歴史の勉強

敦賀(鞠山)藩

藩主 在任 石高(万石) 特記
酒井忠稠 天和2.9~宝永3.6
1682~1706
1.0  
酒井忠菊 宝永3.7~享保7.2
1706~1722
1.0  
酒井忠武 享保7.3~享保16.8
1722~1731
1.0  
酒井忠香 享保16.10~天明8.8
1731~1788
1.0  
酒井忠言 天明8.8~寛政9.11
1788~1797
1.0  
酒井忠藎 寛政9.11~天保4.5
1797~1833
1.0  
酒井忠マス 天保4.7~慶応3.6
1833~1867
1.0 マスの字は田偏に比
酒井忠経 慶応3.6~
1867~
1.0  

越前国敦賀の地は豊臣時代には大谷吉継が城主として5万石を領して治めていたが、吉継は関ヶ原役で西軍に与し戦死した。
関ヶ原戦後は越前福井藩領に組み込まれたが、大坂の陣後に若狭小浜藩主京極忠高に与えられ小浜藩領となった。
忠高は寛永11年(1634年)閏7月に出雲松江24万石に転封となり、酒井忠勝が武蔵川越から若狭小浜に入り、敦賀も酒井氏の支配下に組み込まれた。
忠勝の跡を忠直が継ぎ、その忠直が天和2年(1862年)に死去すると嫡男忠隆が遺領を相続したが、忠直の遺命で忠隆の弟忠稠に1万石を分与して敦賀藩を成立せしめた。
これが敦賀藩の始まりで、藩領は越前敦賀郡内5千石、近江高島郡内5千石であった。

貞享4年(1687年)に敦賀郡赤崎塩込を鞠山と改称して陣屋を造営したために鞠山藩とも呼ばれていた。
藩主は代々定府であり、陣屋も少数の役人が常駐するだけであり、実質的な支配は本藩である小浜藩の預り地として行なわれていたが、四代忠香の宝暦9年(1759年)から本藩から独立しての直接支配が始まったとされる。
しかし小藩であったために財政難に喘ぎ、安政6年(1859年)に再び小浜藩による支配に戻そうとしたが、領民の強い反対にあって中止された。

七代藩主忠マスは三度に渡り若年寄を勤め、その功により城主格となる。忠マスは幕末の動乱期にあたり佐幕の立場を取り続けたが、近隣諸藩が官軍側につくと次第に立場が苦しくなり、慶応3年(1867年)6月に致仕して忠経に家督を譲った。
最後の藩主となる忠経は佐幕を転換して新政府軍に恭順した。明治3年(1870年)には敦賀藩の名を改めて正式に鞠山藩を呼称したが、同年9月には小浜藩と合併し忠経は小浜藩知事となり、同時に鞠山藩も廃藩置県を待たずに消滅した。

参考文献:江戸三百藩主人名事典(新人物往来社)、新編物語藩史(新人物往来社)、藩と城下町の事典(東京堂出版)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ
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