歴史の勉強

東阿倉川藩

藩主 在任 石高(万石) 特記
加納久通 享保11.1〜寛延元.8
1726〜1748
1.0  
加納久賢 寛延元.10〜天明6.8
1748〜1786
1.0  
加納久周 天明6.10〜文化5.6
1786〜1808
1.0  
加納久慎 文化5.6〜文政4.8
1808〜1821
1.3  
加納久儔 文政4.10〜文政9.3
1821〜1826
1.3 文政9.3に陣屋を上総一宮に移す


東阿倉川藩は和歌山藩士であった加納久通によって、伊勢国東阿倉川に立藩された。八田藩ともよばれる。
久通は和歌山藩士加納政直の二男として紀伊に生まれ、同族の加納久政の養子となった。幼少より松平頼方(徳川吉宗)に仕え、吉宗が和歌山藩主となると御用役番頭を勤め伊勢国内で千石を与えられた。
有馬氏倫とともに吉宗の側近であり、享保元年(1716年)に吉宗が八代将軍となると、氏倫とともに幕臣となり、享保元年5月に御側御用取次、翌享保2年千石加増、次いで享保11年(1726年)正月に8千石を加増され、都合1万石となり伊勢国東阿倉川に陣屋を構えた。
加納氏は参勤交代をしない定府大名で、久通は吉宗の信頼も厚く、常に吉宗の側にあって享保の改革を推進した。性格も温厚で慎み深かったという。

延享2年(1745年)に吉宗が将軍職を家重に譲り、大御所として西の丸に移ったあとも西の丸若年寄となり、寛延元年8月に76歳で死去するまで吉宗に仕え続けた。
久通の没後久堅−久周−久慎−久儔と家督を継ぎ、久儔は文政9年(1826年)3月に陣屋を飛領であった上総長柄郡一宮本郷村に陣屋を移し、一宮藩を立藩し、東阿倉川藩は一宮藩の飛領となって藩としては消滅した。
藩内の南河内山には銀山、銅山があり、藩財政の基盤でもあったが、産出量は次第に乏しくなり衰退した。
また二代久堅の天明年間には天災に見舞われ、幕府から2千両借り受けたほか、桑名藩領との間に境界争いを生じ幕府の裁決を受けている。
三代久周は老中松平定信の信任が厚く、御側申次となって定信を補佐して寛政の改革を推進した。寛政5年(1793年)に若年寄並となり、寛政8年(1796年)9月には改革推進の功で上野国内に3千石加増を受けた。

参考文献:江戸三百藩主人名事典(新人物往来社)、藩と城下町の事典(東京堂出版)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ
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