歴史の勉強

津藩

藩主 在任 石高(万石) 特記
富田信広 文禄4.7~慶長4.10
1595~1599
5.0  
富田知信 慶長4.10~慶長13.8
1599~1608
7.0 慶長13(1608)伊予宇和島へ
藤堂高虎 慶長13.8~寛永7.10
1608~1630
32.3 慶長13(1608)伊予今治から
藤堂高次 寛永7.11~寛文9.9
1630~1669
32.3  
藤堂高久 寛文9.9~元禄16.4
1669~1703
32.3  
藤堂高睦 元禄16.6~宝永5.10
1703~1708
32.3  
藤堂高敏 宝永5.11~享保13.4
1708~1728
32.3  
藤堂高治 享保13.6~享保20.8
1728~1735
32.3  
藤堂高朗 享保20.9~明和6.2
1735~1769
32.3  
藤堂高悠 明和6.2~明和7.閏6
1769~1770
32.3  
藤堂高嶷 明和7.閏6~文化3.8
1770~1806
32.3  
藤堂高兌 文化3.9~文政7.12
1806~1824
32.3  
藤堂高猷 文政8.2~明治4.6
1825~1871
32.3  
藤堂高潔 明治4.6~
1871~
32.3  

安濃津藩とも呼ばれる津藩は伊勢中部の津周辺と伊賀一国、大和と山城相楽郡の一部を領した外様大藩である。
津は慶長5年(1600年)の関ヶ原役当時は富田氏が5万石を有していたが、慶長13年(1608年)に伊予宇和島に転封となった。同時に伊賀上野で20万石を領していた筒井定次は乱行を理由に改易され、変って伊予今治から藤堂高虎が、津周辺及び伊賀一国、大和・山城・伊予の一部合わせて22万石で入封した。
高虎にはその後加増があって、津藩は最終的には32万3千石となり、藤堂氏は幕末まで津藩主として続いた。
なお、三代高久の時に5万石で支藩久居藩を立藩している。久居藩は封地を持ち参勤もした独立した藩であったが、石高は津藩領の内高として扱われる。

高虎入部前の伊勢・伊賀

伊勢の地は戦国末期には国司から戦国大名化した北畠氏が割拠していたが、織田信長の侵攻にあって事実上滅亡して織田領に組み込まれた。
信長は二男信雄に北畠氏を継がせて、伊勢を領有させたが信長死去後秀吉の時代になると信雄は秀吉の不興を買い改易される。
津周辺は織田氏の一族信包が領有していたが、文禄年間に近江に減知転封され、後には秀吉側近の富田信広が5万石で入った。

信広は慶長4年(1599年)に死去し、跡を知信が継ぐ。知信も秀吉の信頼が厚く朝鮮戦役でも活躍したが、秀吉死去後は家康に接近した。
家康の会津討伐が発向すると討伐軍に従軍し東下した。その間に西軍の毛利秀元ら3万の大軍に津城は包囲された。
急ぎ引き返した知信は津城に入り籠城し、城下の大半も焼失するほど激しい戦いとなるが、衆寡敵せずに開城し高野山に入る。
戦後家康により2万石を加増され7万石となり、慶長13年(1608年)に5万石加増のうえ伊予宇和島に転封された。

一方伊賀は戦国末期には北畠氏の勢力も及んでいたが、土豪が割拠していた。信長の伊勢侵攻により信長の勢力圏となり、北畠信雄が伊勢とともに領有した。
信雄改易後は、大和から筒井定次が入り伊賀一国20万石領主となった。定次は関ヶ原役でも東軍につき会津討伐軍に加わるが、その間に西軍の近江柏原城主新庄直忠に居城上野城を攻撃された。
急ぎ引き返した定次は上野城を占拠した直忠を追い出し、城を取り戻し、戦後本領を安堵される。しかし、慶長13年(1608年)に乱行を理由に改易された。

高虎の入部

慶長13年(1608年)8月に伊予今治から藤堂高虎が津に転封されてくる。実質的に津藩はここから始まるといっていい。
高虎の封地は伊賀一国10万540石、伊勢安濃郡・一志郡で10万400石、伊予越智郡内で2万石の合計22万石余りであった。
この転封は家康の意向によるものであった。家康はこの時期、大坂城に拠る豊臣秀吉を滅ぼし、徳川幕府の後顧の憂いをなくすことに没頭していた。
そのための大坂城攻撃の際、敗れたときは家康は伊賀上野城に引き、秀忠は井伊家の城下である彦根に引く事を考えていた。

この戦略のために高虎は入国早々伊賀上野の城と伊勢津の城の整備修築にかかる。
高虎は、築城技術に長け居城だった板島(宇和島)、今治などのほか丹波篠山、膳所城などを築城し、江戸城の改築にも手腕を発揮していた。家康がこの時期、高虎の築城技術にも着目したの当然であった。
高虎は特に上野城に対しては根城とし、東西13間南北11間の五層の天守を持つ城を築いたが、慶長17年(1612年)完成直前に畿内襲った暴風雨で倒壊した。
上野城の天守は再建されることなく、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣を迎え、高虎も家康の命により大坂に向かう。

冬の陣ではさしたる戦闘はなかったが、翌元和元年(1625年)の大坂夏の陣では兵5千を率いて参陣し、先鋒となり長宗我部盛親、増田盛次の隊と激戦に及び多くの武将を失ったが、家康方勝利に貢献した。
戦後この功に対して伊勢鈴鹿・安芸・三重・一志郡内で5万石を加増され27万石となった。
高虎は知られているように外様でありながら譜代扱いを受けるほど家康、秀忠に信頼されており、何事も公儀つまり徳川家第一に考えて忠勤を励んだ。

時としてその姿は阿諛追従に映り、嫌悪感を抱かれもしたが、戦国末期を生き抜いた武将としては一つの生き方であったろうし、文字通り槍一筋で国持大名にまでなったのだから大成功者であったことは間違いない。
それが家康の死去の際にも表れていて、大坂夏の陣が終り安心したかのように家康が病床に伏すと、高虎は家康が拠る駿府に駆けつけ病床に侍り看病した。

家康の死と晩年の高虎

家康が没すると天海僧正と議して日光東照宮を築き、家康の遺体を久能山から改装し、下って寛永4年には江戸上野忍ヶ丘の下屋敷の邸内に東照大権現を祀る。
これら多年の功績に対し元和3年伊勢度会郡田丸5万石が加増され、津藩の表高は32万石となった。この時に弟正高が下総で拝領していた3千石を津藩領に加算している。
なお、田丸5万石は元和5年に和歌山に徳川頼宣が移風されてくると和歌山藩領となり、替地として大和と山城に5万石が与えられた。

その後も高虎は秀忠・家光に対し忠勤を励み、その信頼は厚く、江戸柳原の藩邸にはしばしば秀忠や家光が訪れ、また江戸城へ呼ばれることも頻繁であった。特に秀忠が催す夜話会には必ず出席した。
元和9年(1623年)ころから眼疾に罹り、寛永7年(1630年)には完全に失明した。寛永7年(1630年)10月5日徳川家に忠勤を励み、外様ながら譜代以上に信頼を得た高虎は江戸において死去、75歳であった。

この高虎の考え方は晩年の寛永2年(1625年)に世子高次の与えた「条々」19か条にもよく表れている。
公儀に対する御奉公第一や孝行の道を忘れるななどの基本的な精神から軍役・合戦の心構え、日常の生活、藩主の心得などが掲げられている。
この「条々」は太祖遺訓と呼ばれ、以後の藩政に影響を与えた。骨子となるのは封地は公儀からの預かり物であり、したがって公儀への奉公の精神を忘れず、将軍家や幕閣要人とは常に昵懇にすべしとの主旨で、これが以後の藤堂家の政治姿勢の基本となる。

名張藤堂家

その姿勢は高次襲封後の寛永12年(1635年)江戸城二の丸修築工事、寛永16年(1639年)江戸城本丸火災焼失後の修築などに表れている。
高次が家督をついですぐの時に、高吉の問題が起きた。高吉は丹羽長秀の三男で、天正16年(1588年)に当時高虎の主人であった羽柴秀長の養子になり、その後子がなかった高虎の養嗣子となった。
しかし高虎に実子高次が生まれると嫡子を廃され、高虎が津に転封となった際に飛び地として残された伊予越智郡で2万石を領することになる。

高虎としては伊予の飛び地の城代の意識であったが、高吉は2万石の大名との認識であった。
高次が家督を継いだ際には、高吉の動きを牽制し、葬儀に列席する為に伊予から出てきた高吉を近江水口で止め帰国させている。
この伊予の飛び地は寛永12年(1635年)に伊勢多気・飯野郡内の2万石と交換され、これにより高吉の高次への臣従は決定的となった。
高吉は伊賀名張郡内に2万石を与えられ、名張藤堂家の祖となる。2万石とはいえ身分は藤堂家の重臣に過ぎず、これが名張藤堂家の不満となり、やがて名張家は独立事件を起こす。

時代は下るが享保20年(1735年)5月六代藩主高治の時のこと、名張藤堂家の5代目の長煕が江戸参勤ができるように幕府要路に働きかけるという事件を起こす。
参勤交代をするということは大名になるということで、宗家にすれば到底許すことは出来ず、この事件を知った高治は長煕を隠居させ、名張藤堂家の家老三人に切腹を命じた。
この後名張には目付を置いて名張家の監視を強めた。この事件は享保騒動とも名張騒動とも呼ばれ、御家騒動とは無縁だった津藩の歴史の中で最も大きな政治的事件であった。

初期の藩政

江戸期になると遅かれ早かれ各藩は財政難に見舞われるが、津藩の場合は二代高次の頃に早くも財政の窮乏化が表れた。
高次の治世は寛永7年(1630年)から始まるが、直後から度々凶作や飢饉が続き、寛永18年(1641年)には大雪とも重なって葛や蕨も掘り出せない事態となる。
津藩では先代高虎の代の慶長14年(1609年)から定免制が適用され、それも同年の「定条々」で四ツ成、つまり米のできに関係なく年貢率は検地高の40%と決まっていた。

ところがこの寛永18年は伊賀では未進米2千石に達し、米の出来不出来に関係なく一定率を収める定免制が適用できず、収穫高を基準とする検見法によらざるを得なかった。
この寛永年間の飢饉の衝撃から、次の慶安年間には農政に力を入れた。慶安年間には寛永の飢饉状況を活かした法令が一気に発布され、慶安2年(1649年)には農村調査である「家並改め」が実施された。
さらに西島八兵衛を起用して川除普請を行い新田開発進めた。八兵衛は雲出井と呼ばれる長大な用水を完成させて旱害を防止し、さらに山中為綱も高野井を改修して今までの4倍強の灌漑を行い新田を開発した。

また伊賀では新たに溜池29ヶ所が作られ、15ヶ所が修築された。これらにより承応2年(1653年)に検見法から定免制に再び切り替えが行なわれた。しかしこの定免制への切り替えは新たな問題を生んだ。
津藩では慶安2年(1649年)の「家並改め」を基礎に平高(ならしだか)が作られ、それに年貢率がかけられていた。
平高は検見法が常態となったために、「家並改め」までの間の年貢額を平均して、その年貢高が40%になるように村高を変化させたものである。

つまり年貢の平均額を割り戻して村高を変えたわけで、これによって多くの村で村高が増加した。そこで定免制に戻したから極端な例では年貢高が90%近くになる村までもあった。
これは他藩では見られない方法で、津藩独自のものであった。これら新田開発や強引とも言える年貢増進策が行なわれたが藩財政は悪化し好転しなかった。
こうしたなか、高次は万治元年(1658年)に1万1500両を投じて江戸染井に別荘を作り、また焼物に凝って伊賀に窯業場を設け藤堂焼、大学柄という陶器や金工細工を行い大名や家来に与え、骨董品を買い漁ったとされる。
これは当時の世相から、公儀に対してたわけ者であると思わせるために策であったというが、これらの浪費により藩財政の悪化に拍車をかけたことは事実である。

三代藩主高久

高次は寛文9年(1669年)9月29日に嫡子高久に家督を譲り隠居し、延宝4年(1676年)11月16日76歳で没した。
高次を継いだ三代藩主高久は、悪化した財政に対処するために藩主となった翌年の寛文10年(1670年)から5年間、藩士に対し禄米の10%の分掛かり、つまり給与カットを実施している。
延宝6年(1678年)には藩士が藩から借金することを禁じ、延宝8年(1680年)には江戸詰めの藩士に木綿着用を強いている。さらにこの年には6分の1の分掛かりとなり、給与カット率は16.6%になった。

この間、延宝5年(1679年)には催合金(もやいきん)制度が実施された。これは、藩士を高利貸から守るための貸付制度で、資金は藩と町人富裕層からの借上げで賄い、無利息で藩士に貸し付けた。町方からの借入利息は藩が負担した。
民間資本を導入しての藩士救済制度ではあったが、無利息ながら貸付期間は一年間に限られたために、利用できない層も多く、そのために御用金制度として小臣向けの少額貸付制度もはじめた。
さらに貞享3年(1686年)からは利息だけ払えば元金は繰り延べられる袖判拝借制度も導入する。これらはすべて給与カットされて窮した藩士を救うためのものであった。
特に江戸詰めになった場合は、別居生活を強制されたうえ江戸での消費経済に巻き込まれて困窮する藩士が多く見られたようである。

一方農村に対しても新田開発を推進するほか、裏判金という低利での融資制度を開始した。さらに延宝5年には百姓成立仕置令を発布し農政の基本方針を示し、さらに領内に三か条の判物を出した。
この三か条は一条目は褒美、二条目は罪科、三条目は処罰となっており、孝行や精勤を褒め不孝や怠惰を戒めている。その根底には公的な立場として百姓を見ることを求めている。
そのほか延宝9年(1681年)には36か条に及ぶ「定」が出されて法制が整備されていった。

このような中で伊賀において銅山開発事業への投資が失敗するという事件が起きた。
これは上野の城庁が独断で行なったもので、年貢米を不正に流用して備中の石塔山の銅山開発に投資したが事業の見込みが立たず、また投資も回収できずに、結局損失を出してしまったもので、損失は1万2500俵余りにも上った。
この事件で上野の加判奉行加納藤左衛門と石田清兵衛が切腹、その子は斬罪、両人の弟は暇となった。さらに普請奉行の佐藤治部右衛門と服部少左衛門は追放、ほかにも多くのものが処分された。
投資は失敗に終わったが、動機とするところは財政難への対処であり、逼迫した財政が上野城庁の焦りをよんで独断に走ったものと考えられる。

藤堂家の家風は公儀第一であり、高虎・高次ともそのことを何度も繰り返して述べている。高久も公儀第一の考えをもち、幕府の要職者への接近を心がけた。
高久の正室は下馬将軍とも言われた大老酒井忠清の娘であり、これも公儀随一の実力者との間に縁戚関係を築く手段であった。
しかし五代将軍綱吉が就任すると忠清は失脚し、実力者は綱吉将軍の実現に功あった堀田正俊になる。高久はすぐに正俊に接近、その正俊も江戸城中において暗殺されると、次の実力者老中阿部正武や側用人牧野成貞に接近した。

また綱吉側近の柳沢吉保が幕府随一の実力者となると、吉保はじめその家族や家臣にも頻繁に贈り物をし、池田綱政(備前岡山藩主)、細川綱利(肥後熊本藩主)、松平頼常(讃岐高松藩主)などとともに「柳沢家の玄関番」と陰口を叩かれたが、これも藤堂家伝統の世渡り術の表れともいえる。

久居藩と藤堂出雲家

高久が元禄16年(1703年)4月に66歳で死去すると、四代藩主には高睦が就いた。高睦は支藩である久居藩の出身である。
久居藩は、二代高次が高久に家督を譲る際に二男高通に5万石を分与して立藩した。これは宗家が無嗣の場合に家系が絶える危険を回避するためのもので、ほかの大藩でもよく見られた。
久居藩の場合は独立した領地を持ち陣屋も構えていたが、あくまで津藩の内高として扱われた。以後宗家に子がない場合は久居藩から津藩主になる場合が多く見られる。

また伊勢・伊賀・大和・山城に封地がまたがっていた津藩では、津に家老を置いて伊勢を統括させ、伊賀は上野に城代を置いて伊賀一国を統べさせた。
上野城代は初期には高虎の弟高清から始まる藤堂出雲家が就くが、のちに家臣の藤堂采女家が世襲した。また大和山城には城和奉行を置いて、統治をさせた。
これが津藩の統治体制であり幕末までこの体制が続く。

高睦は久居藩二代目から宗家の高久の養子となって、高久死去を受け家督となった。また久居藩のほかに先に書いた出雲家という高虎の弟高清から始まる家があった。この出雲家は久居藩同様に藤堂宗家の相続に深く関った家であった。
六代高治はこの出雲家の出であり、享保8年(1723年)に養嗣子として久居藩を継ぎ、久居藩主として5年間を過ごし、その後宗家を継いで津藩六代藩主となった。七代高朗も出雲家の出身で、久居藩四代藩主から津藩六代藩主となった。

九代藩主高嶷

九代高嶷は久居藩主であったが、八代高悠が在任わずか1年で死去すると、宗家をついで津藩九代藩主となった。
なお、高嶷は高悠の兄ではあったが高悠は正室の子であり、高嶷は庶子であった。このために高嶷は久居藩を継いだが、高悠が病弱であったためにその養嗣子となったものである。
高睦から高嶷の時代は元禄期から寛政期にあたり、華やかな元禄時代から寛政の改革という倹約の時代に世の中も大きく動いていった時期である。
津藩ではすでに財政難であり、これに対して藩では積極的な対策は何も打てなかった。

農村政策や金融政策など対処療法的な政策は行ったが、所詮藩財政の好転に繋がるものではなく、凶作や公儀普請の手伝い、江戸大火での藩邸焼失などの事故や災害などによる出費も大きく、財政状態は年々悪化の一途をたどった。
九代高嶷はそのような状態にかなりの危機意識を持って臨み、寛政元年(1789年)に岡本景淵を加判奉行に、翌寛政2年には茨木重謙を郡奉行に任命して藩政改革にあたらせた。

改革は倹約令を基本に、菓木(果樹・徳用樹・徳用作物)の栽培を中心とする殖産振興、切印金の据置や返済打ち切りを中心とする金融政策、均田制実施を柱とする土地政策の三つであった。
倹約令は奢侈の禁止を主旨としたが、寛政8年(1796年)に出された25か条に及ぶ「覚」では、生活への過度の干渉が見られ、領民の反感を買った。

寛政の改革

殖産振興については柿、梨、桃、栗、梅、蜜柑、桐、漆などの樹木や薩摩芋、薬草、椎茸、養蚕などにも及び、寛政4年(1792年)には菓木役所が設けられた。
一方で耕作の邪魔になっている樹木を伐採(蔭伐)したり、延享4年(1747年)に置かれた組合目付を廃止し城廻目付を置いた。
しかし蔭伐については由緒ある神木なども容赦なく伐採した反面、藩役人の邸宅内の木は見逃されるなど不公平であり、目付も組合目付であれば情実を聞いてくれたものが、常回では形式的に判断されるだけで、農民にとっては監視が厳しくなったとの印象しかなく、評判が悪かった。

金融政策では切印金制度の弊害をなくすべく、切印金5ヵ年据置、借入利率を7%から3%に引き下げる一方で貸し出し利息を'7%にした。
しかしこの程度では農民を救済できず、寛政7年(1795年)には切印金の貸主への返済は半額で打ち切り、農民からの返済は百年賦とした。
百年かかって貸した金の半額しか返済されないのでは、貸した側にとっては大打撃であり、富商はともかく零細な町人は憤慨した。

さらに土地政策では均田制、つまり農民に平等に田畑を分ける政策が実施に移された。大百姓、中百姓から田畑を取り上げ小百姓に分けるのだが、これが大・中・小全ての百姓から反発を食う。
大百姓は多くの田畑を取り上げられ、小百姓は田畑を貰っても耕すだけの資金も労力もなく年貢だけがかかり、中百姓は汗水たらして努力して広げた田畑を自分達より努力しなかった小百姓に持っていかれるのだから最も怒った。

一揆の下地は充分すぎるほどであった。寛政8年(1796年)冬、均田制に強く反対した一志郡小倭郷9ヶ村の農民が大庄屋を通じて均田制中止の訴えを起こす。
藩では延期を約束したが、一方では役人を派して農閑期に地割を強行しようとした。
ついに12月27日各地で農民が立ち上がり津城下に押し寄せた。藩側では藩士を緊急動員して防衛線を張り、伊賀への波及を恐れて伊勢伊賀国境を封鎖した。

一揆勢は津城下の富商の打毀しを行い、城下を三方から包囲、その数は3万人ともいわれた。藩側も人数の多さになすすべもなかったが、翌28日に大雪となり農民たちは帰村した。
一揆は沈静化したが藩では均田制の中止、城廻目付の廃止など一揆側の要求をいれ、改革の中心人物であった茨木重謙を罷免して知行と屋敷を没収し、蟄居を申し渡した。
ほかにも城代家老を始めとする多くの役人が処分された。一方農民側も11ヶ村134人が処分を受け、大庄屋池田佐助、庄屋森彦兵衛は牢死、森宗左衛門、多気藤七郎、町井友之丞の庄屋三人が処刑された。

名君高兌

藩政改革は一定の成果は挙げたものの、実情を無視したあまりにも過激な方法が、大規模な一揆を招いたというのが後世の評価であった。
その寛政の一揆から10年後の文化3年(1806年)8月26日高嶷は61歳で死去し、中興といわれる名君高兌が十代藩主となった。
高兌は、先代高嶷の代に大規模な一揆を招き結果として失敗に終わった改革により、危機的状況に陥った藩政を一時的に救った人物だった。

高兌は先代高嶷の三男で久居藩主として17年間を過ごし、久居藩主当時も貧民救済のための義倉の設置や倹約を旨とする政策などで成果を挙げ、高嶷の死去によって21歳で津藩主となった。
高兌は家督を相続し家老から財政状態の報告を聞いたが、当時の藩の年間収入3万5千両に対し支出は5万1千両、負債である藩債は86万両に達しており、その利息だけで年間7千両が支出されていた。これを聞いて高兌は、「財政難とは聞いていたがこれほどとは知らなかった」と驚いたという。

高兌の改革の第一は倹約にあった。藩主自ら経費の節減に率先して取り組み、予算制度により台所経費を三分の一に、女中を四分の一に減らし、藩経費も2万2千両以内と決めた。火災で焼失した江戸藩邸の再建は中止、衣服も木綿のみとした。
刑法を改めて死罪と追放だけであったものを更生の機会を与えるために徒刑や敲を導入し、奉行や代官が私宅で取っていた公務を役宅を設けて出勤させ、公私の別をはっきりとさせた。
寺社への風紀にも手をつけ、治外法権的な扱いの寺社が犯罪行為や不法行為の温床にならないように留意した。

農村対策としては、久居藩主時代に始めた義倉制度を社会事業に発展させた。すなわち積立金制度とし、町人や富農から資金を借りて、藩が管理して貸付を行い、その利息で社会事業を行うという藩営銀行のような制度であった。
さらに灌漑事業や荒地の開墾も積極的に行い、菓木事業の継続拡大、養蚕の奨励も行なって、藩主夫人にも蚕を飼わせ、上野国から技術者を招いて織物や繰糸を教示させた。
農村の人口増加策として男は30歳、女は20歳までに結婚するように奨励し、農村間の農民の移動を行い、農村人口の平均化にも意を尽くした。

文教面では、文政2年(1819年)藩校有造館を設立した。藩校はすでに多くの藩で設立されていたが、津藩では財政難もあってこの時期まで作られなかった。
設立の際に家老の反対もあったが、反対する家老を更迭して断固たる決意を示し、設立費用は藩主の節減で得られた財源を利用した。
藩校には文科と武科があり、嘉永6年(1853年)からは泗水術(観海流)、すなわち水泳が課業に加えられた。
伊賀上野にも有造館の分校的考え方で、文政4年(1821年)に崇広堂が設けられ、さらに名張にも名張学校が作られた。

高兌の藩政改革は藩主の率先垂範、文教の奨励、経費の節減、士風刷新、風俗の矯正など儒教的な面が強く、仁政が基本であった。
高兌の就任時には破綻状態であった藩財政は、高兌の改革でも好転するまでには至らなかったが、少なくとも悪化を食い止めて好転する方向への道筋はつけた。
しかし時代は幕末の動揺期に突入しようとしていた。その兆しが現れ始める頃の文政7年(1824年)12月18日45歳で死去した。

幕末の津藩

名君といわれた高兌の跡を受けて藩主となったのは高猷で、襲封時13歳、明治4年に隠居するまで44年間藩主の座にあった。
嘉永6年(1853年)にペリーの来航があって以来、海防問題がやかましくなり、伊勢湾を抱える津藩では洋式兵備への切り替えを目指し、砲工廠を新設して洋式砲20門を鋳造し、乙部村に火薬製造所を設けて火薬を製造した。
安政2年(1855年)からは兵制をオランダ式とし、大口径砲を作り、兵隊の編成替えを行なった。これより前の弘化4年(1847年)に志摩半島沿岸の測量をし沿岸警備を強化、伊勢湾岸の港には台場を設けた。

幕末における津藩の態度は公武合体推進、尊王佐幕、攘夷延期論であった。ペリー来航の際に老中阿部正弘の諮問に対しても、「燃料や食料など差し支えないものは提供し、漂流民は帰国させる。しかし測量など行なう場合は設問して詫び状をとる。来航は長崎とし浦賀に来た場合は打ち払う」としている。
安政5年(1858年)8月18日の禁門の変では和歌山・彦根両藩とともに出動して天誅組を鎮圧したが、第一次長州征伐には不参加、第二次長州征伐には中止を上申したが却下され、3千人を出兵したが、将軍家茂の死去により征伐は中止となったために実戦には及ばなかった。

このような世上の中、伊勢領内では「ええじゃないか」と囃しながら踊って、伊勢神宮に参宮する男女で溢れた。
夏に尾張・三河地方で伊勢神宮のお払いが降りたといって男女が踊り始めたのはたちまち伝播し、伊勢でも桑名・四日市・白子・松阪・たまるなどでお札が降ったといって狂喜した。
この事態にすでに力を失っていた藩は藩士への参加は禁止したが、領民には「往来で踊らず、家内か指定の場所で踊れ」と消極的な禁止令しか出せなかった。

慶応3年(1867年)になると朝廷では武力による倒幕を主張する岩倉具視らが急速に勢力を伸ばし、公武合体派を追放、王政復古の大号令が発布された。
津藩では徳島・熊本・佐賀藩ら11藩と協議して、将軍慶喜に対する寛大な処置や人心鎮定などの建言書を提出した。
これにより対立は回避されたかに見えたが、江戸薩摩屋敷に対する挑発行為が元で、会津・桑名藩を中心とする幕府軍と薩長軍との間に慶応4年(1868年)1月鳥羽伏見の戦いが起きた。

京都守護の任を負う津藩は、京と大坂の中間にある山崎に軍を駐屯させていたので、双方に影響力を発揮できる立場にあり、そのために両者間を斡旋したが、逆に双方から疑いの目をもって見られた。
その間勅命として新政府軍への加担を要請され、ついに家老藤堂采女は「徳川氏の洪恩は忘れがたいが、当地出張のものとしては勅を奉ずる以外に道はない」として幕府軍に対し砲撃を開始、これによって幕府軍は潰走した。

この行為が将軍慶喜の江戸帰国、朝廷への恭順を決意させたと言われ、「藤堂の犬侍」と後に批難も浴びることになる。
津藩はその後東征軍にも加わり、関東・東北を転戦して明治元年(1868年)11月に帰還した。
明治4年(1871年)6月に高猷の隠居によって、藤堂宗家の第十二代の最後の当主に高潔が就いた。既に版籍は奉還されており、藩主ではなく藩知事の時代であった。
家督を受け藩知事となったが、その翌月には廃藩置県があり、免官となりここに津藩の歴史も幕を閉じる。

参考文献:日本歴史叢書・津藩(吉川弘文館)、江戸三百藩主人名事典(新人物往来社)、新編物語藩史(新人物往来社)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ
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