歴史の勉強

佐賀藩

藩主 在任 石高(万石) 特記
鍋島勝茂 慶長18.6~明暦3.2
1613~1657
35.7  
鍋島光茂 明暦3.2~元禄8.11
1657~1695
35.7  
鍋島綱茂 元禄8.11~宝永3.12
1695~1706
35.7  
鍋島吉茂 宝永4.5~享保15.3
1707~1730
35.7  
鍋島宗茂 享保15.5~元文3.3
1730~1738
35.7  
鍋島宗教 元文3.12~宝暦10.11
1738~1760
35.7  
鍋島重茂 宝暦10.11~明和7.6
1760~1770
35.7  
鍋島治茂 明和7.7~文化2.1
1770~1805
35.7  
鍋島斉直 文化2.5~天保元.2
1805~1830
35.7  
鍋島直正 天保元.2~文久元.3
1830~1861
35.7 藩主時代は斉正と名乗る
鍋島直大 文久元.3~
1861~
35.7 藩主時代は茂実と名乗る

龍造寺氏から鍋島氏への政治権力の移行

佐賀藩は肥前のうち佐嘉、神埼、小城、杵島、藤津、三根の全部と養父、松浦、高来、彼杵の一部を合せて35万7千石を領有した外様大藩であった。
この地方は戦国末期には五州二島の太守といわれた龍造寺隆信が領有していたが、天正12年(1584年)3月に龍造寺軍と有馬・島津連合軍との間で起きた、沖田縄手の合戦で隆信が戦死してしまう。
隆信の跡を嫡子政家が継ぐが、政家は重臣の鍋島直茂を国政の中心に据えて難局を切り抜けようとする。
政家は病弱でもあり国政の実権は直茂が握り、政家は天正18年(1590年)に秀吉によって隠居させられる。

政家の跡は高房が継ぐが、文禄・慶長の役をはじめ鍋島直茂が龍造寺高房の名代として軍役をはたす。
さらに直茂は従五位下、加賀守に任じられている。これは直茂が大名に取り立てられる条件を満たしたことと同義であった。
これによって龍造寺から鍋島への権力移譲は決定的となった。直茂は主家として龍造寺高房を立ていたものの実権は直茂が握り、佐賀においては家督と支配が分離した状態が続く。
慶長5年(1600年)の関ヶ原役でも高房は直茂の嗣子勝茂と出陣したが、主導権は勝茂が握った。

関ヶ原役では勝茂は西軍に加担してしまうのだが、その原因は勝茂が病で出発が遅れ、西軍の道路封鎖にあってやむなく西軍に加わったのである。
佐賀に帰国して直茂は勝茂とともに黒田長政、井伊直政を頼って家康に謝罪し、家康は直茂の忠心に免じて許す代わりに柳川城に籠る西軍の将立花統虎を攻めるよう命じた。
直茂、勝茂父子は全力を挙げて柳川城を攻め、黒田如水と加藤清正が間に入って、結局統虎を降伏させた。

これによって鍋島父子は家康に許されたものの、このことが負い目となって父子は徳川家に対して忠勤を励まざるを得なくなり、また徳川家の目を常に気にしなければならなくなった。
また、徳川家の方も鍋島父子を相手として話を進め、名目とはいえ主家である龍造寺家はまったく無視している。関ヶ原後の検地で確定した肥前佐賀35万7千石の地を領して、徳川家に対して奉公するのは鍋島であるというのが家康や幕府の考え方であった。
それでも主家を気にした直茂は、慶長9年(1604年)家康に願って龍造寺高房を従五位下、駿河守に叙任、さらに二代将軍秀忠の近習とした。高房に大名の格を与えて、さらに将軍直臣としたのである。

龍造寺高房の死と権力移行の完成

高房も最初は喜んだようであるが、周囲には鍋島の策略であると唆す者もあり、次第に高房に不満が募る。慶長10年(1605年)に勝茂は家康の養女となった岡部長盛の女と婚姻し、鍋島と徳川の関係が強化される。
鍋島氏の地位は相対的に向上し、龍造寺一門や重臣もそのことを現実として認めざるを得なくなる。「高房の取立ては鍋島殿のお力添え・・・鍋島殿御父子には二心なく忠誠を尽くします」という起請文が提出された。
これにくさったのか慶長12年(1607年)3月3日、高房は江戸屋敷において夫人を刺殺して自害を図るが、家臣に助けられて一命は取りとめる。
幕府直臣であるから、ことは直ちに届けられ本多正信、大久保忠隣らによって高房を取り調べるが、高房は自殺の理由など一切答えなかったという。

この報せに佐賀で隠居していた高房の父政家も鍋島父子も仰天した。下手をすれば取り潰されてしまう。直茂は「鍋島に対する当て付けではないか」と腹を立てて、7月26日に政家に対して長文の書を送る。世に直茂のおうらみ状といわれるものである。
この書で直茂は隆信の死後家を守り、さらに高房を引き立て、江戸で不自由なく暮らせるように取り計らっているのに、このたびの一件は誰に当て付けたものか高房帰国後問いただして聞かせて欲しいという糾弾である。
しかし、高房は帰国せず、9月に毒魚を食した後に馬を乗り回して自殺同然な死に方をした。その1月後に後を追うように政家も没した。

これによって龍造寺の嫡流は絶えた。幕府では龍造寺一門の有力者である諫早の龍造寺家晴、多久の龍造寺安順、須古の龍造寺信昭を呼び家督問題について意見を聞いた。
3人は龍造寺と鍋島の関係、直茂の功績、龍造寺存続の経緯などを述べた上で、直茂が家督を相続すべきだが高齢のために勝茂への相続を上申し、幕府もそれを認めた。
これによって佐賀35万7千石を領する近世大名鍋島氏が成立し、家督と支配は鍋島に統一された。龍造寺一門は鍋島氏に臣従することになり、いずれも改姓した。
即ち龍造寺安順は多久氏、龍造寺直孝は諫早氏、龍造寺茂周は須古氏、後藤茂綱は武雄氏を名乗り、須古氏と武雄氏はのちに鍋島姓に改める。これら四家は鍋島体制のもとでは親類同格とされた。

幕藩体制が安定した寛永11年(1634年)に、伯庵事件が起きる。伯庵は龍造寺高房の子であったが、4歳の時に里子に出されていた。
成長して高房死去の事情を知り、高房の弟龍造寺主膳とともに竜造寺家再興を幕府に訴えた。
もちろん幕府では取り上げなかったが、伯庵らはあきらめずに翌寛永12年、寛永17年、寛永19年と訴訟を繰り返した。
幕藩体制が定着したとはいえ、大名の改易もまだ多く行われており、また寛永15年(1638年)の島原の乱の際に、幕命で出陣した鍋島勝茂が、軍令違反によって閉門処分を受けるという、佐賀藩にとっては不安材料もあった。

佐賀藩内は一致結束し、多久安順(長信の子)が出府して幕府に対し龍造寺から鍋島への権力移譲は正当であった旨の説明が行われた。
すでに龍造寺一門も龍造寺の姓を捨てて鍋島体制の中に組み込まれており、幕府としてもいたずらに混乱を招くだけの伯庵の訴えに耳を貸す道理もなかった。結局伯庵は、会津の松平(保科)正之のもとに預けられた。
また、龍造寺主膳は大和郡山の本多家に預けられ、その後本多氏の家臣となった。

肥前の一豪族から五州二島の太守にまでなった龍造寺氏は、隆信の沖田縄での敗戦と戦死を境にして、事実上その名を失い、鍋島氏に政権が交代した。
そうしなければ龍造寺一門は滅亡してしまうという危機感がそうさせたのであり、その交代はごく平和裏に行われた。鍋島氏も龍造寺一門をないがしろにせず厚く遇し、これは江戸期を通じて変らなかった。
多少の混乱はあったにしても、間違っても世に面白く伝えられる鍋島騒動のような権力奪取ではなかった。
なお、佐賀藩ではあくまで龍造寺氏から禅譲を受けたという建前で、高房死去後に高房から勝茂が家督が継承されことになるために初代を勝茂とし、直茂は藩祖と呼ぶ。

三支藩の創出と島原の乱

関ヶ原役での西軍加担によって幕府に対し負い目のある鍋島家は幕府に対して忠勤に励み、慶長7年(1602年)以後名古屋城、江戸城、駿府城などの幕府の城の御手伝いを熱心に行う。
このために財政的には苦しくなり、勝茂が襲封後は藩主への権力の集中と強化を図らざるを得ず、慶長16年(1611年)と元和元年(1615年)には家臣の知行地の3割を上地させている。
慶長16年のときは全知行地に対して実施されたが、元和元年のときは多久、諫早、須古、武雄の龍造寺四家に対してだけ行われた。

龍造寺四家は龍造寺一門が鍋島家に臣従して改姓し親類同格とされたものである。勝茂は四家から上地した分で小城(7万3千石)、蓮池(5万2千石)、鹿島(2万石)の三支藩を設立した。
これは四家の領地が鍋島父子の直轄地に匹敵するほどであったために、これを減らして鍋島の藩屏を創出して鍋島体制の安定に資したものである。
一方三支藩は寛永年間より参勤交代し、馳走役や普請役など幕府公役も負担していたが本藩の内分与であり、したがって将軍から知行の範持つも判物も受けなかった。
三支藩は当初の目的とは違い、のちには本藩との間に軋轢が生じることも多かった。また三藩とも本藩から財政支援を受けており、本藩の財政難が深刻になると却って本藩の重荷となった。

寛永14年(1637年)の島原の乱では、徳川家への忠誠心発揮の絶好の機会と捉えて、帰国を命じられた勝茂は佐賀にも寄らず直接島原に入った。
勝茂は割り当て以上の3万2092人の軍勢を派遣し、原城総攻撃の際には幕府の総指揮を執る松平信綱の決めた期日を守らず、1日早く攻撃を開始してしまう。
これが軍令違反に問われ、翌寛永15年(1638年)6月に評定所に出頭を命じられて逼塞を申し渡される。
また、勝茂の代の寛永19年(1642年)に幕府から長崎御番役を福岡藩と1年交代で行なうように命じられ、これは幕末まで続く。

三家格式の公布と藩財政の逼迫

勝茂の跡を継いだ光茂の代の天和3年(1683年)佐賀藩の武家諸法度である「三家格式」が公布された。三家とは先代勝茂が鍋島の藩屏として創出した三支藩のことである。
もともと三家と宗家の間には格式の差はなかったが、延宝5年(1677年)に小城家二代の直能が藩祖直茂が称した加賀守を名乗り、光茂はこれを咎めた。
このころから本藩と三家の士の間で差別が目立ってきたが、翌延宝6年には蓮池家二代の直之が本藩の許可を得ずに、八朔の祝として将軍家綱に太刀を献じるという勝手な行動があった。

光茂は直之を咎めたが、これに対して直之は小城の直能と鹿島の直条と合して光茂に抗議したが、光茂はこれを取り上げず、三家側の敗北となり「三家格式」の制定となった。
これにより三家は本藩の統制下におかれ、三家の藩主は本藩主に対して誓詞を提出し、縁組・隠居・相続・官位授与・参勤なども全て本藩の許可を得ることとされた。
光茂は人道主義者であり文治主義者であったが、これらの反動的所産が光茂の側に仕えた山本常朝が口述した「葉隠聞書」11巻である。
光茂の跡を綱茂が継いだが、その治世は10年と短かった。綱茂の治世は基本的に光茂の政策を踏襲し文治主義であった。

綱茂のころから藩財政が逼迫してきた。綱茂の跡を吉茂が継ぐが、吉茂は財政の逼迫に伴って直接藩主が財政にタッチできるような仕組みに変え、財政の再建を目指したが、享保11年(1726年)3月に城内を全焼する火事があり、財政の再建は容易ではなかった
さらに次の宗茂の代の享保17年(1732年)には旱魃と病害虫によって収穫が皆無となり、翌年には疫病が流行して藩内の人口は8万人も減少したといわれる。
この事態に幕府から2万両を借り受け、また幕府から参勤の際の献上品無用の沙汰を得たが、この飢饉によって財政はさらに逼迫し、享保19年(1734年)には藩最初の藩札を発行した。

諫早騒動

佐賀藩五代藩主宗茂が元文3年(1738年)に眼疾によって隠居し、六代藩主に嫡男宗茂が就いた。
宗茂が襲封して10年ほどたった寛延元年(1748年)に三支藩のひとつ蓮池藩主の直恒が諫早家の茂行と結んで老中酒井忠恭に働きかけて、宗教を隠居させて弟主膳を佐賀藩主にしよう陰謀を企む。
ことは宗教の知るところとなり、幕府にも報告され酒井忠恭は老中を罷免された。宗教も直恒を出仕停止処分とし諫早の茂行は隠居謹慎、諫早領のうち1万石を没収した。

直恒と茂行が結んだのは、直恒の妹が茂行に嫁していたためであり、その背景には小城、鹿島、蓮池の鍋島三家や諫早家など龍造寺四家が、本藩の統制下にある不満があったとされる。
諫早家では、この処分に対して重臣が協議したが恭順派と反対派に分かれて結論が出なかった。そのうちに騒ぎは領民の間に広まってしまう。
これは諫早領の年貢が本藩よりも優遇されていたためで、農民にすれば本藩領に組み入れられるということは、年貢の増微を意味する。
諫早家では1万石の上地に代えて、物成4千石を納入する妥協案を示したが、本藩はこれを認めず、ついに上地の村を具体的に指定してきた。

指定された村々の農民はこれに対して長崎奉行に訴えようとするが、これは農民側が説得に折れて中止された。なお農民と行動を共にする下級武士が80人ほどいたが、これは下級武士が農業を営んでいたからであった。
次いで農民側は日田代官所へ訴状を提出した。日田代官所は訴状を突き返したが、同時に訴状の写しを本藩に送り取締り強化を求めた。藩では諫早家の当主行孝を出頭させて、代官所への訴人の逮捕を命じた。
これを聞いた諫早領の農民は立ち上がり、諫早家大手口に押しかけて騒動となった。この場は諫早家の重臣の必死の説得で農民は解散したが、10日ほどすると再び一揆となり、農民は多良に集結した。
このときは白石鍋島家の隠居徹竜が間に入り、日田への訴人は逮捕せず、諫早領の上地は3年間のみという条件で纏めようと動いたが、農民側は条件を飲まなかった。

農民側は大坂町奉行所に上訴し、これを知った本藩では一揆の鎮圧を決定し実力行使に出た。一揆の首謀者と目された若杉春后は捕縛されて佐賀に送られ、ほかに数名の農民も逮捕された。
若杉春后を失った農民側はたちまち結束が乱れて、農民側は敗れて、上地が実行されて、諫早家行孝は蟄居、諫早家家老の諫早五郎太夫は切腹、三村惣左衛門は獄門、農民側では若杉春后ほか3名が磔となった。ほかに農民8名が死刑となり13人が追放処分となっている。
このように諫早家の領地没収に端を発した農民一揆は、農民側の敗北に終わった。
宗教の治世は文治主義が基本であったが、そのなかでこの諫早騒動は大事件として特記される。宗教は宝暦10年(1760年)11月に養子重茂に家督を譲り隠居した。

重茂と治茂の代の諸改革

重茂は襲封すると私生活をきりつめて、参勤交代のときの藩士の衣装も質素にするように命じて倹約に努めるが、宝暦12年(1762年)に旱魃と水害によって年貢は大減収となり、藩財政の悪化に拍車がかかる。
さらに御三卿の田安家の淑姫との婚姻での出費を賄うために、幕府から1万両を借りた。
このために宝暦13年(1763年)には藩札を発行し、札元は藩に献金をしているが、この藩札は大暴落して2年で使用禁止になった。
この事件は札元が兌換の裏づけのない藩札を大量に発行したことによるもので、使用停止となった明和2年(1765年)には城下で騒ぎとなり、札元が襲撃されている。

明和5年(1768年)に入ると重茂は病気となり、明和7年(1770年)に38歳で死去しその跡を治茂が継いだ。
治茂は極めて厳格な性格であったといわれ、夜が更けても袴を脱がず、寝所に入ってから脱ぐほどであったという。その反面で家臣が門限を過ぎて戻っても、言い訳を聞き流す寛容さも併せ持っていたらしい。
襲封翌年の明和8年(1771年)に藩祖直茂を祭神とする日峯社を造営して藩祖直茂の神格化を行い、天明元年(1781年)には藩校弘道館を創設した。
直茂を神格化することによって藩主の権威の確立を図り、藩校を創設して人材の育成を行うのは、政治改革のためであった。

このころの佐賀藩は財政難に喘いでおり、さらに虫害や大雨などによる不作や江戸屋敷の焼失による再建費負担などが、さらに財政状態を悪化させた。農村は荒廃し、また江戸から持ち込まれた退廃の気風が藩士を蝕み始めていた。
このような状況を憂いた治茂は自身の厳格な性格もあって、改革に取り組む。治茂が意識したのは有明海を隔てて隣り合う肥後熊本藩の細川重賢の宝暦の改革であった。

重賢は宝暦5年(1755年)から追放刑を懲役刑に改めた。これは追放すれば追放地で悪事を働くだけであるから、懲役にして労賃も支給し、勤勉に務めれば放免して正業に就けたほうが罪人も更生し、ひいては藩の利益にもなるとの考え方である。
治茂もこれにならい天明3年(1783年)に徒罪方(ずざいかた)を設けて追放刑を懲役刑に改めた。懲役の内容は川浚えや土砂の運搬、窯業地の有田での陶土の運搬などであった。
しかし、この政策は逃亡者も多く、文化2年(1805年)から天保9年(1838年)までの間に365人の徒罪人のうち85人が逃亡したという。

天明3年にはこのほか長尾矢治馬の献策で殖産振興を目的とした六府方も設けている。六府方の中心は干拓事業で、これは搦方と呼ばれた。
六角川河口の白石地区や有田川河口の伊万里地区で干拓を実施し、前者は新搦、後者は八谷搦と言われ、この事業の代表的なものである。
これより前の安永8年(1779年)に治茂は財政の復興の為に米筈と称する藩札を発行した。佐賀藩では享保20年(1735年)、宝暦13年(1763年)に続く3度目の発行である。
この米筈の胴銀(兌換準備金)を得るために領民に対し人頭税を徴収し、その年額は銀一千貫目であった。米筈は領内によく通用したようであるが、その後の財政逼迫により次代(九代)斉直のころには暴落し、十代直正の代に通用が停止された。

寛政年間にはたびたび天災に見舞われて、寛政4年(1792年)には雲仙普賢岳が噴火して領内にも多くの被害が出た。農村の荒廃は著しく、そのために地方行政機構の改革が急務となった。
天明元年(1781年)から郷村の行政は大庄屋が司どっていたが、農村振興の成果が挙がらないばかりか、荒廃をもたらすこととなったために、寛政10年から12年(1798~1800年)にかけて順次大庄屋を廃止して7人の代官を在住させた。
もっともこの代官の設置は蔵入地のみで三支藩の支配地や藩境地帯には大庄屋が残された。

外国船の来航と斉直の政策

文化2年(1805年)に治茂の死去に斉直が襲封した。
斉直襲封の前年の文化元年はロシアの使節ラザノフが長崎に来航し通商を求めた年で、その年に長崎警備の任にあった佐賀藩はラザノフを退去させたものの、文化2年まで警備を延長して務めねばならず、その出費は大きな痛手となった。
文化5年(1808年)には英国の軍艦フェートン号が長崎に不法入港したが、警備の番にあたっていた佐賀藩は財政難のために充分な警備ができず、英軍艦の跳梁を許す結果となった。このフェートン号事件によって斉直は逼塞処分となった。

またこの事件後には長崎砲台などの増築が行われ、これは後に佐賀藩が全国有数の軍事力を有することとなるのに繋がっていく。
しかしこの軍事費の増加は財政を悪化させ、加えて斉直は華美な生活を好んだために、財政は破綻寸前であった。文化14年(1817年)には参勤交代の費用も捻出できずに、斉直は病気と称して参勤を引き延ばしている。
斉直は人員整理などによって節約をさせたが追いつかず、支藩鹿島藩主の直彜が隠居しようとしたのを狙って鹿島藩を廃藩として本藩に吸収しようとした。
支藩への財政援助の負担減を企図したものであったが、さすがに三支藩が一致団結して反対したために頓挫した。

斉直は幕府に願い鹿島藩の公務負担を5年間停止してもらったほか、強制的な献金や米筈の発行で財政難を凌ぐが、所詮急場凌ぎにすぎなかった。
文政6年(1823年)には相続米渡りという、藩士の知行や切米を藩が一括して管理し、藩士には最低生活費のみを支給する制度まで実施している。
だが文政11年(1828年)には台風が襲い、領内に大規模な被害をもたらし、幕府から2万両と米1万5千石の借入れを行った。

幕末の佐賀藩

斉直は天保元年(1830年)2月に直正に家督を譲り隠居した。このとき直正17歳。直正は文久元年(1861年)に隠居して閑叟と号し、隠居名の方が有名である。
直正が初入部のために江戸から佐賀に向けて出発し品川宿に入った途端、藩に貸付金のある商人たちが借金の返済を迫って押しかけたために行列が停止するという屈辱的な状況であった。
直正はこのこともあって藩政の改革を強く決意するが、隠居した父斉直とその側近勢力が隠然とした力を持っており、当初は倹約令の発布がせいぜいであった。

直正が本格的に改革の乗り出すのは天保6年(1835年)からである。この年に佐賀城二ノ丸が大火で全焼し、本丸に御殿を新築する佐賀城再建計画を斉直の反対を押し切って実行し、それを機に藩政の実権は直正に移った。
直正はまず人員の整理を実施し、藩役人の五分の一を削減した。24万両余りもあった江戸の藩債を8割を切り捨てて、残りの2割も50年賦返済にするという、実質踏み倒しも行う。
農村の支配機構を整備して禁令を徹底させたほか小作料の免除などによって農村の振興を図り、藩校弘道館を拡充して人材育成にも努めた。

殖産政策では陶器、白蝋、小麦、茶などのほかに石炭の採掘に力を入れている。石炭は英国軍艦用に輸出されて外貨を稼いでいる。
また佐賀藩は長崎警備を分担しており、直正はその強化を掲げ、洋式の軍事技術を積極的に導入した。嘉永3年(1850年)6月に大銃製造方を設けて鉄製砲の製造に必要な反射炉の建設に着手する。
嘉永5年(1852年)には鉄製36ポンド砲四門の製造に成功、文久3年(1863年)にはアームストロング砲の鋳造に成功している。

安政5年(1858年)には鉄砲の自藩での製造にも成功している。これにより万延元年(1860年)には総鉄砲が命じられて弓や槍などは全て廃止されている。
また安政元年(1854年)11月に鍋島十左衛門を蒸気船製造心遣に任じ、翌安政2年に幕府が長崎に海軍伝習所を設けると47名のも伝習生を派している。
嘉永6年(1853年)のペリーの来航時、直正は攘夷論者であり、品川台場建設に技術を提供し幕閣の信頼を得ている。これは直正が将軍家斉の女盛姫と結婚し、盛姫逝去後は徳川一門の御三卿田安斉匡の女筆姫を継室に迎えたことと関係があろう。

一方では貿易の重要性に早くから着目しており、英国には軍艦用に石炭を輸出して利益を上げていて、英国との外交が注目されると開国論を主張する。
また公武合体論者でもあり、幕府、朝廷とも距離を置きつつ、強大な軍事力を背景にしながら、それを行使せず、また政治的な動きも見せなかった。
そのために肥前の妖怪と言われて警戒され、小御所会議など中央での発言力は持てず、これが薩摩や長州に比べて佐賀が維新でいまひとつ精彩を欠く一因となった。

佐賀藩は鳥羽伏見の戦いまでは直正の方針で積極的な路線を歩まず、そのために中央での発言力も小さかった。鳥羽伏見の戦いで薩長軍が勝利すると新政府軍に加わり、その卓越した軍事力を発揮して大いに活躍する。
直正の隠居後に藩主となった直大も佐賀藩兵を指揮して東上し、下野や上総で会津兵と戦いを交え、上野彰義隊討伐ではアームストロング砲を使って彰義隊を壊走させている。

さらに東北各地を転戦して幕府軍を敗り、明治2年(1869年)には佐賀藩海軍が函館海戦に活躍している。
明治2年(1869年)に直大は版籍奉還し佐賀藩知事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県では、父直正の意向もあって知藩事として最初に賛同している。
明治新政府では、佐賀藩出身の副島種臣、江藤新平、大隈重信らが活躍している。その背景にあるのは佐賀藩の教育の成果と強大な軍事力であった。

参考文献:江戸三百藩主人名事典(新人物往来社)、新編物語藩史(新人物往来社)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ
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