歴史の勉強

高山藩

藩主 在任 石高(万石) 特記
金森長近 天正14~慶長5.10
1586~1600
3.8  
金森可重 慶長13~元和元.閏6
1608~1615
3.8  
金森重頼 元和元.7~慶安3.閏10
1615~1650
3.8  
金森頼直 慶安3.11~寛文5.7
1650~1665
3.8  
金森頼業 寛文5.9~寛文11.12
1665~1671
3.8  
金森頼時 寛文12.3~元禄5.7
1671~1692
3.8 出羽上山へ

現在の岐阜県北部にあたる飛騨国は、下下の国といわれるほど農業生産力が極端に低く、よって古くから過疎地域であった。一方で豊富な森林資源を背景に工業が発達し、、律令時代には税制上庸調を免除される代わりに大工(飛騨工)が挑発された。
室町期には飛騨国主として姉小路氏、守護の京極氏、豪族の江馬氏が鼎立したが、戦国期には姉小路家から出た三木氏が松倉城に拠って支配した。
天正13年(1586年)に豊臣秀吉は越中の佐々成政を討伐したが、このとき秀吉は越前大野城主金森長近に飛騨への侵攻を命じ、長近は三木自綱を攻め滅ぼして飛騨を平定した。

秀吉は飛騨一国3万8千7百余石を長近に与え、長近は高山に城を構えて高山藩が成立し、これより100年余り金森氏が支配する。
元禄5年(1692年)金森氏六代の頼時は出羽上山へ転封となり、高山藩は廃藩となり飛騨は幕府の直轄領となる。
幕領時代は初期は関東郡代伊奈氏が飛騨代官を兼務したが、正徳5年(1715年)からは専任の代官が置かれ明治に至った。

金森長近の入国

金森氏が飛騨に入国したのは天正14年(1586年)10月のことであった。入国後は暫く鍋山城に居て、その後高山外記の居城であった天神山城址に新城を築くこととし、ここを高山と改名した。
工事の開始は天正16年(1588年)、完成は慶長11年(1606年)で足掛け18年に渡っている。長近はこの地を京に見たたて、町の中央を流れる宮川を賀茂川になぞらえ、その東方に寺社を集めて東山と呼び、道路も碁盤の目状にした。
高山は現在でも小京都と呼ばれているが、この原点は長近の城下町整備に遡ることができる。

長近は関ヶ原役では東軍に属して戦い、戦後の論功行賞で美濃上有知、美濃関、河内金田で2万3千石を加増され都合6万1千余石となる。
同時に飛騨の支配は養子の可重に委ねて、自身は上有知に居所を移した。上有知では尾崎丸山の地を選んで居館の整備と城下町の町割りに着手した。
この時点で飛騨は正式には上有知藩の飛地ということになるが、実際には可重の支配下にあって領国経営がなされていた。

長近は晩年は素玄と号して、金森法印と通称され京都伏見の別邸で多くを過ごした。文化人でもあり、茶の湯を千利休に学び、古田織部とも親交が厚く、伏見の別邸に家康、秀忠を招いて茶の湯を催したりもしている。
長近の風を受け継いだのか金森氏は、長近後も代々風流好みの気風であった。長近は慶長13年8月12日に85歳の長寿を全うして伏見に没した。
長近が死去すると、長近生前の方針通りに飛騨の所領は養子可重が継いだ。一方の上有知・関・金田の所領は長近の実子長光が継ぎ、可重は高山藩主となり3万8千7百石を領した。

金森氏の時代

可重の代に「出雲守台所木」と呼ばれる山林政策が実施された。これは各村の農民に最寄の山の材木伐り出しを請け負わせ、材木を採出するもので、高山城下の町人が請け負う場合もあった。
元伐賃のほかに米、味噌、塩などの諸費用を合せて請負人に渡し、材木の値段から差し引いて勘定をする、謂わば藩営の材木生産であった。
切り出された材木は川を下り、国内の下原で商人に売られるか、または名古屋や桑名の問屋に預けられて、相場によって売り払われた。
以後、これが金森時代の山林政策として定着し、原則として山の私有は認められていなかった。

可重は父の長近同様に茶道を好み、千利休の長男道安の弟子となり、秀忠の茶席によく召し出されたというが、元和元年(1615年)閏6月3日に急病により滞在先の京都伏見で没した。
可重の跡を重頼が継いだ。
重頼は秀忠・家光の信任が厚く、将軍参内や日光社参などに供奉した。このころの高山藩はもっとも充実した時期であり、特に宮島平左衛門や茂住宗貞による鉱山開発の成功により金銀の産出も多く、軍役加増を申し出たほどであった。
重頼は寛永18年(1641年)の大飢饉の際には天下の茶器「雲山肩衝」を京極高広に売却して領民を救済したことは有名である。重頼は慶安3年(1650年)閏10月7日に57歳で死去した。

重頼の跡を頼直、さらに頼業と継ぐが頼直は治世5年、頼業は治世6年と短く、寛文11年(1671年)頼業の死去により、わずか4歳で頼時が家督を継いだ。
頼時は外様大名でありながら幕政にも関与し、元禄2年(1689年)に奥詰衆、その後側用人となり五代将軍綱吉に近侍した。
しかし翌元禄3年4月に「其務の応ぜざるにより」解任され、元禄5年(1692年)には出羽上山に転封となった。
解任の理由として、綱吉の意に沿わなかったとか不品行とか柳沢吉保によって失脚させられたなど諸説ある。また転封については幕府が飛騨の森林と鉱山の直轄化を図ったものとされる。
以後飛騨国は明治まで天領として幕府に直接支配されるが、金森氏の転封に際しては領民の反対運動が起き、これは金森氏の治世が善政であったことの証左とされる。

天領の時代

金森頼時の転封の後の飛騨は代官支配による天領時代となった。初期には関東郡代伊奈氏が飛騨代官を兼務した。
伊奈氏の兼務時代は元禄5年(1692年)8月~元禄10年(1697年)10月が伊奈忠篤、元禄10年12月~正徳2年(1712年)2月が伊奈忠順、正徳2年5月~正徳5年(1715年)7月までが伊奈忠逵と三代に渡り、その後正徳5年8月23日に森山実道が専任の代官となった。
なお伊奈氏の支配が始まるとすぐに高山城は加賀藩の手で破却され、高山陣屋が置かれた。

天領時代には大原騒動といわれる大規模かつ長期にわたる農民騒動が起きた。明和8年(1771年)第十二代代官大原紹正による年貢取立ての強化、長年の乱伐のより材木の質量が低下したために山林資源を確保するための休山の施策が発端となり起きた騒動である。
明和8年12月に農民が城下に集まったが、組織が成されておらず翌明和9年騒動はいったん収まった。
しかし安永2年(1773年)に総検地が行なわれると再び騒動となった。代官は近隣諸藩に応援を要請して鎮圧に努め、幕府も強い姿勢で臨んだために騒動は農民側の一方的敗北に終わり、犠牲も多かったという。

幕末期には天領であったために尊王意識は高くはなく、かといって佐幕一辺倒でもなかった。最後の代官となる第二十五代新見正功は高山陣屋内の論を勤皇、佐幕いずれにも統一できずに、慶応4年(1686年)に密かに江戸に立った。逃亡と言ってもよい旅立ちであった。
新見代官失踪後には飛騨鎮撫使として竹沢寛三郎が高山に入り高山陣屋に「天朝御用所」の看板を掲げる。
しかし竹沢は新政府の方針に反する行動を取り失脚し、代って梅村速水が飛騨国臨時取締役となった。
梅村速水はやがて知事に就任するが、民情を無視した政策を強行して暴動を招き、その後免職となり宮原積が知事に就任して廃藩置県を迎えた。

参考文献:江戸三百藩主人名事典(新人物往来社)、新編物語藩史(新人物往来社)、藩と城下町の事典(東京堂出版)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ
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