歴史の勉強

甲府藩

藩主 在任 石高(万石) 特記
浅野長政 文禄2.11~慶長5.10
1593~1600
5.5 幸長と合せ甲斐一国を領す
紀伊和歌山へ
浅野幸長 文禄2.11~慶長5.10
1593~1600
16.0 長政と合せ甲斐一国を領す
紀伊和歌山へ
徳川義直 慶長8.1~慶長12.閏4
1603~1607
25.0 尾張名古屋へ
徳川忠長 元和2.9~元和8
1616~1622
23.8 改易
徳川綱重 寛文元.閏8~延宝6.9
1661~1678
25.0  
徳川綱豊 延宝6.9~宝永元.12
1678~1704
25.0 将軍家養嗣子となる
柳沢吉保 宝永2.3~宝永6.6
1705~1709
15.0 武蔵川越より
柳沢吉里 宝永6.6~享保9.3
1709~1724
15.0 大和郡山へ

関ヶ原以前の甲斐

室町時代より武田氏が治めた甲斐は、天正10年(1582年)3月武田氏の滅亡によって織田信長の代官河尻秀隆が支配した。
しかし3ヶ月後の同年6月に信長が本能寺に斃れると、河尻の支配が暴力的だったこともあり、領民の反発は凄まじく、河尻秀隆は領民たちによって殺されてしまう。
その後の混乱期に駿・遠・三3ヶ国を領していた徳川家康が甲信2国に侵入、甲斐では武田家の遺臣の所領安堵を約束して、その版図に組み入れた。

天正10年(1582年)12月に家康は平岩親吉を甲斐郡代として、それまで城らしい城がなかった甲斐国内への築城を開始した。
また同時に領内検地(伊那熊蔵によって甲斐九筋と呼ばれる甲府盆地に対して行なわれ、熊蔵縄といわれる)を行なった。
だが天正18年(1590年)8月に家康が関東に移されると、甲斐には豊臣秀吉の養子秀勝が入国する。秀勝は半年ほどで美濃に移り、加藤光泰が入る。
光泰は文禄2年(1593年)8月に渡鮮中に陣没し、同年11月に浅野長政父子が甲斐に入る。

秀吉は長政に対し検地を命じ、これに対し農民は抵抗し逃散する者もあったというが、検地は強行された。これを弾正縄というが、この結果甲斐国の石高は22万5千石とされ、うち秀吉蔵入地(直轄領)1万石、長政に5万5千石、嫡子幸長に16万石と配分された。
また、浅野氏の代には甲府城がほぼ完成し、城下の整備も行なわれた。甲府の町は武田氏の旧城下を中心とする北側を古府中、それに対し新たに作られた南側を新府中と呼ぶようになった。

江戸初期の支配体制

慶長5年(1600年)関ヶ原役によって、徳川家康が天下人ととなると甲斐の領主は変わる。甲斐に秀吉が秀勝や光泰、長政父子を封じたのは、関東の家康への牽制であった。
秀勝も長政も秀吉の縁者であり、光泰は尾張時代から秀吉と親交があり早くから秀吉に仕えている将である。
それら腹心を甲斐に入れ、山を隔てた背後から関東を牽制したいてのである。

家康が江戸に幕府を開いても、甲斐の戦略的な重要性は変わらなかった。
江戸幕府の方針は江戸が危急の時には、江戸城裏手の半蔵門から甲州街道を逃げ、甲斐に入って防戦するというものであった。
四方を山に囲われた甲斐国は確かに防ぐに適していたし、地形自体が防壁になっていた、天然の城であった。
武田信玄の戦略思想もそれに近いものがあり、為に信玄は甲斐に強固な城を築かなかった。

さて関ヶ原戦後、浅野父子は紀伊和歌山に移され、甲斐は徳川領となる。甲斐は中央を南北に走る山々によって、西側の国中3郡(山梨・八代・巨摩)と郡内と呼ばれる都留郡に分かれるが、そのうち甲府藩のおかれた国中には甲府城代として再び平岩親吉が入城した。
また、その下の国奉行には大久保長安が任命された。長安は慶長6年(1601年)から翌7年にかけて甲斐一国の検地を行う。
これは石見検地といわれ、これによる甲斐国内の総石高は23万8千185石とされた。

大久保長安は天文14年(1545年)猿楽師金春喜然の二男として生まれ、武田信玄に仕え、武田家の滅亡によって家康に仕えた。
鉱山開発や地方行政に手腕を発揮して栄進し、金山奉行として全国の金銀山の開発と管理を一手に握ったが、その死後、職務に不正ありとして遺族は死罪、財産は没収された。
大久保長安は当時の幕府の実力者大久保忠隣の庇護下にあり、姓の大久保も忠隣から与えられたものであるが、長安事件の背景には幕閣での実力者であった忠隣と本多正信の対立があるとされている。

この間、甲斐には家康の九男義直が慶長8年(1603年)に25万石で入るが、幼少のため親吉の後見を受けた。
義直は慶長12年(1607年)に尾張に移り、後見であった親吉も同時に尾張犬山城に移った。
これにより甲府は武川筋、逸見筋の諸士12人をもって城番とし、2人づつ10日交代で甲府城を勤番させることになった。

徳川忠長とその後

大坂の陣が終わった元和2年(1616年)に甲府は二代将軍秀忠の三男で、三代将軍家光の次弟にあたる忠長の所領となる。
忠長は駿河大納言と呼ばれ駿府に居したが、寛永8年(1631年)に家光によって改易され、甲府は再び城番時代となった。
忠長の改易の理由は行いを咎められたとあるが、将軍の座を狙った陰謀説や、兄家光が自身より聡明な忠長を嫌ったとする説など諸説ある。

忠長改易後に最初に城番に任じられたのは大久保忠隣の弟忠成で、そのあと宝永10年(1633年)伊丹康勝が勤めた。
康勝は山梨郡に1万2千石を領有して十組(徳美)に居館を構え、これが徳美藩となる。
寛永13年(1636年)に伊丹康勝は城番を辞し、以降は上級旗本が2名づつ交代して在番する年番制となり、これが寛文元年(1661年)まで続く。
この間に盛んに新田開発が行なわれ、代官触頭平岡和由、良辰父子の功績が大とされる。巨摩郡竜王村の富竹新田や金竹新田のほか茅ヶ岳山麓の浅尾原においても新田を開いた。

桜田領の時代

寛文元年(1661年)になると三代将軍家光の三男徳川綱重が甲府に入る。所領は巨摩郡と笛吹川以西の山梨郡を合せたいわゆる河西14万石と武蔵、信濃、近江、駿河の国の内であった。
綱重は延宝6年(1676年)に死去し、跡を綱豊が継ぐ。綱豊は宝永元年(1704年)五代将軍綱吉の養嗣子となり、江戸城に西の丸に入る。
この綱重、綱豊時代の所領は桜田領と呼ばれた。将軍連枝であるため綱重も綱豊も甲府には住せず、実際は江戸の桜田邸に居住したために、こう呼ばれるのである。

綱重、綱豊時代は家老新見正信の時代でもあった。新見正信は甲府家の創立に伴って家老に任命された。
綱重は家臣田中治兵衛の女を寵愛し、この女が虎松、のちの綱豊を生んだ。その後綱重は二条関白家から正室を迎えることとなったが、憚りありというので虎松は新見正信が養育することとなった。

しかし綱重には男子が生まれず、結局新見左近と名乗っていた虎松を継嗣とすることとなった。この時に甲府家の島田時郷、太田吉成の二家老が、新見に実子を左近と偽って養育したとして幕府に訴え出る騒動が起きている。
島田、太田の両家老は配流となったが、綱重の新見への信任はますます厚くなり、甲府の実質的な支配は新見を中心に進められていく。

新見がまず行なったのは、損壊が目立つ甲府城の修築であり、これには幕府から2万両が普請料として与えられた。城下町の整備では、町年寄を置き五箇条からなる仕置を布れている。
また寛文5年(1665年)に江戸の商人徳島兵左衛門により起工された徳島堰、翌寛文6年に同じく江戸の商人野村宗貞により着手された楯無堰、さらに寛文9年(1669年)には杉村七郎右衛門によって穂坂古堰の開削が始められている。
徳島堰は武川筋の釜無川の右岸一帯、西郡筋の御勅使川扇状地を灌漑する工事で、寛文11年(1671年)完成、楯無堰は塩川の水を引き入れ竜地村など8ヶ村を灌漑する工事で、これらによって多くの新田が開発された。

一方でこの時期、新田開発と歩調を合せるように検地が実施されている。寛文4年(1664年)頃から始められた桜田領の検地によって、新たな打出しに加えて、年貢率が引き上げられたうえ、年貢上納の期限が繰り上がり、農民の利息分の負担も増えた。
これらにより一揆が起き、江戸桜田屋敷への門訴となり、結局代官2名が改易、家老新見正信も失脚して流罪となったとされるが、領民の要求がどの程度入れられたのかは明らかでない。

柳沢氏の時代

宝永元年(1704年)に綱豊が将軍綱吉の養嗣子となると、甲府には綱吉の側用人柳沢吉保が15万石で入部した。
これまで徳川一門以外に入ったことがない甲府の地に入った吉保は感激して
「めぐみある 君につかへし甲斐ありて 雪のふる道今ぞ踏みみん」
と詠んだという。

柳沢氏は甲斐源氏であり武川衆の出で、吉保の祖父信俊は武田家に仕え、のちに家康に従った。
吉保は綱吉の小姓を勤めて気に入られて栄達、ついには大老格となって幕政を牛耳るまでになった。
だが、吉保の権勢は将軍綱吉の信任あってのものであり、宝永6年(1709年)に綱吉が没すると瞬く間に権力を失い、その専横に対する避難のみが残った。
吉保は同年に致仕して保山と号し、江戸の別邸六義園に隠棲し、柳沢の家督は嫡子吉里が継いだ。

吉里は享保9年(1724年)に大和郡山に転封となる。
柳沢氏は比較的善政を敷いたらしく、入封後に甲府城修築、城下町整備、永慶寺の建立などが吉保の事績として挙げられている。
吉里の代には、綱豊時代から始められた穂坂堰の完成が事績として挙げられる。これによって茅ヶ岳南麓の地が開かれ、新田高は2千3百石余りになったという。
また、この間養蚕業、ブドウ栽培、煙草栽培などが商業的な活動に乗り始め、特に煙草は農民にとって重要な商品作物であったとされる。

甲府勤番

柳沢氏が大和に移封された後、甲府は明治に至るまで天領となった。甲府には勤番が置かれ直轄領となった甲斐を支配した。
甲府勤番は幕府の職制であり、老中の支配の下、定員2名、役高3千石で追手と山手に分かれていた。
配下には組頭4人、勤番士2百人、与力20騎、同心百人、小人20人がいて、甲府城の守備と城下の政務を司った。
甲府勤番は小普請組の旗本が多く任命され、甲府勤番を最後に役職から退くケースが多く、素行不良者の懲戒的な意味で任命する場合や、余剰幕臣の受け皿ともされ、左遷人事と見られていた。

一方、地方支配は甲斐国中をほぼ三等分する形で甲府、上飯田、石和に陣屋を置いて、代官が支配した。
このうち上飯田陣屋は天明7年(1787年)に廃止され、変わって市川大門村に置かれていた駿府出張陣屋が本陣屋となった。また郡内地方の谷村には石和代官所の出張陣屋が置かれた。
また、天領とは別に甲斐国内には田安、一橋、清水の御三卿領が散在した。幕末にはこれら支配地のいずれでも一揆が相次ぎ、支配地の別なく無宿悪党を取り締まるなど、その対策に追われた。

参考文献:江戸三百藩主人名事典(新人物往来社)、新編物語藩史(新人物往来社)、藩と城下町の事典(東京堂出版)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ
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