歴史の勉強

蓮池藩

藩主 在任 石高(万石) 特記
鍋島直澄 寛永16.9~寛文5.2
1639~1665
5.2  
鍋島直之 寛文5.2~宝永5.1
1665~1708
5.2  
鍋島直称 宝永5.1~享保2.4
1708~1717
5.2  
鍋島直恒 享保2.4~寛延2.10
1717~1749
5.2  
鍋島直興 寛延3.3~宝暦7.5
1750~1757
5.2  
鍋島直寛 宝暦8.1~安永2.7
1758~1773
5.2  
鍋島直温 安永3.8~文化13.4
1773~1816
5.2  
鍋島直与 文化13.4~弘化2.7
1816~1845
5.2  
鍋島直紀 弘化2.7~
1845~
5.2  

佐賀藩初代藩主鍋島勝茂の五男直澄が、父勝茂より佐嘉、神埼、杵島、松浦、藤津五郡のうち5万2600石余りを分与され、のちに佐嘉郡蓮池に居を定めて立藩し蓮池藩を称した。
勝茂の嫡子は忠直であったが、忠直は勝茂より先に没し、忠直の子の光茂は幼少であったために、勝茂は忠直の妻恵照院を直澄と再婚させて、直澄に宗家を継がせる考えであった。
しかし、親類同格の多久茂辰や光茂の養育係であった上臈小倉女などの猛烈な反対にあって、光茂を世子としたという。次に勝茂は佐賀藩領を二分して光茂と直澄に分割相続させようとしたが、これも反対が強く断念、結局直澄を分家させることとした。

勝茂は蓮池藩のほか小城、鹿島両藩を鍋島の藩塀として創出し、鍋島体制の安定を図ったが、のちには本藩との間に軋轢が生じることも多かった。
いずれの藩も寛永年間より参勤交代し、馳走役や普請役など幕府公役も負担していたが本藩の内分与であり、したがって将軍から知行の範持つも判物も受けなかった。
また三藩とも本藩から財政支援を受けており、本藩の財政難が深刻になると却って本藩の重荷となった。

二代藩主直之が本藩の許可を得ずに、八朔の祝として将軍家綱に太刀を献じるという勝手な行動があった。
佐賀藩二代光茂は直之を咎めたが、これに対して直之は小城藩の直能と鹿島藩の直条と合して光茂に抗議したが、光茂はこれを取り上げず、三支藩側の敗北となり、天和3年(1683年)佐賀藩の武家諸法度である「三家格式」が公布された。
これにより三支藩は本藩の統制下におかれ、三家の藩主は本藩主に対して誓詞を提出し、縁組・隠居・相続・官位授与・参勤なども全て本藩の許可を得ることとされた。

七代直温のころの財政難は厳しく、水害や大火もあって天明8年(1788年)本藩に財政を委託し、本藩の支配下に入る。
この措置はその後もたびたび発動されるが、本藩も財政難の為に最終的に財政支援を打ち切った。
八代直与は、文政元年(1818年)、同2年、天保2年(1831年)、同7年(1836年)、同8年、同9年と再三に渡り小城藩主直堯とともに本藩に対して城主格への格上げを幕府に申請するように願い出ている。
しかし本藩はこれを拒否し却って支藩の所領削減や支配力強化などを目論んだ。

参考文献:江戸三百藩主人名事典(新人物往来社)、新編物語藩史(新人物往来社)、藩と城下町の事典(東京堂出版)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ
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