歴史の勉強

下妻藩

藩主 在任 石高(万石) 特記
多賀谷重経 天正4~慶長6.2
1576~1601
6.0 改易
徳川頼房 慶長10~慶長14.12
1605~1609
10.0 常陸水戸へ
松平(越前)忠昌 元和元.1~元和2.8
1615~1616
3.0 上総姉崎より
信濃川中島へ
松平(久松)定綱 元和2.12~元和5.7
1616~1619
3.0  下総山川より
遠江掛川へ
井上正長 正徳2.12~享保5.12
1712~1720
1.0  新封
井上正敦 享保5.12~宝暦3.6
1720~1753
1.0  
井上正辰 宝暦3.8~宝暦10.5
1753~1760
1.0  
井上正意 宝暦10.7~天明4.2
1760~1784
1.0  
井上正棠 天明4.2~寛政元.3
1784~1789
1.0  
井上正広 寛政元.3~寛政12.9
1789~1800
1.0  
井上正建 寛政12.9~文化13.9
1800~1816
1.0  
井上正慮 文化13.9~文政2.12
1816~1819
1.0  
井上正民 文政3.2~文政11.3
1820~1828
1.0  
井上正健 文政11.5~弘化2.7
1828~1845
1.0  
井上正誠 弘化2.9~嘉永5.6
1845~1852
1.0  
井上正信 嘉永5.8~安政3.9
1852~1856
1.0  
井上正兼 安政3.9~慶応2.11
1856~1866
1.0  
井上正巳 慶応2.11~
1866~
1.0  

下妻の地は室町期の中ごろから多賀谷氏の支配下にあった。天正18年(1590年)多賀谷重経は豊臣秀吉の小田原攻めに参陣して本領を安堵された。
重経は常陸の大名佐竹義重の四男宣隆を養子とし、そのために関ヶ原役の際には佐竹氏とともに西軍よりの態度を取り、役後に領地を没収され、佐竹氏の家臣となって秋田に移った。
下妻は一時的に代官支配となったが、慶長10年(1605年)に家康の十一男頼房が下妻に10万石で封ぜられ、同14年に加増されて水戸に移る。
次に元和元年(1615年)家康の二男松平秀康の子忠昌が上総姉崎から入るが、翌元和2年に信濃川中島12万石に転封となった。
替わって下総山川から松平(久松)定綱が3万石で入り、在封2年半後の元和5年(1619年)7月に遠江掛川に転封された。

定綱が転封されて約100年間下妻は幕領となったが、正徳2年(1712年)に井上正長が1万石で封ぜられて、再び下妻藩が成立した。
正長は、美濃郡上5万石井上正任の三男として生まれ、元禄6年(1693年)に美濃郡上郡内で3千石を譲られ旗本となる。
元禄7年(1694年)中奥小姓となり使番、目付と進み、元禄11年(1698年)家宣付家老となり4千石を与えられる。
元禄12年(1699年)井上正晴の二男正矩を養子とし3千石を与えられ、元禄16年(1703年)千石加増、宝永元年(1704年)西の丸側衆となった。
宝暦6年(1709年)に将軍となった家宣が、そのわずか3年後の正徳2年(1712年)に死去したさいに遺言で正長には2千石が加増され、これによって諸侯に列し下妻藩主となった。

参勤交代をしない定府大名であったが、正広の代の寛政元年(1789年)7月から半年ごとの参勤交代を許されるようになった。
また正辰の代の宝暦9年(1759年)に大塚領左衛門の圧政に対して、農民一揆が起きた。この騒動で領左衛門は処罰され、正辰も不手際を咎められ一時出仕が停止された。
幕末の元治元年(1864年)水戸天狗党事件では、筑波山近郊のために防衛に努めたが、下妻に追討軍の拠点が置かれたために天狗党に急襲されて陣屋は焼失した。
戊辰戦争では江戸城清水門の警備を担当し、その後新政府軍に帰順し明治維新を迎えた。

参考文献:江戸三百藩主人名事典(新人物往来社)、藩と城下町の事典(東京堂出版)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ
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