歴史の勉強

大野藩

藩主 在任 石高(万石) 特記
織田秀雄 天正18~慶長5
1590~1600
5.0 改易
松平(越前)直政 寛永元.6~寛永10.4
1624~1633
5.0 上総姉崎より
信濃松本へ
松平(越前)直基 寛永12.8~正保元.3
1635~1644
5.0 越前勝山より
出羽山形へ
松平(越前)直良 正保元.3~延宝6.6
1644~1678
5.0 越前勝山より
松平(越前)直明 延宝6.8~天和2.3
1678~1682
5.0 播磨明石へ
土井利房 天和2.3~天和3.5
1682~1683
4.0  常陸下妻より
土井利知 天和3.6~寛保3.4
1683~1743
4.0  
土井利寛 寛保3.4~延享3.8
1743~1746
4.0  
土井利貞 延享3.10~文化2.11
1746~1805
4.0  
土井利義 文化2.11~文化7.3
1805~1810
4.0  
土井利器 文化7.3~文政元.5
1810~1818
4.0  
土井利忠 文政元.11~文久2.11
1818~1862
4.0  
土井利恒 文久2.11~
1862~
4.0  

大野藩の成立と松平氏時代

戦国時代に越前を領していた朝倉氏が、織田信長により滅ぼされると、越前各地には一向一揆が起き一時混乱する。
やがて信長により越前は平定され、信長の重臣柴田勝家の支配下に置かれた。この越前平定戦の際に、大野郡には美濃から油坂峠を越えて金森長近が進撃し、一向一揆や朝倉残党を討った。
その功により大野一帯は長近に与えられ、やがて長近は亀山に大野城を築き、城下町の建設を行う。
現在の大野市街の原形はこのときに作られたものであり、亀山の大野城再建天守閣近くには長近の銅像が建てられている。

長近は天正14年(1586年)飛騨一国の領主となって高山に移るが、その間に柴田勝家は豊臣秀吉に滅ぼされていた。
長近は勝家と秀吉の争いの際には勝家についたが、直接戦闘には加わらず、戦後は秀吉に恭順の意を示したために赦されて、やがて飛騨に移ったのである。
長近転封ののち大野は青木秀似、長谷川秀一と秀吉の側近の将が短期間領有し、その後に織田信雄の長男秀雄が5万石で入る。

織田信雄は信長の二男であったが、やがて秀吉の下風に立つこととなり、転封問題で秀吉に反抗して、あっさりと領地を没収され、その子秀雄はわずか5万石で大野に取り立てられたのであった。
その秀雄も関ヶ原役で西軍に与したために領地を没収される。関ヶ原役の頃の越前は、多くの中小大名が分割して領有していたが、ほとんどは西軍に属したために領地は全て収公され、徳川家康の二男松平(結城)秀康が福井藩主となって、一国を支配した。
大野には秀康の重臣土屋正明が封ぜられるが、正明は秀康死去の時に殉死し、これが幕府の禁に触れて改易、やはり松平家重臣の小栗美作が城主となった。
さらに寛永元年(1624年)になると秀康三男の松平直政が5万石で大野城主となる。

直政は寛永10年(1633年)に信濃松本に移され、代って寛永12年(1635年)には秀康五男の松平直基が入り、正保元年(1644年)に出羽山形に転封。
同年に今度は秀康六男の松平直良が入った。直良は延宝6年(1678年)に死去し、その跡を子の直明が継ぐが、天和2年(1682年)に播磨明石に転封となった。
このように初期の大野藩は秀康の子供たちが相次いで藩主となっては転封となる形が続き、いずれの藩主も基本的には前代の治世を踏襲して寺社を保護したほか、直政の代には特産品として和紙の製造を奨励し、直良は新田開発に力を注いでいる。

土井氏の入部

天和2年(1682年)に松平直明に代って、大老土井利勝の四男土井利房が常陸下妻から移ってきた。
利房は、正保元年(1644年)に利勝の遺領1万石を分知されて大名となり、その後加増を得て4万石となる。
一方で幕政にも関わり、寛文3年(1663年)に若年寄、延宝7年(1679年)には老中となった。延宝8年(1681年)2月に老中を辞したあと、常陸下妻より越前大野に入ったもので、大野での実高は大野郡内78ヶ村、丹生郡内13ヶ村、足羽郡内1ヶ村の3万9千549石であった。

利房は入部すると定書56ヶ条を公布して秩序の強化を図り、民政に意を注いだが、石高の割りに家臣数が多く、藩財政は入部時点からかなり苦しかった。
利房は入部して1年後の天和3年(1683年)3月16日に53歳で没し、以後利知-利寛-利貞-利義-利器-利忠-利恒と、土井氏は八代に渡って大野藩主を勤め明治維新に至る。

実質的に土井氏の藩政が開始されたのは、二代利知の代からであった。土井氏は先代利房が若年寄、老中を務めたこともあって家臣数が多く、そのために財政的に苦しく年貢率も高かった。
元禄10年(1697年)には苦しくなる一方の藩財政に対して年貢を増微したため農民の生活は貧しくなり、元禄12年(1699年)に江戸藩邸の利知に対して年貢減免を要求する越訴が起きた。
この時は農民代表を途中の今庄で説得して事なきを得たが、農民の要求はある程度入れざるを得なかった。
この後大野城下の大火や水害、凶作も重なって藩財政は窮乏し、大野町内に御用金が課され、、享保15年(1730年)には藩札も発行している。

深刻化する財政難

大野藩は暫くの間、財政難への対応のために奔走することになるが、それは一方で農民負担の増大を招き、さらに農民間に格差を生み、それが農村の疲弊を招くという悪循環を引き起こした。
特に江戸時代の後期となると、全国的な傾向として貧富の差が大きくなり、貧農層の割合が増加してきた。
そこに天明期から天保期にかけての全国規模の飢饉が襲う。大野藩では飢饉に際して施粥などの対策を行ったが、根本的な対策は取り得なかった。

深刻化する財政難に天明3年(1783年)勝手向御用掛を新設して財政改革にあたり、米穀の他領への移出を禁じたが効果はほとんどなく、農民層の貧困への不満は高まり、つには打毀しや一揆が発生した。
特に天明7年(1787年)6月には大一揆寸前となるほど情勢は不穏であったが、藩では隣の郡上藩や天領の本保陣屋とも連絡を取り、さらに米の買占めや他領との取引禁止などを触れ、辛うじて一揆の発生を回避している。
しかし、これらは一時しのぎの策に過ぎず、4万石の小藩では改革も思うに任せず、大野藩は極めて不安定な状態で幕末を迎えることとなる。

名君利忠の功績

文久元年(1818年)土井氏六代の利器が没し、養子利忠が8歳で藩主となった。利忠は名君といわれる人で、大野城址に銅像が建立されている。
藩政改革を目指した利忠は、天保13年(1842年)に「更始の令」を出して改革の決意を述べ、藩士一同に倹約を求めている。
さらに俸禄借上や削減などはもとより、内山七郎右衛門と内山隆佐兄弟を登用して、殖産興業策を推進することとした。
生糸、絹織物、綿糸、綿布、漆、楮、紅花、桑、たばこなどの生産を奨励したが、大野藩では大野屋という商店を通じて直売した。

大野屋は安政2年(1855年)に大坂に設けられ、たばこを販売したのを皮切りに、箱館、丹生郡織田村、大野城下、中島村、岐阜、大窪村、敦賀港、名古屋、三国港などに続々と開設された。ほかに江戸、高山、今庄などにもあったとされる。
これら販売網を通じて藩の特産品を売るだけでなく、各地の産品を仕入れて他地域で販売するという商業機構を整備し、その輸送には藩船大野丸を持って行い、藩財政の安定に大きく貢献した。
また内山兄弟は大野郡和泉村にあって不振であった面谷鉱山の経営も改革して、銀・銅の産出を盛んにして財政改革に寄与させている。

利忠は天保14年(1843年)に「学校創設の令」を出し、翌弘化元年(1844年)4月藩校明倫館が開校している。
また利忠は蘭学に強い関心を寄せており、土田竜湾、林雲渓を京・大坂に派遣して緒方洪庵のもとで蘭学を学ばせたほか、吉田拙蔵を江戸の杉田成卿の門下に入れて蘭学を研究させている。
そして安政2年(1855年)には蘭学世話役を置いて蘭学振興に乗り出し、蘭学所を設置した。大野藩の蘭学は有名となって全国各地から蘭学所に留学するものが後を絶たなかった。
このような大野藩である洋式軍制への転換も早く、弘化2年(1845年)には野戦砲を鋳造しており、嘉永7年(1853年)3月には洋陣法と呼ばれる洋式戦法による軍事演習を利忠自らの指揮で行っている。

蝦夷地への進出

幕末期の大野藩には、もう一つ蝦夷地の探検開拓事業があった。当初大野藩では、蝦夷地の開拓を希望し、調査までして伺書を幕府に提出したのであるが、口蝦夷(北海道)の開拓は幕府の直営事業として行なうこととなった。
そのため奥蝦夷(樺太)の開拓に熱意を燃やし、早川弥五左衛門を中心とする調査隊を樺太に派し報告書を提出した。
その後、樺太の一部を準領地とされ経営に着手したが、厳寒と資金不足、さらに樺太開拓を熱心に推進した利忠の隠居や内山隆佐の死去、藩船大野丸の座礁大破などがあって樺太経営を断念し、慶応4年(1868年)に樺太の準領地を返還した。

さて明治に入ると大野藩では蝦夷地経営に参画していたためもあって、箱館戦争への出兵を命じられる。
政府軍の一員として江差、木古内での戦いに参加し、五稜郭包囲戦にも参加して活躍、大いに面目を施している。
明治2年(1869年)の版籍奉還によって最後の藩主土井利恒は藩知事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県によって大野県となり、藩政時代は終了した。

参考文献:江戸三百藩主人名事典(新人物往来社)、新編物語藩史(新人物往来社)、藩と城下町の事典(東京堂出版)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ
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