歴史の勉強

龍野藩

藩主 在任 石高(万石) 特記
本多政朝 元和3.9~寛永4.3
1617~1627
5.0 上総大多喜より
播磨姫路へ
小笠原長次 寛永4.3~寛永9.10
1627~1632
6.0 豊前中津へ
岡部宣勝 寛永10.4~寛永13.6
1633~1636
5.3 美濃大垣より
摂津高槻へ
京極高和 寛永14.12~万治元.2
1637~1658
6.0 讃岐丸亀へ
脇坂安政 寛文12.5~貞享元.11
1672~1684
5.3 信濃飯田より
脇坂安照 貞享元.11~宝永6.11
1684~1709
5.3  
脇坂安清 宝永6.11~享保7.2
1709~1722
5.1  
脇坂安興 享保7.4~延享4.8
1722~1747
5.1  
脇坂安弘 延享4.10~宝暦7.7
1747~1757
5.1  
脇坂安実 宝暦7.9~宝暦9.7
1757~1759
5.1  
脇坂安親 宝暦9.7~天明4.4
1759~1784
5.1  
脇坂安董 天明4.4~天保12.2
1784~1841
5.1  
脇坂安宅 天保12.4~文久2.4
1841~1862
5.1  
脇坂安斐 文久2.4~
1862~
5.1  

脇坂氏入封までの龍野

寛文12年(1672年)に信濃飯田より脇坂安政が5万3千石で入封し、以後明治維新まで脇坂氏が龍野を領有するが、脇坂氏が入封するまでの龍野は領主の交代が激しかった。
徳川家康が江戸に幕府を開くと、龍野の地は姫路藩の領有するところとなった。姫路藩主は池田氏で、輝政-利隆と続いたが、その跡の光政のときに幼少との理由で因幡鳥取に移封された。
池田氏移封の跡、上総大多喜から本多政朝が5万石で龍野に入り、ここに龍野藩が成立した。政朝は龍野城を築き、藩政の基礎を固めたものの、寛永3年(1626年)の姫路城主で兄にあたる本多政刻が死去したために、翌寛永4年兄の跡を襲い姫路城主となった。
政朝の跡に小笠原長次が6万石で新封となるが、5年後の寛永9年(1632年)10月に2万石を加増されて豊前中津に移る。

龍野は天領となるが、翌寛永10年4月に岡部宣勝が美濃大垣より5万3千石で入り、3年後の寛永13年(1636年)6月に摂津高槻に移り、再び龍野は天領となる。
翌寛永14年に京極高和が6万石で新封された。高和の京極家は関ヶ原役の際に大津城主であり、大津城の戦いで功をあげた高次を祖とする家で、高次の子の忠高が二代将軍秀忠の二女初姫を正室に迎え、秀忠の信任も篤く、出雲松江26万石の太守となった。
しかし忠高は参勤中に死去し、嗣子がなかった為に除封された。京極家は源氏の名門であり、また高次、忠高の功を評価されて、忠高死去の半年後の寛永14年に、甥の高和(忠高の弟高政の子)に播磨龍野6万石を与えられた。
高和は万治元年(1658年)2月に讃岐丸亀に移封され、龍野は脇坂氏の入封まで14年あまり天領となった。

脇坂氏の入部

寛文12年(1672年)5月に、脇坂安政が信濃飯田から移ってきて、5万3千石の龍野藩主となった。以後明治まで脇坂氏が十代に渡って藩主を勤める。
脇坂氏は典型的な豊臣大名で、その家号は近江国浅井郡脇坂に住したことにちなむ。脇坂安治が織田信長に仕え、そののちに秀吉の側近となり、賤ヶ岳の戦いでは七本槍の一人に数えられる。
これが脇坂氏の開運となり、天正13年(1585年)5月に摂津国能勢郡にて1万石、同年8月大和国高取2万石、さらに10月には淡路国洲本で3万石となる。

天正15年(1587年)の秀吉による九州征伐では、九鬼義隆、加藤嘉明とともに水軍を率いて城を攻めた。
これ以後、水軍の将としての活躍が多く、文禄・慶長の役でも朝鮮水軍と多くの戦いを演じている。
関ヶ原役の際には西軍に参陣せざるを得なかったが、もともと家康と通じていたこともあって、藤堂高虎の指示で戦中に裏切って東軍に寝返った。
関ヶ原後には石田三成の居城佐和山城を攻めて二心なきを示しているが、安治はもともと家康に通款しており、寝返りにはあたらないというのが通説である。

この結果、本領は安堵され慶長14年(1609年)9月伊予大洲5万3千石に転封される。安治は元和元年(1615年)に隠居し、二代安元が家督となった。
安元は元和3年(1617年)信濃飯田に転封、承応2年(1653年)に死去した。この安元には子がなく、最初に弟安経を養子としたが殺害され、次いで将軍家光の信任篤い堀田正盛弟の安利を迎えた。
しかし安利は19歳で早世し、今度は正盛の二男安政を養子とした。安政は承応3年(1654年)に家督を継ぎ、その後龍野に移封されて龍野藩脇坂家の初代となった。

脇坂氏は外様大名であったが、安政が譜代の名門である堀田氏の出であったことから、天和3年(1683年)に願い出て譜代に列せられ、帝鑑間詰となった。いわゆる願譜代である。
脇坂氏先代安元が外様に不安を感じて、当時老中であった堀田正盛の二男安政を養子として、譜代へ列せられることを目論んだものと言われる。
さて、安政が入封した頃の龍野城は、京極氏の丸亀転封の際に破却されたままであった。そのため入封した安政は城下の商家那波屋を仮の居館とし、藩士も商家や民家、寺院などに泊まった。
したがって安政の喫緊は城下の整備であり、幕府よりの借銀をもって築城を始め、また城下町の整備に着手した。

藩政中期の藩主たち

安政は貞享元年(1684年)11月に隠居し、五男の安照が封を継いだ。安政には長男安村がいて嫡子になっていたが、多病を理由に延宝6年(1678年)廃嫡された。
これに反発した安村は寛永寺の天真法親王に直訴し、このことが幕府に聞こえて安村は若狭小浜藩主酒井忠隆に預けられるという騒動があった。
安照の代の元禄14年(1701年)3月、赤穂藩主浅野長矩が江戸城内で吉良上野介に対して刃傷事件を起し、即日切腹となり赤穂浅野家は改易となった。

隣藩であった龍野藩主安照は備中足守藩主木下公定とともに赤穂城受取使となる。大事件であり、赤穂城内でも一時籠城や切腹など抵抗論も主張されており、受取には難儀が予想され、安照は4千5百名以上の動員をかけた。
同年4月19日、無事に受取を済ませて大役を果たした。安照には1年の在番が命じられたが、龍野在城のままの在番が許されたために、実際には家老を筆頭に2百名あまりを駐留させ、翌元禄15年11月4日、新たに赤穂藩主となった永井直敬に城を引き渡した。

安照は宝永6年(1709年)11月に嫡子安清に家督を譲り隠居した。安清襲封の際に弟安利に2千石を分与し、龍野藩の石高は5万1千石となった。
安清の治世は13年と比較的短く、享保7年(1722年)2月に死去したために、安興がわずか5歳で襲封した。
安興は幼少であったために藩内の重臣間に抗争が起きたとされるが、その原因の一端として深刻な財政難があげられている。
騒動は公にはならず藩内で内々に処理され、結果として幼君安興のもとで藩内は結束し、幕府の介入も避けられたという。

また安興の代の元文5年(1740年)には、龍野史書である龍野志が編纂された。安興は延享4年(1747年)に31歳で死去、跡を嫡男安弘が継いだ。
しかし安弘も短命で、治世10年にして宝暦7年(1757年)に20歳で病没し、弟安実が襲封する。安実もまた短命で、翌々年の宝暦9年(1759年)7月にわずか15歳で病死した。
安実には子がなかった為に、安親を安実の急養子として迎えた。安親は近江宮川藩主堀田正陳の四男として生まれ、寛延2年(1749年)12月に脇坂安種の養子となった。
龍野藩脇坂家の三代藩主安清の弟安利は、安清から2千石の分与を受けて旗本になったが、この安利の子が安種であった。
こうして藩主となった安親は、宝暦14年(1764年)朝鮮通信使饗応役、明和3年(1766年)甲州河川改修手伝など公役を勤めたのち、天明4年(1784年)4月に隠居、二男安董に家督を譲った。

脇坂安董と安宅

龍野藩脇坂氏八代藩主安薫は、脇坂氏歴代のなかで最も著名な藩主である。襲封2年後の天明6年(1786年)関東諸河川普請手伝、翌7年には播磨国林田藩で起きた一揆の鎮圧に藩兵を出動させた。
寛政2年(1790年)に奏者番となったが、安薫は幕閣への志たかく、ために将軍家斉好みの服装や髪をして登城し、家斉の目にとまったという。
翌寛政3年には寺社奉行を兼帯し、享和3年(1803年)に谷中延命院事件を裁く。同事件は日蓮宗延命院住持日道が多数の大奥女中と密通したスキャンダルで、日道は処刑された。

文化3年(1806年)7月には西本願寺の教義を巡る争論、いわゆる三業惑乱事件を裁断し、西本願寺の能化、智洞を遠島とした。
また文化8年(1811年)2月には西本願寺・興正寺本末論争を裁断するなど、寺社奉行として辣腕をふるったが、文化10年(1813年)12月に奏者番、寺社奉行を辞任。病気とも讒言ともいう。
文政12年(1829年)10月将軍の命で再び寺社奉行に登用される。但馬国出石藩仙石家に起きた仙石騒動の裁定を任された。

この寺社奉行再任には「また出たと 坊主びっくり 貂の皮」という落首がされた。貂の皮は脇坂家の槍の鞘に使われ、有名であった。風紀が乱れていた寺社関係者は安薫の再任に震え上がったのだった。
天保6年(1835年)12月に仙石騒動を裁断し、翌天保7年2月西の丸老中格、同年9月に願譜代から譜代となり、天保8年(1837年)7月本丸老中、天保12年2月に74歳で死去した。
安薫は藩政でも、価定方役所を設けて物価の安定を図り、文化2年(1805年)には江戸藩邸に藩校敬楽館を設け、天保5年(1834年)龍野に文武稽古所を建て人材育成に努めている。なお、のちのことだが、敬楽館には安政3年(1856年)学生寮が設置されている。

安董の跡を継いだのは、安宅であった。安宅は安董の長男であったが、庶子であったために正室の子である弟安坦が安董の嗣子となった。
しかし安坦が天保9年(1839年)に死去してしまったために、安宅が嗣子になり、天保12年(1841年)の安董の死去により藩主となった。
天保14年(1843年)10月奏者番、弘化2年(1845年)5月に寺社奉行兼帯となる。さらに嘉永4年(1851年)12月京都所司代となった。

所司代時代の安政元年(1854年)4月に御所が炎上し、そのときの孝明天皇守護及び火災後の復旧に尽力し、その功によって孝明天皇より太刀及び茶室を賜った。
安政4年(1857年)9月に老中となり外国掛となたったが、万延元年(1860年)11月に病気により辞任した。これは同年3月の桜田門外の変による引責ともいう。
文久2年(1862年)4月22日に隠居して家督を安斐に譲ったが、翌5月に再び老中に登用され、外国掛、日光御霊屋惣奉行、将軍上洛御用掛などを担任した。同年9月に病気により老中辞任、明治7年に66歳で死去する。

嘉永の一揆と最後の藩主安斐

安宅の時代、財政窮乏により弘化元年(1844年)から上級藩士の禄高2割削減、諸事倹約を実施したが、年貢増微により嘉永2年(1849年)に農民一揆が起きた。
小田、中垣内、田井、新宮、小犬丸などの農民300余人が、年貢の減免を要求して起した一揆であった。
この一揆は打毀しなどがほとんどなく、比較的おだやかに進んだが、藩の鎮圧部隊が現れると様相は一変し、統制がなくなり大混乱となった。
結果、首謀者2名が永牢、4名が追放などの処分となったが年貢減免の要求は大庄屋の意見もあって容れられた。

すなわち弘化4年(1847年)に京枡を廃して龍野枡を使用することによって年貢を増微したのであったが、龍野枡は廃止されて再び京枡に戻されたのである。
藩ではこの一揆が誇大に伝わることを怖れ、江戸にあった安宅も事件に驚いて調査の為に井口源左衛門を龍野に派している。
安宅は寺社奉行でもあり、将来の栄達のことも考えて、年貢減免の受入、比較的軽い処分などになったと考えらる。いずれにせよ少ない犠牲で一揆の目的が達せられた。

龍野藩の最後の藩主である安斐は、伊勢津藩主藤堂高猷の四男として生まれ、安宅の長子寿之助が幼少の為に、安政5年(1858年)安宅の養子となった。
脇坂氏は譜代大名になったばかりで、また先々代安董、先代安宅が幕府重職にあったこともあって、佐幕派であった。
摂津国海浜の警備を担当し、第一次長州征伐では岩国城を攻撃した。第二次長州征伐にも参陣したが、このあたりから幕府と距離を置き始めた。結局第二次長州征伐では、赤穂郡で病気を理由に進撃を止め、その後帰国してしまう。
以後勤皇に転じて、慶応4年(1868年)の戊辰戦争では新政府軍に恭順し、幕府方についた姫路藩への攻撃に備えたほか、会津方面にも出兵した。
明治2年(1869年)版籍奉還により安斐は龍野藩知事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県によって廃藩となった。龍野藩は龍野県となったのち、姫路県・飾磨県を経て兵庫県に編入された。

参考文献:江戸三百藩主人名事典(新人物往来社)、新編物語藩史(新人物往来社)、藩と城下町の事典(東京堂出版)、御家騒動の研究(清文堂)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ
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