歴史の勉強

小城藩

藩主 在任 石高(万石) 特記
鍋島元茂 元和元.3~承応3.11
1615~1654
7.3  
鍋島直能 承応3.11~延宝7.12
1654~1679
7.3  
鍋島元武 延宝7.12~正徳3.1
1679~1713
7.3  
鍋島元延 正徳3.1~正徳4.5
1713~1714
7.3  
鍋島直英 正徳4.6~延享元.9
1714~1744
7.3  
鍋島直員 延享元.10~明和元.5
1744~1768
7.3  
鍋島直愈 明和元.5~寛政6.4
1768~1794
7.3  
鍋島直知 寛政6.4~文化元.3
1794~1804
7.3  
鍋島直堯 文化元.3~嘉永3.4
1804~1850
7.3  
鍋島直亮 嘉永3.4~元治元.2
1850~1864
7.3  
鍋島直虎 元治元.2~
1864~
7.3  

小城藩は初代佐賀藩主鍋島勝茂の二男元茂が佐賀藩領の佐嘉、小城、松浦三郡のうち7万3200石を分与され、二代直能のときに小城を居所として立藩したものである。
佐賀藩鍋島氏は小城、鹿島、蓮池三藩を鍋島の藩塀として創出し、鍋島体制の安定を図ったが、のちには本藩との間に軋轢が生じることも多かった。いずれの藩も寛永年間より参勤交代し、馳走役や普請役など幕府公役も負担していたが本藩の内分与であり、したがって将軍から知行の範持つも判物も受けなかった。
また三藩とも本藩から財政支援を受けており、本藩の財政難が深刻になると却って本藩の重荷となった。

二代直能が延宝5年(1677年)に佐賀藩祖直茂が称した加賀守を名乗ると、本藩主光茂はこれを咎めた。
さらに蓮池藩主直之が本藩の許可を得ずに、八朔の祝として将軍家綱に太刀を献じるという勝手な行動があった。光茂は直之を咎めたが、これに対して直之は直能と鹿島藩の直条と合して光茂に抗議したが、光茂はこれを取り上げず、三支藩側の敗北となり、天和3年(1683年)佐賀藩の武家諸法度である「三家格式」が公布された。
これにより三支藩は本藩の統制下におかれ、三家の藩主は本藩主に対して誓詞を提出し、縁組・隠居・相続・官位授与・参勤なども全て本藩の許可を得ることとされた。

七代直愈は安永3年(1774年)2月に有栖川宮下向の接待役を命ぜられるが、藩財政逼迫のために7千両の拝借を願い出るが却下された。所業不届きとして接待終了後に本藩主治茂とともに差控を命じられる。
九代直堯は、文政元年(1818年)、同2年、天保2年(1831年)、同7年(1836年)、同8年、同9年と再三に渡り蓮池藩主直与とともに本藩に対して城主格への格上げを幕府に申請するように願い出ている。
これは7万石もの封地をもちながら無城主では待遇として不満であるとも理由によるものだが、本藩はこれを拒否し却って支藩の所領削減や支配力強化などを目論んだ。

参考文献:江戸三百藩主人名事典(新人物往来社)、新編物語藩史(新人物往来社)、藩と城下町の事典(東京堂出版)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ
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