛永9年に忠長が改易されると忠房もそれに連座する形で改易され、忠房は宗家である出羽山形藩主鳥居忠恒に預けられ、谷村藩はいったん廃藩となった。

寛永10年(1633年)に上野総社から秋元泰朝が1万8千石で転封されてくる。元来谷村地方は耕地が狭く、そのために生産性が低かったために泰朝は前任地の上野国から技術者を招き郡内絹の育成を図り、用水の開鑿を行って、城下の整備も兼ねて谷村大堰を開いた。
泰朝の跡を富朝が継ぎ、さらに喬知が継いだ。喬知は領内整備に意を注ぎ、先々代泰朝の奨励した養蚕をもとに郡内織を盛んにしたが、一方で検地を行って農民の反発を招き寛文7年(1667年)3月には農民2千人が参加する一揆が起きた。これは検地による年貢の増加と堰水料など新税に反対するものであった。
また、延宝8年(1680年)以降は凶作が重なり、八公二民とも言われる重税の結果、天和元年(1681年)に越訴が起きて7人が死罪となった。
喬知は領内統治には誅求をもってしたが、幕閣では奏者番、寺社奉行、若年寄と順調に出世し元禄12年(1699年)10月に老中となった。
その後宝永元年(1704年)12月に武蔵川越に転封され、将軍綱吉の寵臣柳沢吉保が甲府に入り都留郡も領有したために谷村藩は廃藩となった。

参考文献:江戸三百藩主人名事典(新人物往来社)、藩と城下町の事典(東京堂出版)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ
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