歴史の勉強

笠間藩

藩主 在任 石高(万石) 特記
松平(松井)康重 慶長6.2~慶長13.9
1601~1608
3.0 武蔵私市より
丹波篠山へ
小笠原吉次 慶長13.9~慶長14.3
1608~1609
3.0 下総佐倉より
改易
松平(戸田)康長 慶長17.7~元和2.5
1612~1616
3.0 下総古河より
上野高崎へ
永井直勝 元和3.10~元和8.12
1617~1622
5.2  上野小幡より
下総古河へ
浅野長重 元和8.12~寛永9.9
1622~1632
5.3  常陸真壁より
浅野長直 寛永9.10~正保2.6
1632~1645
5.3  播磨赤穂へ
井上正利 正保2.6~寛文9.6
1645~1669
5.0 遠江横須賀より
井上正任 寛文9.6~元禄5.11
1669~1692
5.0  美濃郡上へ
松平(本庄)宗資 元禄5.11~元禄12.8
1692~1699
5.0  下野足利より
松平(本庄)資俊 元禄12.9~元禄15.9
1699~1702
5.0  遠江浜松へ
井上正岑 元禄15.9~享保7.5
1702~1722
6.0  常陸下館より
井上正之 享保7.7~元文2.9
1722~1737
6.0  
井上正経 元文2.11~延享4.3
1737~1747
6.0  陸奥磐城平へ
牧野貞通 延享4.3~寛延2.9
1747~1749
8.0  日向延岡より
牧野貞長 寛延2.11~寛政4.3
1749~1792
8.0  
牧野貞喜 寛政4.3~文化14.10
1792~1817
8.0  
牧野貞幹 文化14.10~文政11.8
1817~1828
8.0  
牧野貞一 文政11.10~天保11.11
1828~1840
8.0  
牧野貞勝 天保11.12~天保12.6
1840~1841
8.0  
牧野貞久 天保12.9~嘉永3.3
1841~1850
8.0  
牧野貞直 嘉永4.4~明治元.12
1851~1868
8.0  
牧野貞寧 明治元.12~
1868~
8.0  

鎌倉時代から十八代に渡って笠間を支配した笠間氏は、天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原参陣の際に不参して滅ぼされ、その後宇都宮氏の支配下に置かれた。
慶長2年(1597年)宇都宮氏が除かれ、秀吉の五奉行筆頭であった浅野長政が城代となり、さらに慶長3年(1598年)に蒲生秀行が宇都宮城主となると、その支城となって蒲生郷成が城主となった。
関ヶ原役後に蒲生氏は会津に加増転封となり、笠間には武蔵私市より松平(松井)康重が3万石で入封し、ここに笠間藩が成立した。

康重は慶長13年(1608年)に丹波篠山5万石に転封となり、そのあとには下総佐倉から小笠原吉次が3万石で入る。
吉次は家康の四男で尾張清洲藩主であった松平忠吉の付家老であった。忠吉は慶長12年(1607年)に病没し、尾張には家康九男の義直が封じられたが、このときに忠吉の家臣と義直の家臣の間に争いがあり、それを咎められて吉次は改易される。
吉次改易後は、慶長15年(1610年)まで下館藩主水谷勝隆の預り地、慶長17年(1612年)まで幕府代官本堂重親が管理し、同年7月松平(戸田)康長が下総古河から3万石で入封し元和2年(1612年)上野高崎に転封、翌元和3年10月に牛安永井直勝が上野小幡より3万2千石で入りな元和8年下総古河に移る。

永井直勝と入れ替りに浅野長重が5万3千石で入る。長重は浅野長政の三男で、慶長16年(1611年)4月父長政の死去により、その隠居領であった常陸真壁の地を継いだ。
笠間転封後も父長政が隠棲した真壁の領有を望んで聞き届けられ、領地は真壁郡2万石、笠間周辺に3万石と大きく分かれていた。
譜代ばかりの関東で領地をもてたほど秀忠・家光の信頼が厚く、取り潰された藩の城受け取りや江戸城修築など公役も多く努めた。
寛永9年(1632年)長重死去により長直が家督を継いだ。長直は笠間城下の整備に努め、笠間城下は長直の代に基本が整備されたといっていい。
正保2年(1645年)に長直は播磨赤穂に転封となるが、長直の孫が忠臣蔵に名を残す内匠頭長矩である。

浅野氏の後は井上正利が遠江横須賀より入り5万石を領す。正利は城郭整備にあたったほか、領内検地を行い藩政の基礎を固め、領内寺社の保護に務めた。
正利の跡を正任が継ぎ奏者番となるが、延宝2年(1674年)6月に申次の誤りにより蟄居となる。翌延宝3年4月に許されるが、元禄5年(1692年)に美濃郡上に転封となった。
井上氏の後は松平(本庄)宗資が新封で入り4万石を領す。松平本庄氏は五代将軍綱吉の生母桂昌院の弟で、延宝8年(1680年)に8百俵で旗本に取り立てられ、翌天和元年には蔵米を采地に改められて常陸国内で2千石、天和3年(1683年)に5千石、元禄元年(1688年)に1万石となって大名に列した。
翌元禄2年に1万石加増され2万石、元禄5年(1692年)に2万石加増されて4万石となり、笠間に移された。
桂昌院の弟というだけでの出世であり、宗資の後を資俊が継いで元禄15年(1702年)に綱吉と桂昌院が資俊の屋敷を訪問した際にさらに2万石加増され、遠江浜松に転封となった。

替わって井上正岑が下館から5万石で入封するが、正岑は元禄5年(1692年)に美濃郡上に転封となった井上正任の子である。
井上氏は美濃郡上のあと、丹波亀山、常陸下館と移り、旧地の笠間に戻った。もっとも前封地下館は転封されたものの城地が狭いために、常陸笠間への転封を願い出て許され、実質的には丹波亀山から常陸笠間への転封である。
井上氏は正之、正経と継いで延享4年(1747年)陸奥磐城平へ転封、入れ替わりに日向延岡から牧野貞通が8万石で入封する。
牧野氏は綱吉の側用人であった牧野成貞を祖とする大名で、以後笠間は明治維新まで牧野氏が領有することとなる。

牧野氏の時代は藩財政が窮乏し、入封2年後の寛延2年(1749年)には年貢減免を求めた一揆が起きている。
次の貞長の代も財政窮乏の状態が続き、実収は6万石程度に落ち込み、人口も大きく減少した。
三代貞喜は藩士俸禄の削減、救米の制の実施、徹底した倹約、年貢収納体制の整備など財政立直しに注力し、北陸の農民を移住させる入百姓を行った。
さらに文化6年(1809年)からは藩政の大改革に踏み切り、農村振興のための民政強化、間引きの禁止や出生扶持の下賦、多子報償、勧婚などの人口増加策、農閑期の余業奨励、藩校時習館の設立、上書の制、目付の職務徹底、窯業の奨励などを行い名君とされる。

貞喜のあとは貞幹-貞一-貞勝-貞久と続き、貞久の代の天保13年(1842年)に藩内抗争から寅年の騒動と呼ばれる騒動が起きる。
貞久の跡を貞直が継ぐ。貞直は大坂城代となり、大政奉還後の将軍慶喜を大坂城に迎えた。藩内では勤皇派と佐幕派が対立し、容易に藩論が決せず武力抗争寸前までなったが、慶応4年(1868年)ようやく勤皇に決し、官軍に加わって結城・小山方面に出陣している。
貞直は明治元年(1648年)12月に隠居し、最後の藩主貞寧が12歳で襲封し明治維新を迎えた。

参考文献:江戸三百藩主人名事典(新人物往来社)、藩と城下町の事典(東京堂出版)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ
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